100円玉といちごオレ
◇
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開くと正面のおにぎりコーナーから飛んできた声に心臓を跳ねさせながらすぐに雑誌コーナーの方へと隠れるように折れ曲がった。マスクやコスメの前を足早に通り過ぎてペットボトルの並ぶ奥の冷蔵庫の前で立ち止まり、おつまみコーナーから対角線上を覗きみる。
もくもくとおにぎりやサンドイッチを補充している冨岡さんは、相変わらずコンビニのカラフルな制服が似合わなかった。
月曜三限の社会学で一緒の冨岡さんがここでバイトしているのを知ったのは本当に偶然だ。大学進学を機に引っ越してきてからどこにも見つからなかったお気に入りの紙パックのいちごオレがここに売っていると聞いたのだ。コンビニ三大大手チェーンどころか半分地元の商店のようなこのお店はわたしの行動範囲にはここしかない。
入学してさほど経たない頃、突然知らない人に代返を頼まれて困っているところを助けてもらっただけ。それだけで好きになってしまったわたしはかなりちょろいけど、一週間に九十分、それも二列後ろの席から見つめるだけしかできない毎日に訪れたこの偶然はまさに干天の慈雨だった。
恋愛ごとにうとい自分にそれを活用できるかは別問題だったけど、それでもここに来るための自分への言い訳にはなったから。
深呼吸をしてから、よし、とそれひとつを握りしめ今日もレジへと向かう。
「一点でお会計100円です。このままでよろしいですか」
「あ、はっ、はい大丈夫ですっ」
カウンターに置かれた紙パックと引き換えに100円玉を一枚コイントレーに置く。おつり0円が表示されてからぺこりと頭を下げた。
「レシート結構ですありがとうございましたっ」
外に出る時、ありがとうございました、と追いかけてきた声と冨岡さんが触った紙パックににやけてツーステップを踏んだわたしは多分どこからどう見ても気持ち悪かった。
◇
そういえばあんたが言ってたやつ、四号館の自販機に売ってたよ。
二限終わりの昼休み、友達に案内されてやってきたそのやや古びたロビーで、やった、と飛び跳ねた。四号館は大学の構内でも一番奥、しかも木に囲まれていて薄暗いし取っている講義もないから気が付かなかった。
建物に合わせたかのような自動販売機はやや古い型でお札を入れる場所もないけれど、ぱんぱんに膨らんだ財布には100円玉は数えきれないほどあるし細かいものはもっとある。
あまり来ないし小銭も重いしストックにいくつか買っておこうかと思ったけど、結局200円。『100円』と光るボタンを二度押し、お礼と布教がてらひとつを友達に渡すと、ありがと、と言いながらもくすりと笑われた。
「これでもうコンビニまで行かなくてすむじゃん、良かったね」
ストローを挿しかけた手がつと止まる。……しまった、その通りだ。コンビニに行く理由が一つになってしまったらごまかしがきかない。
そだね、と答えながらたった今感謝したばかりの目の前の自販機をちょっとだけ蹴飛ばしたくなった。
……というのが二週間前の話。
わたしはまたしてもコンビニの棚の裏に隠れていた。
今日はあいにくと冨岡さんの姿は見えないけれど……って違うの、四号館の自販機は売切れだったからなの。
誰に聞かせるでもない言い訳を繰り返して棚へと向かい、思わずあれっと声に出していた。
いつもの場所には野菜ジュースが並んでいた。瞬きをしてみても隅から隅まで確認してみても、ないものはない。
別の場所かと店内を一周して戻ってきた時、ちょうど棚の脇の『STAFF ONLY』の扉から出てきたらしい冨岡さんが、あ、と口を開け、
「……いちごオレの」
と続けるので顔からぼかんと火が出たかと思った。
いちごオレ『の』。
いちごオレの女で認識されてた。当たり前だけど。
「商品入れ替えで、これなら」
立ち竦んだまま曖昧に頷くと指さされたのは少し下の段にあったカップ型のいちごミルク。どうする、と問うような視線を向けられれば買いますと頷くしかない。
「一点でお会計138円です。このままでよろしいですか」
「えっ」
けれどレジに表示され告げられた金額に一気に汗が吹き出した。当然だ、どうして気づかなかったんだろう。これはミルクの味が濃くて果肉まで入っているおいしいやつだ。100円で買えるわけがない。
「……袋にいれますか」
「あ、いえっ、あのっ、そのままで大丈夫ですっ」
