第四話 椿
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◇
「うそ……こんなに人が……」
息を切らせてその街に辿り着いた時、己の不甲斐なさに愕然とした。宵の口の通りにはまだ人が多い。頚を斬り損なった上にこんなところに逃げ込まれるなんて……っ!
柄に手をかけたまま人の行き交う通りを速足で進む。どこかで悲鳴が聞こえないかと耳をそばだてるけれど、立ち止まったわたしにぶつかりかけた人に舌打ちをされうまく探ることもできない。
本当にこんな場所にいるんだろうか……もし騒ぎになってもわたしだけで守り切れるとは到底思えない……でも人を一人食べた後だからすぐには襲わないかもしれない。ああ、あの人の亡骸をそのままにして来てしまった……菫が隠を呼んでくれているはずだけどこんなことなら応援も頼めば良かった。いやだめだ思考が散らかっている。そうじゃない、今は鬼を見つけるのが先だ。わたしが追っているのもわかってるはず。……隠れてる? どこに? どうしようどうやって探せば……
刀に手をかけたまま警戒して歩いていると突然、腕を掴まれ有無を言わさぬ力で裏路地に引き込まれた。
「……っ!」
振り解いて鯉口を切ると同時に、「俺だ」と低く囁かれ柄頭を押さえられる。暗くても見間違いようのない羽織の柄に体から一気に力が抜けていった。
「冨岡さん……」
「落ち着け。見るからに怪しい」
「……すみません……」
言われて深呼吸するとさらに数歩奥へと引っ張られる。すぐに通りの方から駆け足とともに「帯刀」と聞こえてきて通り過ぎた警官が今いた場所をちらりとのぞき込んだ。焦りからか確かに周りが見えていなかったかもしれないと、滲んだ汗を拭う。
「いるのか」
鬼が。問われ、頷く。
「指令が来てここよりずっと南で鬼に遭遇しましたが、申し訳ありません、ここに逃げ込まれました」
「確かか」
「……いえ、街の手前で見失ったので確実じゃないです。通り過ぎて山へ逃げたのかも」
北に連なっていた景色を思い出して唇を噛んだけれど、街に潜まれるよりはそっちの方がまだいいのかもしれない。
「鬼の特徴は」
「柿茶色の着物の女です。獣のようなものを生み出す血鬼術を。手元で何かしているような。……冨岡さんは警備ですか?」
「数日前この付近に鬼の情報を得て来た。が、確かにきな臭いが見当たらない」
説明をすると何事かを考え込んだのか寄っていった眉が気になって聞き返し、思わず目を見開いた。柱が手こずるほど隠れていられるなんてよほど気配を消すのに長けているらしい。
「わたしが追っている鬼のことでしょうか」
「かもしれない。とにかく違和感がある。おそらく俺がいることには勘づいていると思う」
「でもそれなら逃げるか襲ってくるんじゃないでしょうか」
冨岡さんは難しい顔のままで返答はない。けれどすぐに通りの方へと歩き出した。
「どちらにしろお前の追っていた鬼が入り込んだなら犠牲者を出すわけにはいかない。今夜片をつける」
手分けしましょうと提案するも却下され少し後ろをついていく。全然信用されてないのかもしれない。常中が出来るようになったと伝えてみようかと思ったけど結局つぐむ。きよちゃん達は「柱の皆さんにとっては初歩的な技術だそうです」と言っていた。出来て当たり前の事を報告しても仕方ない。それに相変わらず力不足なのはこの状況がとっくに説明している。
「わたし、押されていたんです。真っ黒な影の動きが速くてそれを捌くのに精一杯で、鬼になんてほとんど近づけませんでした。なのにそれ以上の攻撃をしないでどうして逃げたのかわかりません」
思い返して口にすると不甲斐なさとともに疑いが頭をもたげてきた。わたしが強くないとわかって遊んでいたとしても何か企みでもあるのかもしれない。
冨岡さんには及ばないながらも気配を探りながら街を歩く。通りをはずれ坂を上り、やがて景色は密集する住宅街に変わった。夜も更けた穏やかな静けさと家の中から漏れてくる明かり。ここに鬼が出たらと想像して、現実になったらと寒気立つ。
電柱の向こうの暗がりや長屋の奥、時折塀の中を覗きながら四辻にさしかかった時、ぽたりとわずかな音が聞こえて鍔に指を置いた。わたしに先んじたのは冨岡さんだ。追って角を曲がりそこに続いていた光景にはぁっと息が漏れた。安堵と、感嘆の。
細く真っ直ぐな道は両側を椿の長い生け垣に挟まれていた。月夜に浮かぶつややかで凜とした赤。
殺気を消した冨岡さんの後ろで任務中だというのに見惚れてしまう。地面に落ちてもふんわりと咲いたままの美しい姿を思わずひとつ拾い上げた。
「椿が落ちた音だったんですね。わたし大好きなんです。でも父さんが昔、不吉な花だって言っていたことがあって……って、すみません、こんな時に」
