第三話 桃花癸水
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◇
──どうしよう。今回はちょっと痛いかもしれない。
昨晩から続く腹痛をだましだまし歩き続けようやく目的地手前の街が見えてきた頃、ほっとしたのかぶり返してきた痛みに立ち止まった。
いたたたた、と下腹に手を当てると自然と体が前屈みになっていく。気のせい気のせいこんなのなんてことないしそのうちおさまるはずと言い聞かせればやがて波は去って行くことは毎月のことなのでもうわかってる。背負った荷物は邪魔になるほどではないけれどいつもより少しかさばっていた。
「みんなどうしてるんだろう……。今度しのぶさんかアオイに相談してみよう……」
独りごちて再び歩き出す。この期間はいつも頭がぼんやりとしてしまってなぜか独り言が多くなっていた。
けれど山間の街に辿り着いた頃には痛みはさらに増していた。午後になって急に冷え始めたせいかもしれない。時々立ち止まってやり過ごしつつ前屈みでなんとか歩を進める。
少し前に相談した医者には「痛みの波があるうちは大丈夫だから甘えるな」と言われたけど、あのお爺ちゃん先生はそれがこんな大津波だってわかっているんだろうか。思い出したらやるせなくなって、ふーっ、と一度深呼吸をして起き上がる。この程度の痛みに負けてたまるか。前に蝶屋敷に入院した時の怪我よりは痛くないはず。
その時のことを思い返せば、庭で冨岡さんに稽古をつけてもらった記憶もよみがえる。大した任務はこなしていないけど、あれ以来自分でもかなり動けるようになったと思う。だというのに今日はこのていたらく。いつもならこの程度の距離の移動なら一時間は早く到着できるはずだったのにと傾いている太陽に追い立てられるように足を速めた。
「……宵谷」
ふいに冨岡さんの声が聞こえた。
ぼんやりしているとはいえ空耳は初めてだった。今回はけっこう重いのかもしれない。目的地に向かう前にせめて綿を当て直しておこうと立ち止まり、どこかないかと周囲を見渡す――と。
「宵谷」
振り返ったところに冨岡さんが立っていた。顔を見るのは久しぶりだった。会いたくなかったわけがない。でも正直今じゃない。胸が弾む一方で存在を主張する下腹の痛みに屈服しそうなこんな情けない日じゃ。
「お疲れさまです! 冨岡さんもこの辺りで任務ですか」
普段通りを意識してなんとか背筋を伸ばして向き合うと、いつもの揺らがない表情がわたしを見るなり曇る。
「どこを怪我してるんだ」
「……え」
「顔色が悪い」
息を呑んでしまったし目も泳いだ。だから会いたくなかったのに、と唇まで噛んでしまう。些細な違和感にすぐ気づく人みたいだ。それともそんなにわかりやすいんだろうか。
「……やだなぁ。わたしだっていつも怪我してるわけじゃないんですよ。少し疲れてるだけです。任務には支障ありません」
「任務の内容は」
「この先の谷間の村の子供が山から戻ってこないそうです。以前にも似たようなことがあったらしくその時は迷子だったようですが、付近には一度鬼が出たことがあるそうで今回も可能性を否定できないとのことです」
「あそこか。そちらには俺が向かう。お前は休んでいろ」
「そんな。お忙しい柱にお願いするわけにはいきません。他の隊士と合流予定なのでこのまま向かいます」
「まともに任務をこなせる状態には見えない」
冨岡さんはそう言うやいなや懐から紙を取り出して何事かを書き付け、寛三郎、と呼び寄せた鎹鴉の足に巻きつけた。初めて見た冨岡さんの鎹鴉は羽の毛艶があまりよくない。柱の鴉がだいぶお年寄りみたいなのが意外だった。