固まったわたしを責めるような響きはないけれどここでさらにもたつくのはさすがに恥ずかしすぎる。慌てて財布をさぐれば100円玉が何枚か。でも10円玉は一枚だけであとは5円玉や1円玉もない。
本当なら慌てなくても138円ちょうど払えるはずだった。二週間前までなら。こないだぱんぱんの財布を改めようと小銭貯金やレジ脇の募金箱に寄付し始めたばかりなのだ。
仕方なく置いた100円玉二枚を手慣れた様子で会計しレシートとともに差し出された手からお釣りを受け取りかけ、すぐに引っ込めた。胸の前で指をもじもじと動かして受け取らないわたしにふたたび訝しげな視線が向けられる。
「……? 62円のお釣りですが」
「いえっ、あの、お、おおおおつり結構ですっ!」
「おい、これっ」
まっすぐこちらを向いた青い瞳にたえられず、口も閉じないままの財布を握りしめてそのまま背を向け飛び出した。
あんまり動揺しすぎてお釣りどころかいちごミルクまで置いてきてしまったことに気づいたのは家にたどりついた頃だった。
◇
その週末、わたしは家の近くのバイト先で猛然と働いていた。動いていないとすぐにこないだのことを考えてしまう。だって絶対変に思われた。
こじんまりとしているけれど駅近くのこのパン屋は昼をとっくに過ぎても賑わっていて忙しい。ようやくピークを過ぎて夕方に明日のパンを買いに来る人達が来るまでのわずかなあいだ、ひと息ついてまた思い出しては両手で顔をおおっているとドアベルがカランコロンと音を立てた。
「いらっしゃいま……」
喉で消えた「せ」の代わりに、ひいっと息を呑んで隠れようとしても狭い店内だ、そんな場所はないしもう遅い。冨岡さんは驚いたように目を見開いたけどすぐに何事もなかったようにトレイとトングを手に取った。
わたしの雇い主のご夫婦は夕方の分と明日の仕込みを奥で始めている。二人しかいない店内ではのんきなアコーディオンのBGMもたいして役にはたたない。目を逸らしたって足音も気配もどうしたって追ってしまう。
真っ直ぐにそこへ向かい立ち止まったところにある空のトレイは今週発売したばかりの鮭オニオングラタンパンだ。売り切れたあと他のパンに入れ替えるのを忘れていた。
なんとなく肩を落としたように見えたけれどその後は迷いもせずに選んでカウンターに持ってきたのは、サーモンのベーグルとさっき詰め合わせにしたパンの袋。
「お会計、600円、です」
袋に入れながら冨岡さんが取り出した財布を横目に見る。普段の服装やイメージと同じシンプルなもの。小銭でぱんぱんになんてしないんだろうなぁなんて思い出している場合じゃない。レジ脇には先日書きなおした『クレジット・電子マネー使えません。現金でお願いします』のメモ。そう、このお店はそうなのだ。
小銭を数えているのか少しだけチャリチャリという音を立てていたけれど結局置かれた千円札に、手のひらにじわりと汗がにじむ。落ち着いて、わたしの心臓。
「おつり、400円、です」
なんとかレジを操作しコイントレーにお釣りを置こうとする前に、それをふさぐような低い位置に手が差し出されていた。仕方なくそこへ乗せようとするけれど震える指でつまんだ四枚の100円玉は無情にもその手前でカウンターへ落ち、くるくると回りながら一枚が足下に転がっていく。
「す、すみません……!」
背の高い体を丸めてしゃがみ込みカウンターの下を覗き込もうとしている姿に慌てて店内側へとまわり交代して手を伸ばす、――と。
「なんでこないだ逃げたんだ」
同じ目線の高さに青い目があった。近い。だけどその距離感よりも的確な言葉に思考停止しかける。やっぱり覚えてたしバレてた。
「ごっ、ごめんなさい、あの、その、……お、おつりを受け取らなきゃいけなかった、から……」
「……?」
「だから、ええと……冨岡さんて、おつりを渡すときにこう……するでしょう? 緊張、しちゃって」
100円玉をつまんだ手とは反対の手を受け皿のようにして相手の手を挟み込むように下に添えるジェスチャーをすると、納得してくれたのか、ああ、と小さく頷いた。
「わからなくはないがそれでここの接客は大丈夫なのか」
「いえっ、緊張するのは、とっ、……冨岡さんのときだけ、なんです……」
見開かれていく目でそれが正直すぎたことに気づいた。顔見知り程度の後輩にいきなり意味深なことを言われても困るだろう。気づかないふりをして差し出したお釣りを冨岡さんは受け取らずにじっと見つめてから口を開いた。
「もうこないのか」