ポタリと落ちる様が首が落ちるようだと言って庭には植えていなかった。だけどわたしはこの鮮やかさが好きで落ちた椿を拾って器に浮かべていたっけ。そんな遠い記憶がよみがえったけれど、今は不謹慎すぎる。生け垣の根元にそっと戻した花を冨岡さんはちらりと横目で見た。
「武士の家系か」
「いえ全然」
ここよりもっと北にある農家だった。組合やどこかのお店の色々な人が訪れていたからその中に元武家と関わっていた人がいたのかもしれない。
「俺たちが落とすのは鬼の頚だ」
「はい」
迷信に決まっているし、何かに例えるには椿のその色も落ちる様も鮮やかすぎる。
◇
ひと回りして街のはずれに近づくと冨岡さんは足を北へと向けた。山へと続く道だ。そして街の明かりが遠ざかり周囲が静けさに包まれた頃、その足を止める。わたしも道の先を睨みながらいつでも抜けるように鍔に親指をかけた。
「ようやく釣れた」
真正面の暗闇からだった。低い女の声が聞こえるものの姿ははっきりと見えない。いつの間にと刀を抜き目を凝らすその傍らで、シュ、と気配が動いた。と認識した時には冨岡さんが声の聞こえた方向へ突っ込んでいた。
「!」
けれど高速で駆けていたその足を踏み込み高く飛び上がった。幾度かその青い刀を閃かせてからわたしの隣まで戻ってくる。そうしてからようやく地面から伸び上がってきたなにかを斬ったのだとわかった。
「こわいこわい。でもせっかちな男も嫌いじゃないわ」
鬼の周りを長い鞭のようなものが飛び交っていた。蔓だ。自分の周りで蔓をしならせながら不敵に笑う鬼を凝視すると囁きが届く。
「おそらく速記だ」
「そっき?」
「手元のペンで書いたものが実体化してる。紙ではなく宙になぞるだけで出せるようだ。書きつけるのは一瞬だ。気を抜くな」
正解、と暗闇に橙色が怪しく光った。すっと細くなった目がついさっき戦っていたわたしではなく隣に向けられているのがわかるほど近づいていた。
「あなた、鬼狩りの柱でしょう。街で見かけてからずっと探していたの」
うそ、まさか。
思わず冨岡さんの方を振り返ってしまう。柱だと気づいていてそれでも狙っていたの。十二鬼月でもない鬼が。
「どうやったら食べてやれるか窺っていたのに気配を探るのも消すのも長けているのね、隙がないったら。けど餌を与えてみればまんまと釣れた」
「餌……?」
「女の鬼狩りなど興味がない。お前程度はいつでも食える」
声を出したせいか初めてわたしの方を見るその嘲るような顔にギリッと奥歯を噛んだ。翻弄するためにわたしはここへおびき寄せられたんだ。まただ。また冨岡さんの足を引っ張った。
「柱相手に真っ向から向かうほど馬鹿じゃない」
鬼の手元が小さく動いた。黒い靄が次々に立ち上がってくる。生み出された靄は瞬く間に四肢の獣や鉤爪の鳥のような形になり唸り声を上げる。その数十七八、いや瞬く間に四十を超えたかもしれない。速すぎる。
「柱なら守り切れるのかしらね。見せてもらうわ」
「あ……っ!」
そう言いながらもなぜか背後の森へと姿を消すのを追いかけようと一歩踏み出した瞬間、影の群れが襲いかかってきた。また邪魔を、と構えるもわたし達を飛び越え一斉に街のほうへと向かっていく。いくつも灯る家々の明かりはまだそう小さくはない。
「奴を追え」
どちらを追うべきか判断がつかず首を動かすだけのわたしに指示が飛んだ。
「あの影は俺が行く。お前は奴にこれ以上術を出させるな。深追いしなくていい」
「はい!」
一瞬で姿を消した冨岡さんにわずかに遅れ、山の方へと引き上げた鬼を追った。
鬼をわたしに追わせるということは、血鬼術で出した影よりもこちらの方がまだ対処可能という判断に違いない。あれだけの術を出すために力を分けて弱っているのかもしれない。さっきから戦うでもなく木立の間をひたすら飛び回っているのもその証拠に思えた。
「娘はこちらに来たのか。敵わないのはもうわかってるだろうに」
鬼の背中についているのは蜻蛉のような羽だ。ああして体に取り付けることもできるのか。
何が出るかはわからなくてもせめて出る瞬間を予測できれば。
手元を注視するもそれは一瞬の出来事だった。目の前にぶわりと出現した熊のような影が太い腕を振り上げる。かろうじて受け止めるけれどそのまま吹き飛ばされ木に激突した。背中にびしりと衝撃が走って一瞬息が止まる。肋骨を痛めたかもしれない。いきなりこれじゃまずい。とにかく地上まで落とさないと、と頭上を見上げ足場になりそうな枝へと飛ぶ、はずが突然足下をとられてつんのめった。
「……うわ!」
踏ん張った片足からずぶずぶと埋まっていく。地面が沼のようになっている。生き物だけじゃないってわかってたのに……っ!