「大丈夫です。日暮れ前には着きたいのでここで失礼します」
「この辺りは俺の担当地区だ。俺が行った方が早い」
おじいちゃん鴉がよろけながら飛び立つ姿を心配そうに見上げながらも口調は強くそう断言される。
「近くに藤の家紋の家はなかったと思う。宿でもとって養生していろ」
「そんな余裕があると……、っ……い……っ、た……」
苦笑して見せようと思った次の瞬間、目眩がした。下腹から突き抜けた今日一番の激痛に我慢できずその場にうずくまる。
「大丈夫か」
大丈夫です、と口では答えたつもりだった。だけど漏れるのはかすれたうめき声だけ。刺すような痛みで息がうまく吸えない。
「おい」
差し伸ばされた腕を掴もうとするけれど。
立、てな……い……。
膝をついて前屈みに倒れ込んだところまで覚えているけどそこで意識が遠のいた。
◇
「……ん」
「起きたか」
目を覚ました時、どうして眠っていたのかよくわからなかった。頭がぼんやりとしている。冨岡さんの声だとわかるもののなぜ聞こえるのかもよくわからない。
「あの……、わたし……?」
「覚えてないのか。道でいきなり倒れた。宿を取って医者に来てもらった。勝手で悪いが薬を飲ませた」
言われてみてようやく思い出す。なるほど頭がぼんやりするのはそのせいかもしれない。きっと鎮痛剤だろう。痛みは収まっていた。
「衣服を緩めた方がいいと言うのでそうさせてもらった」
言われて布団の中で身体をまさぐると確かに詰襟を着ていないしベルトもゆるんでいる。足も楽だからおそらく脚絆もはずされているみたいだ。
誰が脱がせてくれたんだろうと少しだけ思うものの、布団の脇に座ってわたしを見下ろしている冨岡さんの厳しい顔に聞くのはためらわれた。すみません、と言ったわたしに冨岡さんはさらに口を開く。
「己の体調も正しく把握できないのか」
口調は静かだけど怒りが滲んでいた。
「それともそんな状態で任務を遂行する自信でもあるのか」
言い訳の余地もなかった。下手な見栄でかえって手間を取らせてしまったことが心底情けない。しっかりと反省しなければいけないのにわたしの目には勝手に涙が浮かぶ。起き上がろうとするけれど、起きなくていい、と押し止められ情けなさがさらに募った。
「おっしゃる通りです。……申し訳ありません」
声が震えてしまって唇を噛んだ。意のままにならない自分の身体が悔しい。
どうしてわたしにこんなものが毎月やってくるんだろう。鬼殺に命をかけているわたしには必要のないものなのに。ううん、自分が至らないのはわかってるんだからこうなる可能性を考えて対策しておけば良かったんだ。これじゃ冨岡さんに『女の身で』と言われても当たり前じゃないか。
鼻をすすったわたしに返ってくるのはもう沈黙だけ。すみません、と繰り返した時、股のあいだをどうしようもない違和感が襲った。本当にまったく泣きたくなるほどわたしの体は状況を無視する。叱責を受けている最中に気が咎めるものの一度お尻の下に手をやり確認してから起きあがった。
「いいから寝ていろ」
「いえ、その、違うんです」
どのくらい倒れていたのかわからないけどこのままだと隊服もお布団も汚してしまう。面目ないにもほどがあるけど今はこれ以上の恥を晒さないようにするのが先決だった。
「ごめんなさい……っ、お手洗いに行かせてくださいっ」
掛けていた布団も冨岡さんの手も払いのけ、荷物を引っ掴んで部屋を飛び出した。
厠から出た足取りはこれ以上ないほど重かった。階段を上りきってしまうと気まずさは最高潮で、どうかもう冨岡さんがいませんようになんて思ってしまう。
そっと様子を窺いたかったのに、部屋の襖は立て付けが悪いのか少し引いただけでギュイィという派手な音が鳴った。