え、とわたしが見つめ返したのと、奥でオーブンが焼き上がりを知らせる音楽が鳴り始めたのがほぼ同時だった。もうすぐ夏だというのになぜか「ウィーウィッシュアメリクリスマス」と繰り返す軽快な電子音。
フランスパン焼き上がりましたー、という声で冨岡さんはお釣りを黙って受け取るとそれきり何も言わずに立ち上がり、まだ固まったままのわたしを振り返ることもなく早足でお店を出て行った。
◇
翌日の月曜、緊張しながら向かった社会学の教室をのぞくといつもはもう埋まっているはずのその席は空だった。
まさかわたしのせいで、はさすがに自意識過剰だとわかってはいる。それでも普段は座らない端の席で溜息をついていると、とん、と目の前に置かれたものに顔を上げた。
「え……? ……これ……」
「四号館の自販機に売ってたから」
気にかけてわざわざ買ってくれたんだ。ここからだとかなり遠いのに。
慌てて財布を取り出し渡そうとした100円玉に冨岡さんは首を横に振る。
「このくらい構わない」
「でも、買っていただく理由がないです」
それから、その紙パックのいちごオレと100円玉と、もう二度とお釣りが出ないようにまた小銭で膨らませておいたわたしの財布を見比べ、少し考えてから、
「……財布が小銭で重かったから」
と言った。
その言葉であのお釣りの100円玉四枚を思い出したせいかもしれない。翌週にまたいちごオレを買ってきてくれた冨岡さんに告白しようと思ったのは。
もしもあと二回、400円の分話せたらきっと届くだなんて願掛けまでして。
その次の週は昼に待ち合わせていちごオレと一緒に鮭オニオングラタンパンを食べた。絶対に聞くぞと決めていた『彼女いるんですか』は結局聞けなかったけど、冨岡さんがあのパン屋の近く――つまりわたしと同じ駅に住んでいることを教えてくれて、そのまま隣の席で講義を受けて。
そして最後の週。
前期試験がいつもとは別の教室だとは知らず開始時間ギリギリで飛び込んだせいで一言も話せなかったけど、終わって外で待っていてくれた冨岡さんが手にしていたものに試験の疲れも緊張も忘れてちょっと笑ってしまった。
生ぬるくなったいちごオレっておいしいのかな、って。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開くと正面のおにぎりコーナーから飛んできた声に心臓を跳ねさせながらすぐに雑誌コーナーの方へと隠れるように折れ曲がった。マスクやコスメの前を足早に通り過ぎてペットボトルの並ぶ奥の冷蔵庫の前で立ち止まり、おつまみコーナーから対角線上を覗きみる。
もくもくとおにぎりやサンドイッチを補充している冨岡さんは、相変わらずコンビニのカラフルな制服が似合わなかった。
月曜三限の社会学で一緒の冨岡さんがここでバイトしているのを知ったのは本当に偶然だ。大学進学を機に引っ越してきてからどこにも見つからなかったお気に入りの紙パックのいちごオレがここに売っていると聞いたのだ。コンビニ三大大手チェーンどころか半分地元の商店のようなこのお店はわたしの行動範囲にはここしかない。
入学してさほど経たない頃、突然知らない人に代返を頼まれて困っているところを助けてもらっただけ。それだけで好きになってしまったわたしはかなりちょろいけど、一週間に九十分、それも二列後ろの席から見つめるだけしかできない毎日に訪れたこの偶然はまさに干天の慈雨だった。
恋愛ごとにうとい自分にそれを活用できるかは別問題だったけど、それでもここに来るための自分への言い訳にはなったから。
深呼吸をしてから、よし、とそれひとつを握りしめ今日もレジへと向かう。
「一点でお会計100円です。このままでよろしいですか」
「あ、はっ、はい大丈夫ですっ」
カウンターに置かれた紙パックと引き換えに100円玉を一枚コイントレーに置く。おつり0円が表示されてからぺこりと頭を下げた。
「レシート結構ですありがとうございましたっ」
外に出る時、ありがとうございました、と追いかけてきた声と冨岡さんが触った紙パックににやけてツーステップを踏んだわたしは多分どこからどう見ても気持ち悪かった。
◇
そういえばあんたが言ってたやつ、四号館の自販機に売ってたよ。
二限終わりの昼休み、友達に案内されてやってきたそのやや古びたロビーで、やった、と飛び跳ねた。四号館は大学の構内でも一番奥、しかも木に囲まれていて薄暗いし取っている講義もないから気が付かなかった。