「あらあら、随分とのんびりしているけど大丈夫かしら」
今度は左腕が熱くなった。横から飛んできた鷹のような大きな鳥に裂かれたんだ。鋭い爪は隊服ごと腕に食い込み血で濡れていくのがわかる。深い、でも呼吸で止血できるし刀は握れる。
汚泥から足を引き抜き体勢を立て直そうと一度後退するも、
「きゃあ!」
今度は周りをぶんぶんと飛び交う虫に闇雲に刀を振り回す。
「暇つぶしにもならないわね。あなたには飽きたわ」
なんて鬱陶しい術なんだろう……! このままじゃさっきの二の舞だ。力を分けて弱くなってるとしてもこんなに次々と出されたら対応しきれない。深追いするなと言われたけど鬼を斬れば術も消えるはず。多少の怪我は覚悟でやるしかない。その方が早い。
――水の呼吸・玖ノ型 水流飛沫・乱
足が沈み込む前に次を出し泥沼を一気に駆け抜ける。地面に戻ったところで飛び上がり、間合いに入ったところで刀を振るう。
――水の呼吸・壱ノ型
「水面ぎ……っ!」
頚に入りかけた刀が鈍い音を立てた。衝撃を受け痺れが手を伝っている。なんて固い頚……! いや、防いでいたのは突然出現した氷のような鉱物だ。
「惜しい惜しい。世界一硬い石じゃなきゃ斬れていたわよ」
「本っ当になんでもありなのねっ!」
嘲笑した鬼がまた手元を動かした気がして刀を引き抜き距離を取る。向けた刃先がこぼれていた。どれだけ硬かったんだ。歯ぎしりの音に鬼の高笑いが重なる。
「安心なさい。何でもありではないわ。実際に存在するものしか出せない」
さっきの言葉に返事が返ってきた。余裕で遊んでるつもりなんだ。
……考えろ。餌のままでいいわけがない。冨岡さんの役に立て。
「……ああ、そう。じゃあ鵺とか雪女は出てこないのね」
「ええ。でもそうね、書いて出てくれば実在する証明になるのかしら。やってみましょうか」
「雪女はいい。寒いのはごめんだし。他に書いてほしいものがあるんだけど」
「いいわよ。冥土の土産に言ってご覧」
「鬼舞辻無惨」
途端に上がった耳をつん裂くような悲鳴に柄を握る手に力がこもる。予想以上、いや予想外の動揺だった。
「どうしたの、書いてよ。実際にいるんでしょう、鬼舞辻無惨」
「言うな言うな言うな言うな! それ以上は言うなぁっ!」
「どうして? あんた達の親玉なんでしょ。鬼舞辻無惨よ。早く書いて」
「ああああぁぁぁぁっ!」
鬼が奇声を上げながら真っ直ぐに突っ込んでくる。今までと打って変わったような単調さ。迎え打つため構えた時、再び視界を虫の群れが塞いだ。思わずつむった瞼を開けた時には姿が見えない。
見失った……! 逃げた? 隠れた? 動揺していたんじゃないの……っ?