冨岡さんは振り返ることなく同じ場所に座っていた。一体どんな顔をすればいいのかわからないまま室内に入り布団の上に正座をすると傍らに置いてあった文が差し出された。
「谷間の件だがやはり迷子だったそうだ。怪我をして動けずにいたのを隊士がすでに救出した。衰弱してはいるが無事らしい」
文は先行していた隊士からの報告だった。冨岡さんがさっき書いていたのは彼宛だったみたいだ。また夜が来る前に助かってよかったと安堵の息を吐くけれど、ということは少なくとも鴉が行き来できる時間は経っているということだった。窓の外は日が沈みかけていて、冨岡さんの貴重な時間を奪ってしまったことに唖然とした。
「本当に申し訳ありませんでしたっ。体調管理も出来ず任務に支障をきたすなど言語道断。お叱りごもっともです」
「そんな事を言ってるんじゃない。誰だって具合の悪い時くらいある。まして女の身ではままならないこともあるだろう」
「……え」
気を遣ってくれたんだろうその言葉に顔から火が吹き出したかと思った。お医者さんが来たなら月のものだと気づかれているだろうとはさすがに予想していたけれど。
「あの、えっと、こんなことでご迷惑をおかけしてしまって重ね重ねすみません……」
「そんな風に言わなくていい」
恥ずかしいやら不甲斐ないやらで謝ってばかりのわたしに今度は淡々と、でも意外な強さで言い切る。
「気絶するほどの辛さがあるとは知らなかった。程度の差はあるんだろうがそれぞれに大変なものなんだろう。男の俺にはわからないが」
そう続けた冨岡さんが突然ぎょっとしたように目を見開いた。どうしたんだろうと思うのとほぼ同時に自分が前触れなく涙をこぼしていることに気づく。慌てて拭うけれど目の端からぼろぼろあふれて止まらない。
「すみません、なんか、びっくりしちゃって。前に人に、甘えるな、って言われて、わたしの痛みって誰にもわかってもらえないんだな、って思ってたから、つらいんだなって言ってもらえたのが、嬉しくて」
……そうだ、わたし、ずっとつらかった。お爺ちゃん医者に言われた言葉も、初めて来た時の育手の先生のもどかしげな表情も、ぼんやりするなと仲間に苛々されるのも。不甲斐ないこの体も、弱音を吐きたくなる未熟さも、全部飲み込んで頑張らなきゃって自分を叱咤するのも。
鬼に立ち向かうことがどれほど厳しいかわかってるつもりだ。鍛錬して鍛錬してそれでも足らなくて、些細なことが命取りになるからからみんな必死なんだって。
だけど冨岡さんは全然違うことを言う。
「女が命をかけて子を産むために必要なものだろう。俺もそうして母が産んでくれたのにそんなことは思わない。怒ったのは体調が悪いのをお前が隠したからだ。目の前に俺がいるのになぜ頼らない」
優しいのは知っていたけどそんな風に怒ってくれるんだ。
「ありがとう……ございます」
ようやく言えた謝罪以外の言葉を受け取る代わりに冨岡さんは、
「いいから休んでろ」
とわたしがさっき跳ね飛ばした布団を引っ張ってきた。
◇
それから冨岡さんは少しだけ傍にいてくれた。さっき言っていた「担当地区」が気になって聞けば柱は任務だけでなく警備や情報収集でほぼ出ていることなどを大まかに教えてくれる。広大な地域を駆け回る柱に出くわすことは本当に稀みたいだ。
「前に蝶屋敷で稽古をつけてくれた時はしのぶさんもいましたけど、じゃあお二人に同時に会えたのはすごい幸運だったんですね」
「胡蝶以外の柱もそれぞれの地区から戻ってきていた。翌日が柱合会議だったから」
冨岡さんがそう言ってついでのように教えてくれたのは、鬼になった妹を連れているという新人隊士のことだった。
鬼が人を襲わず隊士とともに戦う?