建物に合わせたかのような自動販売機はやや古い型でお札を入れる場所もないけれど、ぱんぱんに膨らんだ財布には100円玉は数えきれないほどあるし細かいものはもっとある。
あまり来ないし小銭も重いしストックにいくつか買っておこうかと思ったけど、結局200円。『100円』と光るボタンを二度押し、お礼と布教がてらひとつを友達に渡すと、ありがと、と言いながらもくすりと笑われた。
「これでもうコンビニまで行かなくてすむじゃん、良かったね」
ストローを挿しかけた手がつと止まる。……しまった、その通りだ。コンビニに行く理由が一つになってしまったらごまかしがきかない。
そだね、と答えながらたった今感謝したばかりの目の前の自販機をちょっとだけ蹴飛ばしたくなった。
……というのが二週間前の話。
わたしはまたしてもコンビニの棚の裏に隠れていた。
今日はあいにくと冨岡さんの姿は見えないけれど……って違うの、四号館の自販機は売切れだったからなの。
誰に聞かせるでもない言い訳を繰り返して棚へと向かい、思わずあれっと声に出していた。
いつもの場所には野菜ジュースが並んでいた。瞬きをしてみても隅から隅まで確認してみても、ないものはない。
別の場所かと店内を一周して戻ってきた時、ちょうど棚の脇の『STAFF ONLY』の扉から出てきたらしい冨岡さんが、あ、と口を開け、
「……いちごオレの」
と続けるので顔からぼかんと火が出たかと思った。
いちごオレ『の』。
いちごオレの女で認識されてた。当たり前だけど。
「商品入れ替えで、これなら」
立ち竦んだまま曖昧に頷くと指さされたのは少し下の段にあったカップ型のいちごミルク。どうする、と問うような視線を向けられれば買いますと頷くしかない。
「一点でお会計138円です。このままでよろしいですか」
「えっ」
けれどレジに表示され告げられた金額に一気に汗が吹き出した。当然だ、どうして気づかなかったんだろう。これはミルクの味が濃くて果肉まで入っているおいしいやつだ。100円で買えるわけがない。
「……袋にいれますか」
「あ、いえっ、あのっ、そのままで大丈夫ですっ」
固まったわたしを責めるような響きはないけれどここでさらにもたつくのはさすがに恥ずかしすぎる。慌てて財布をさぐれば100円玉が何枚か。でも10円玉は一枚だけであとは5円玉や1円玉もない。
本当なら慌てなくても138円ちょうど払えるはずだった。二週間前までなら。こないだぱんぱんの財布を改めようと小銭貯金やレジ脇の募金箱に寄付し始めたばかりなのだ。
仕方なく置いた100円玉二枚を手慣れた様子で会計しレシートとともに差し出された手からお釣りを受け取りかけ、すぐに引っ込めた。胸の前で指をもじもじと動かして受け取らないわたしにふたたび訝しげな視線が向けられる。
「……? 62円のお釣りですが」
「いえっ、あの、お、おおおおつり結構ですっ!」
「おい、これっ」
まっすぐこちらを向いた青い瞳にたえられず、口も閉じないままの財布を握りしめてそのまま背を向け飛び出した。
あんまり動揺しすぎてお釣りどころかいちごミルクまで置いてきてしまったことに気づいたのは家にたどりついた頃だった。
◇
その週末、わたしは家の近くのバイト先で猛然と働いていた。動いていないとすぐにこないだのことを考えてしまう。だって絶対変に思われた。
こじんまりとしているけれど駅近くのこのパン屋は昼をとっくに過ぎても賑わっていて忙しい。ようやくピークを過ぎて夕方に明日のパンを買いに来る人達が来るまでのわずかなあいだ、ひと息ついてまた思い出しては両手で顔をおおっているとドアベルがカランコロンと音を立てた。
「いらっしゃいま……」
喉で消えた「せ」の代わりに、ひいっと息を呑んで隠れようとしても狭い店内だ、そんな場所はないしもう遅い。冨岡さんは驚いたように目を見開いたけどすぐに何事もなかったようにトレイとトングを手に取った。
わたしの雇い主のご夫婦は夕方の分と明日の仕込みを奥で始めている。二人しかいない店内ではのんきなアコーディオンのBGMもたいして役にはたたない。目を逸らしたって足音も気配もどうしたって追ってしまう。
真っ直ぐにそこへ向かい立ち止まったところにある空のトレイは今週発売したばかりの鮭オニオングラタンパンだ。売り切れたあと他のパンに入れ替えるのを忘れていた。
なんとなく肩を落としたように見えたけれどその後は迷いもせずに選んでカウンターに持ってきたのは、サーモンのベーグルとさっき詰め合わせにしたパンの袋。