「……上っ?」
梢の揺れた音に咄嗟に体を捻って避けざま、耳元でザクリと音が聞こえた。頭にわずかな衝撃を受け咄嗟に前のめりに倒れ込む。
「……ぅっ!」
何の生き物のものなんだろう、鬼の片腕が大きく太いものに変身しその長く鋭い爪が首の真後ろを通り過ぎていた。片脚で踏ん張り体を起こすと、後ろで束ねていた髪がばさりと離れて地面に散らばる。髪どころか隊服まで裂かれた。首の後ろが燃えるように熱い。
それでも着地した鬼が次の動作に入る前に地面すれすれの低い位置から斬り込んだ。不安定な体勢から振るった切っ先が真っ直ぐ鬼の頚に届き、その勢いのまま腕を振り切る。確かな手応えを感じた。
「斬った……!」
鬼の体が地面に仰向けに倒れ込んだ瞬間、辺りを飛びかっていた虫も消えた。思った通りだ。街の方へ向かった影も消えたはずだ。
けれどあの数を一人で追うなんてさすがに冨岡さんでも間に合わなかったのでは、と街の方を振り返る、と。
木立の合間にその当人がいた。
今すでにそこにいるということはあの影の群れはあっという間に斬ってしまったんだろう。だけど様子がおかしかった。刀を下ろし茫然と立ちすくんでいる。
「……冨岡さん……?」
声をかけようと口を開くのと冨岡さんが驚愕に目を見開いたのは同時だった。
「まだだ!」
わたしの背後に視線を向けて叫びながら駆けてくる。え? と振り返った視界を黒い影が覆っていた。
刃先の喰い込みが少し足りていなかったんだろう。文字通り首の皮一枚でまだ繋がっていたことにも小さく動いた手元にも気がつかなかった。一瞬で盛り上がった巨大な影が視界をふさぐ。振り下ろされる丸太のように太い腕を防ごうと柄を握り直す、けど。
あ、これ、間に、あわな、
──ガシャン
中途半端に受けようとした刀が弾き飛ばされた。衝撃を止め切れなかった影の腕が眼前に迫る。
──ズッ
寸前で冨岡さんの刀がそれを突き軌道を変えた。斬らなかったのは惰性でわたしを襲っていたからだ。同時に体を強く押されて倒れ込む。
地面に伏せた時にそれが見えた。
影のさらに後ろから急激に伸びてくる何か。爪か刀か槍か、とにかく新たに生み出された細長く尖ったもの。冨岡さんの位置からじゃきっと見えてない。
「だめ……っ!」
咄嗟に身を跳ね起こし間に飛び出していた。けれど、柱がいるのにしゃしゃり出たのが悪かった。
「……っ!」
その時を覚悟した瞬間なにかに包まれ身体が反転した。なにも見えない。耳を塞ぎたくなる形容しがたい音がやけに間近に聞こえた。
身を包んでいたものが離れていきそのまま地面に放り投げられる。手をついて顔を上げた時には、鬼の頚がごろんと転がっていくのが見えた。その手前には鬼の体が仰向けに倒れ込み、血鬼術による影とともに燃え尽きた灰のように薄れていた。斬ったんだ、と理解した瞬間、目の前で冨岡さんが膝をついた。
「冨岡さんっ! 大丈夫ですかっ!」
「……鬼は」
「今消えてます!」
「確かか」
「確かです!」
「さっきなぜ確認しなかった」
「……っ」
もちろんわたしの詰めの甘さだし何度だって反省するし謝るけど今はそれどころじゃない。助け起こそうと背に回した手のひらがぐしょりと濡れていく。暗くてよく見えない、見るのが怖い。それほど深く裂かれているに違いなかった。
それなのに持ち上がってきた手は自分の傷ではなくわたしの頭の後ろにまわる。指先で髪をかき回されたかと思うと何かを確かめるように首をさすられた。自分がひどい怪我をしてるのにわたしの心配なんかしてる場合か。
「髪だけか」
「そうです!」
「ならいい」
その腕が、くたりと地面に落ちた。
「冨岡さん! 冨岡さん、寝ちゃだめ! どうしてほしいですか! 言ってください!」
「……少し静かにしてほしい」
掠れ声で言われた時、背後からバサバサと鳥の羽ばたきが聞こえてきた。
「義勇ハ無事カ……」
「大丈夫だ、寛三郎。……藤の家紋の家は確認しているな。そこに行く」
近くに降りて首を傾げる鎹烏に頷いてそう言う声からも力が抜けていくのがわかる。
「わかります。掴まってください」
「いい。自分で立てる」
「……っ、失礼します……っ」
そうは言いつつも刀を納めるのにも一苦労な姿に、余計なことかもと思いつつも血に濡れた体を背負い走り出す。冨岡さんの鎹鴉が寄り添うように飛び始めた。