ただでさえ驚いているところにその名前を告げられ声がうわずる。
「か、竈門くんなら会ったことがあります。挨拶しただけですけど」
あの数日後、退院する時にアオイに声を掛けに行くと一緒にいた男の子は、機能回復訓練でしごかれたのかへろへろの顔でそれでも行ってらっしゃいと明るく声をかけてくれた。けれど妹のことはぜんぜん知らなかった。
難しいことはよくわからないけど柱のみなさんが決めたことならきっととても重要なことなんだろう。だからこそ背筋に寒気が走った。もしも今日冨岡さんに知らされないまま出会っていたらわたしは間違いなく斬ろうとするだろう。鬼殺隊が非公式の組織だからなのか情報が漏れないよう制限しているのかはわからないけど、知ろうとしないと何もわからないのも少し困りものだ。
定期的にアオイに聞いてみるしかないなと思いながら頷くと、冨岡さんは刀を手にして腰を上げた。
「行かれますか」
「食べられそうなら宿のものに声をかけろ。頼んである。ここは明日まで借りてる。支払いはしてある」
「何から何までありがとうございます」
「礼なら仕事で返せ。ただし無理はするな」
「はい」
お気をつけて、と伝え頷いた冨岡さんの背中を見た途端に鼻の奥がつんとした。襖を開けて廊下へと出て行くのを見送りもせず布団を顔まで引っ張り上げる。なにもかも手配してくれて、それでもまだ離れがたいと思ってしまった厚かましさに気づかれたくなくて。
「……行かないで」
それでも堪えきれずに本音はこぼれるのだから笑ってしまう。まったくこの時期はこんなにも制御ができない。せっかく会えたのにいつぞやの稽古の成果も見せられず、逆に足を引っ張ってしまったばかりでなにが行かないでだ。
柱が抱えてる仕事の話を聞いたあとでは余計に情けなくて、こんなんじゃだめだ、と膝を丸め押し込める。
だけど。
「……さみしい」
今度は自分の意思で呟いてみる。だって冨岡さんは無理するなって言ってくれた。
「いたい、……つらい」
誰も聞いていない。だけどわたしだけは聞いている。一度耳に届いてしまえば固まっていたものがどんどんと溶けて溢れていく。
「……母さん、どうすればいいの、教えてよ、つらいよ、父さん、兄様……さみしいよ……誰かそばにいてよ……」
今までに何度も弱音をはいたし文句も言った。だけどこれだけは言いたくなかった。この暗闇にひとりぼっちだと認めてしまったらもう一歩も進めなくなりそうだったから。自分のことを哀れんでいる暇はないのに。
だけどもらった言葉は心の奥まで届いてしまって押し込めていたものが堰を切ってあふれ出す。全身を巡り口や目からこぼれていくそれは、少しの痛みを伴いながらも不思議とどこか心地よかった。
どのくらいそうしていたんだろう。嗚咽が止まったころ布団の端を握りしめていた指先に冷たい風を感じた。そういえば冨岡さんがいたときは寒さなんて感じなかったなと顔を出し、思わず息が止まった。
「…………え」
どうして。とっくに行ったはずなのに。
開いたままの襖の向こうには、見間違えようのない亀甲模様。襖に手をかけた冨岡さんは最後に見たのとほとんど同じ場所、同じ体勢でうつむいた横顔を見せていた。
「す、すみませんっ! もう出ていかれたのだとばかり……!」
本当に今日は朦朧として何も見えてないらしい。
きっと襖を閉める前にわたしが泣き出したから困ってしまったんだろう。この部屋の襖はとんでもない音を立てて存在を知らせる。
冨岡さんは、顔の前でわたわたと両手を振るわたしをちらりと振り返りすぐに戻ってきて元いた場所に腰を下ろした。
「他にできることはあるか」
「いえ! もう充分なほどしていただいてます! しっかり休んで復帰しますので!」
「遠慮するな」
「ややややや、本当に! 情けないところを見せてしまってお恥ずかしいです!」
「体調が悪い時は誰だって弱気になるものだろう」
確かにその通りだった。全部聞いていた人に虚勢を張っても意味がない。
と思ってしまったからなのかはわからないけれど、冨岡さんの沈黙は澱みのなくなって軽くなった身に心地よく沁みた。家族でもない目上の男性だけどいいのかなと甘えてしまったのは、どこか困ったような顔が上官としてのものとはなんとなく違って見えたから。