「お会計、600円、です」
袋に入れながら冨岡さんが取り出した財布を横目に見る。普段の服装やイメージと同じシンプルなもの。小銭でぱんぱんになんてしないんだろうなぁなんて思い出している場合じゃない。レジ脇には先日書きなおした『クレジット・電子マネー使えません。現金でお願いします』のメモ。そう、このお店はそうなのだ。
小銭を数えているのか少しだけチャリチャリという音を立てていたけれど結局置かれた千円札に、手のひらにじわりと汗がにじむ。落ち着いて、わたしの心臓。
「おつり、400円、です」
なんとかレジを操作しコイントレーにお釣りを置こうとする前に、それをふさぐような低い位置に手が差し出されていた。仕方なくそこへ乗せようとするけれど震える指でつまんだ四枚の100円玉は無情にもその手前でカウンターへ落ち、くるくると回りながら一枚が足下に転がっていく。
「す、すみません……!」
背の高い体を丸めてしゃがみ込みカウンターの下を覗き込もうとしている姿に慌てて店内側へとまわり交代して手を伸ばす、――と。
「なんでこないだ逃げたんだ」
同じ目線の高さに青い目があった。近い。だけどその距離感よりも的確な言葉に思考停止しかける。やっぱり覚えてたしバレてた。
「ごっ、ごめんなさい、あの、その、……お、おつりを受け取らなきゃいけなかった、から……」
「……?」
「だから、ええと……冨岡さんて、おつりを渡すときにこう……するでしょう? 緊張、しちゃって」
100円玉をつまんだ手とは反対の手を受け皿のようにして相手の手を挟み込むように下に添えるジェスチャーをすると、納得してくれたのか、ああ、と小さく頷いた。
「わからなくはないがそれでここの接客は大丈夫なのか」
「いえっ、緊張するのは、とっ、……冨岡さんのときだけ、なんです……」
見開かれていく目でそれが正直すぎたことに気づいた。顔見知り程度の後輩にいきなり意味深なことを言われても困るだろう。気づかないふりをして差し出したお釣りを冨岡さんは受け取らずにじっと見つめてから口を開いた。
「もうこないのか」
え、とわたしが見つめ返したのと、奥でオーブンが焼き上がりを知らせる音楽が鳴り始めたのがほぼ同時だった。もうすぐ夏だというのになぜか「ウィーウィッシュアメリクリスマス」と繰り返す軽快な電子音。
フランスパン焼き上がりましたー、という声で冨岡さんはお釣りを黙って受け取るとそれきり何も言わずに立ち上がり、まだ固まったままのわたしを振り返ることもなく早足でお店を出て行った。
◇
翌日の月曜、緊張しながら向かった社会学の教室をのぞくといつもはもう埋まっているはずのその席は空だった。
まさかわたしのせいで、はさすがに自意識過剰だとわかってはいる。それでも普段は座らない端の席で溜息をついていると、とん、と目の前に置かれたものに顔を上げた。
「え……? ……これ……」
「四号館の自販機に売ってたから」
気にかけてわざわざ買ってくれたんだ。ここからだとかなり遠いのに。
慌てて財布を取り出し渡そうとした100円玉に冨岡さんは首を横に振る。
「このくらい構わない」
「でも、買っていただく理由がないです」
それから、その紙パックのいちごオレと100円玉と、もう二度とお釣りが出ないようにまた小銭で膨らませておいたわたしの財布を見比べ、少し考えてから、
「……財布が小銭で重かったから」
と言った。
その言葉であのお釣りの100円玉四枚を思い出したせいかもしれない。翌週にまたいちごオレを買ってきてくれた冨岡さんに告白しようと思ったのは。
もしもあと二回、400円の分話せたらきっと届くだなんて願掛けまでして。
その次の週は昼に待ち合わせていちごオレと一緒に鮭オニオングラタンパンを食べた。絶対に聞くぞと決めていた『彼女いるんですか』は結局聞けなかったけど、冨岡さんがあのパン屋の近く――つまりわたしと同じ駅に住んでいることを教えてくれて、そのまま隣の席で講義を受けて。
そして最後の週。
前期試験がいつもとは別の教室だとは知らず開始時間ギリギリで飛び込んだせいで一言も話せなかったけど、終わって外で待っていてくれた冨岡さんが手にしていたものに試験の疲れも緊張も忘れてちょっと笑ってしまった。
生ぬるくなったいちごオレっておいしいのかな、って。
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