◆
……だからあのリボンは好きじゃなかったのに。
宵谷の言った通り血鬼術によるあの影は素早かった。襲いかかってくるなら簡単だったものを追うにはかなり厄介な術だ。それでも街に入る手前で全て斬り、人への被害を出させずに済んだ。
戦闘の物音は想定よりもかなり山寄りから聞こえた。深追いするなと言ったはずが、と駆け戻った時、狂ったような鬼の咆哮が聞こえ、直後に前屈みに倒れ込む宵谷とその体から離れて落ちていくリボンが目に入った。
彼女の首が斬られたのだと思った。
普段ならそんな見間違いはしない。してもすぐに気づいただろう。けれど彼女のそれはいつも月明かりの下で淡くなり本来とは違う色に見えていた。蔦子姉さんが気に入っていたリボンと同じ色に。現実と記憶と感情が交錯した。体が動かなくなった。
やられたのか。俺がついていながら。姉さん。共にいれば。俺が仕留めなければ。彼女の実力を見誤ったのか。また守れなかったのか。錆兎だったらどうしてた。もう奴に術は出させない。待機させれば良かったのか。また奪われるのか。失いたくない。本体と今見えている影以外はないか。俺が判断を間違えたのか。嫌だ。嫌だ。いくな。
けれど倒れたかに見えた体は途中で踏みとどまり鬼の頚を斬った。生きていた。安心しかけた時、彼女の背後からあの影が発現した。ようやく体が戦うことを思い出した。彼女に迫る攻撃を防ぎ、頚を斬るための一閃を放つ。油断したわけじゃない、それでも今度は間に合ったと思った。
二撃目は確かに見えていなかった。けれどおそらく受けるか避けるかできていた。
それなのに、この愚か者が。
『だめ……っ!』
飛び込んできた宵谷が邪魔だった。影の攻撃を防げない。鬼本体の頚にも届かない。間に合わない。貫かれる。咄嗟に彼女を抱きかかえ身を捻っていた。
後輩は守った。鬼の頚は斬った。結果としては問題ない。けれど仮にも柱として存在しているというのに刀を振るうでもなく身を挺するとは。なにより戦闘中に腑抜けてしまうとは。斬ったから良いもののもし斬れなかったら、動けなくなっていたら、隊士一人残してどうするつもりだったのか。彼女も街の住人も危険に晒すことになったはずだ。
瞬間の判断の間違い。己の未熟さ故の失態。
それだけの話だ。
だから、宵谷。そんなに泣くな。
「……冨岡さん。気がつきましたか」
鼻を刺激する薬の匂いとほのかな藤の花の香。片頬には乾いた布の感触。どうやらうつ伏せに寝かされているらしい。
重い瞼を持ち上げると思った通り布団と畳が目にうつった。少し視線を動かせば傍には正座する隊服の膝。
「大丈夫ですよ、お医者さんが手当してくれました。すぐ治りますから」
適当なことを言うな。今までどれだけ怪我をしてきたと思ってるんだ。これはどちらかといえば大丈夫じゃない類いのやつだ。今は痛み止めを飲まされたようだが、切れたら肩も背中も猛烈に痛むはずだ。俺を安心させようとするならせめて声を震わせるな。
「……宵谷」
「はい」
文句を言おうとしたのに違う言葉が口から出ていた。
「顔を……見せろ」
俺が顔を動かさなくても済むようにか、上体を倒して畳の上に寝転ぶように目の前まで持ってくる。腫れた瞼と真っ赤になった鼻の頭。頬は土埃で汚れ、引き結んだ口の端が切れている。
「ひどい顔だな」
「はい」
そんなつもりはなかったのに思ったまま言ってしまう。
涙が滲んだ目元を拭うためか頭を傾けた拍子に短くなった後ろ髪が顔を覆うようにこぼれてきた。長かった髪はあごにしか届いてない。女が髪をそんなに短く切られてしまってどれほど落ち込んでいるだろう。
「髪だけか」
いや、これはさっき聞いたな。
「……はい」
でも無事ならそれでいい。
意識が混濁してきて瞼が勝手に閉じてくる。閉じる寸前、少し空いた障子の向こうに鮮やかな赤が目に入った。そうか。戦闘の前にあんな話をしたから勘違いしたのかもしれない。ただ咲いているだけなのに不吉だなんて、人は勝手で、俺は愚かだ。
「宵谷」
顔を洗ってこい、と言おうとしたのに。
「ここにいろ」
「はい」
目を閉じた俺にもわかるようにか、手が包み込まれる。
温かい。生きている。
一度握り返してそのまま眠りに落ちていった。
(続)