そして冨岡さんも弱気になることがあるんだと気づけば、差し出してくれた優しさを受け取りたくなったから。
「……もし、お時間が大丈夫なら、少しだけ手を握ってくれませんか。温まると楽になるんです」
布団から片手を出すと、冨岡さんは特に躊躇う様子もなく両手で包んでくれた。思っていたよりもずっと大きな手だった。体温が低そうな人だと思っていたのに意外にも温かい。父さんや兄様もこうだったんだろうか。固く乾いた手のひらが手首の方まで温めてくれている。
「冷たいですよね、すみません」
「構わない」
でもなんだか慣れてる気がするなと思えば自然ともしかして好い人がいるのかと考えてしまう。
冨岡さんにそういう女性がいても別に関係ない。わたしが好きだから好きって言っているだけで同じものを求めているわけじゃないから。ああ、でも本当にそうならもう伝えてはいけないのか。
そう考えたらちくりと胸が痛んで、もう片方の手で押さえると、
「……姉も昔、辛そうにしていた」
冨岡さんがそう呟いた。わたしに話すというよりも思い出してつい口にしたという様子だった。
鬼殺隊に入ってから誰かの家族の話は自分からは尋ねないようにしていた。でも本人から口にしたのなら聞いてもいいことなのかもしれない。
「お姉さんがいらっしゃるんですね」
「ああ」
「お姉さんにもこうしてあげていたんですか?」
「大したことはしてない。手を温めたり布団を敷いたり、水を運んだり握り飯を作るくらいだったと思う」
「へぇ……。いつか食べてみたいです、冨岡さんのお握り」
お握りをにぎる冨岡さんを想像したらなんだかとても可愛い姿が浮かんで小さく笑うと、冨岡さんも肩の力を抜いたように見えた。手を繋いでいるのはやっぱり気まずかったのかもしれない。落ち着かないのかただ手持ち無沙汰なのか珍しく会話を続けてくれる。
「仲が良いんですね」
「親もいなかったし年が離れていたから」
やっぱり聞かない方が良かったかと強張ったわたしに気づいたのか、
「ああ……、両親は病死だ」
そう言い足すのを聞いてほっと息を吐く。
冨岡さんは昔から優しかったんだなと思ってそう言うと、そんなことはない、と今度は小さく首を横に振る。
「優しかったのは姉のほうだ。俺は子どもの頃よく風邪を引いて寝込んでいたから迷惑をかけていたと思う」
「冨岡さんは、お姉さんの体調が悪いときに迷惑だって思ったんですか?」
「……いや」
「それならきっとお姉さんも同じだと思います。大事な弟になにかしてあげたいってただそれだけで、迷惑とかじゃ」
「同じじゃない」
かぶせてきた言葉と共にぴくりと指が動いた。握られている手に視線を向け、戻した時には冨岡さんはどこか遠くを見ていた。布団に目を落としながらもどこか遠くを。
そりゃあもちろん同じじゃないだろう。だって上の子の方ができることは多いんだもの。それを力不足だと思っているんだろうか。
「そうかもしれません。でも今わたしにこうしてくださってる冨岡さんもやっぱり優しいです」
手にほんの少しだけ力をこめると握り返してくれる。
そんな小さな反応でどれだけ安心できるか冨岡さんはきっとわかってない。わたしの分も、お姉さんの分も。感謝を受け取ってくれないそれが少しもどかしかった。
「さっき仰ってましたよね、具合が悪いときは誰だって弱気になる、って。もし冨岡さんがそうなったら呼んでくださいね。なんでもしますから」
「必要ない」
「わたしがしたいんです。今日のお礼です。なにをしてほしいですか? 手……はわたしの方が冷たいからだめですよね。あっ、でも熱が出たときならひんやりして気持ちいいかもしれません。お握りも作れますよ。お布団も敷きますしお掃除もします」
「だから必要ない。礼なら仕事で返せばいいと言ってる」
「必要になるくらい寂しくなったらでいいんです。お姉さんには何をしてもらっていたんですか?」
いつの間にか冨岡さんは眉根を寄せながらもわたしを見ていて、しつこく尋ねると小さな溜息をついて押し黙ってしまった。だけど宙に這わせている視線でなにかを考えているのがわかった。
適当にあしらうこともできるのにやっぱり優しいなぁと待っているとやがて、そういえば、と結んでいた唇をほどいた。
「姉さんは」
「はい」
『姉さん』って呼んでるんだ。自然な調子で変わった呼び方に思わずほころんだ時だった。
冨岡さんは繋いでいた手を離すと捲れてしまった布団の端を持ってわたしの鼻の上まで引っ張り上げてくれた。そうされてから冷えた空気で鼻の頭が冷えていたことに気づき、お礼を言いかけ、息を飲み込んだ。
「……?!」
布団で包み込まれた体の上にそのまま上半身が覆い被さってきた。
耳のすぐ横についた両肘で体を支えながら、
「布団の神様」
そう小さく動いた唇と伏せられた濃いまつ毛が微かに揺れるのを、わたしは間近で見つめるしかできなかった。
「どうか早く治してください。どうか辛いところを全部吸い取って下さい」
「と、みおかさん……っ」
「このまま十数える。一、二」
急激に熱くなった頬を押さえたいのに押し潰さない程度にかかる重みで動けない。無理です無理です無理です無理です。十もこうしていたら心臓が壊れてしまいます。
「三、四」
「とみおかさ……っ」
「五」
「ちかい、です……っ!」
声にもならないかすれた悲鳴をあげるとようやくパチリと目が開いて視線が交差した。
呼吸を止めていたのは実際には一秒か二秒くらいかもしれない。息を吐いたら触れてしまいそうで固まっていたわたしから視線を逸らすと、冨岡さんは何事もなかったかのようにゆっくりと身を起こした。
「姉さんはこうしてまじないのようなことをしてくれた」
「あ! あ、はい! なるほど、おまじないですね! なるほど!」
布団を頭まで引っ張って潜り込む。
今のって有名なおまじない? 世間ではよくやるものなの? だとしても冨岡さんがやってはだめだ。少なくともわたしには。あんなことされたら熱が上がって倒れてしまう。
「あの、教えていただいて嬉しかったです、けど、あんまりやらない方がいいと思います……」
だからそう思って言っただけ、なんだけど。
「そうだな。いまさら神も仏もない」
低くこぼされた言葉にそろりと頭を出す。そっぽを向いている冨岡さんの横顔は普段と変わらないけどその気持ちは今度はよくわかった。わたしも家族を失った日からそう思っているから。
ああ、どうして気づかなかったんだろう。『両親は病死だ』って言ってた。『年が離れていた』とずっと昔のことのように話していた。そうか、冨岡さんは多分、お姉さんを。
以前わたしの家族の話を聞いてくれた時のことを思い出す。あんな優しい真似はできないけれど。
「でも、布団の神様はいると思います」
今思ったことをそのまま伝えると冨岡さんは、そうか、といつものように淡々とそう答えてくれた。
◆
宵谷の目元が眠たげになってきた頃、辞して外に出てから僅かに溜息をついた。
『近い、です』
真っ赤な顔と喘ぐような声に、やってしまった、と思った。柄にもなく昔の記憶に引きずられていたとはいえ年頃の娘にすることではなかった。
いつも臆面もなく、好きだ、と口にするくせに随分と初心な反応でつられてこちらまで緊張してしまった。……直前まで嗚咽していたのに。
そのまま去ってしまえば良いだけなのに彼女の本音が聞こえた瞬間足が動かなくなった。遠い昔に置いてきたその声を脆弱だと切り捨て放っておくことがどうしてもできなかった。調子が狂う。だから宵谷の近くにはあまり行きたくないというのに。
宿の二階を振り返る。もう眠りに落ちただろうか。目が覚めてまた弱気になっても今度は『布団の神様』がなんとかするだろう。
そう思うと真冬の夜だというのに胸の奥が少しだけ温かい気がした。
◇
しばらく後にしのぶさんに相談すると、脚を冷やさないことと普段の食事でだいぶ変わると教えてもらった。
それともうひとつ。
「『全集中・常中』、ですか……?」
「はい。もちろん意識的にその時期をずらすとか痛みが全くなくなるというわけではありませんが、結局は全身を観察して管理することが基本ですから」
正直無理だと思った。型を出すときに呼吸を切り替えるだけでも大変なのに四六時中だなんて考えただけで倒れそうだ。
だけどそれを簡単に言うしのぶさんは簡単にできるということだ。そういえば冨岡さんの手が温かかったのもきっと常中をしていたからなんだろう。
「けどあまり辛いようなら一度きちんと診てもらった方がいいですよ。婦人科の医者を紹介します。いつか結婚して子どもを産む場合に障りがあると困るでしょうから」
やる前から諦めそうな己の未熟さを反省し決意を固めるわたしに助言するしのぶさんに、思わず目を瞬いた。
「前に冨岡さんにも似たようなことを言われました。女は腹を大事にしろ、と」
「冨岡さんが? そうですか」
「はい。でもわたしにはそういう将来を考える余裕がありません。柱のみなさんはすごいですね。ちゃんと先を見ていて」
しのぶさんは少しだけ長くわたしを見つめてから立ち上がると棚から袋を取り出した。
「鎮痛薬です。濫用しないでくださいね」
「いいんですか。ありがとうございます」
いいえ、とふわりと向けられる微笑みに思わず見惚れてしまう。いや、見惚れている場合じゃない。一歩でも近づけるように頑張らないと。少なくとも体調不良で任務に支障が出るなんてことは二度としたくない。甘えてばかりはいられない。
「常中、できるようにがんばります!」
意気込んで診察室を出ると、きよちゃん達に出くわした。全集中の常中をするんですか、と聞かれ頷くとニコニコと縁側へと手を引かれる。
「イチカさん、頑張って下さいね!」
声を揃えて元気にそう言うと、なぜか瓢箪をどこかから取り出した。
⬜︎
「やっぱり彼女のことでしたか」
きよ達と一緒に遠ざかっていく声を見送ってからしのぶは柔らかな声でつぶやいた。
『胡蝶、月の障りに効く薬はないか』
たった今彼女が座っていた椅子で大柄な男性がそう聞いてきたのは、つい先日の診察中のことだ。
「冨岡さん、月経があるんですか?」
「あるわけないだろう」
「冗談ですよ。どなたか好い人でもできたんですか」
シャツの前を開けた胸に聴診器をあてながらそう聞けば、怪訝そうな表情でこちらを見下ろし、のそりと口を開く。
「任務に支障が出る者がいては困るだけだ」
「なるほどなるほど。喋らないでください」
ということは隊士なのか。聴診器を離してカルテへと向き直る。
呼吸、肺、正常。ただし、……いや、これは書くのはやめておこう。
「薬はありますので後でお渡しします。ですが普段の食事や生活を調えるよう言ってあげてください」
本当は夜にしっかり休めればいいのだけどそれは言っても詮ないこと。夜は哀れな鬼にお仕置きをする時間だ。
書き込みながら基本的なことを伝えるたびにこくりこくりと頷いているのが少しだけ微笑ましかった。
「胡蝶は大丈夫なのか」
「ええ」
シャツの釦をかけ終わるなりふいにそう聞いてくるので即答する。少し前から訪れていないと言えるはずもなかった。藤の花の毒の影響が出始めているのは誰にも気付かれたくない。だけどちょっと即答しすぎたか。
顔に向けられる視線から逃げるようにカルテに意味もなく書き込み閉じる。表紙の『冨岡義勇』の文字は姉さんのものだ。
「冨岡さん、女性に軽々しくそういうことを聞くなんて無神経ですよ。だからあなたは嫌わ」
「嫌われてない」
いつもの軽口を遮られてから、そういえばこの朴念仁に好意を寄せている隊士がいたことを思い出した。以前ここの庭で稽古をつけてもらっていた。アオイと仲が良い、水色のリボンをつけていた彼女。
あんな風に気持ちを真っ直ぐに伝えられては目の前のこの鈍感男も流石に何か思うところがあるのだろうと思ってはいたけれど。
「なにが『任務に支障が』ですか」
それを嘘だとまでは言わないけれどあの時小さく跳ねた鼓動はもっと素直だった。でもまぁ女性の体を気遣える人というのはわかった。心配してくれたのに軽口で返したのはちょっと可哀想だったかもしれない。
彼女のカルテに目をうつし再びペンを取る。誰の目も気にせずに伝えられるほどの恋心とはどんなものだろう。女子として興味がないわけじゃない。だけど、覚悟が揺らぐほどじゃない。
『将来を考える余裕がありません』
彼女の言葉もただの諦めではなく覚悟のひとつではあるんだろう。だけど、望んでほしい、と心のどこかで思った。
彼女は彼を変えられるだろうか。
少なくとも強靭な覚悟で凪いだ水面のように保っている彼の心に細波を立てることはできるようだ。
良いことだと思う。流れが止まった水の底なんてどんどんと澱み腐っていくだけだ。
「本当に、世話の焼ける冨岡さんですね」
頼みましたよ、と一度指でカルテを叩いてから棚へと戻してカチリと鍵を掛けた。
(続)