第十二話 竜胆
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小春日和のその日の午後、すっきりと冴えた空に目を瞬かせながら山を下っていた。
深く呼吸をするとかすかに焦げたような腐ったような匂いがして、そういえばと近くにあるという温泉のことを思い出した。昨日までは風も強く気温も低くて温泉に入れたらさぞ癒やされただろうけど、稽古が終わった後はかなりこたえていて結局一度も機会がない。
「休憩所もできたからさ、たくさん温泉入ってね」
待ち合わせに行けなかったことを善逸くんに謝った時に場所を教えてくれたっけ。何か察してくれたのか、それ以上何も言わずにいてくれた彼は、やっぱりすごく優しい。
色づいた木々を見上げながらぼんやりとそんなことを考えていたせいか、あんなにも目立つはずの片身替わりの羽織を行く先に見つけるまでに時間がかかった。横道はない。仕方がないので来た道を引き返すと、枯草を踏む乾いた音が追いかけてきた。
「宵谷」
「近づかないでください」
呼び止める声に返事をすると自分で思ってた以上に硬い声が出た。
「わたしには冨岡さんへの接近禁止命令が出てます」
「だから避けるのか」
「別に避けてません。そんな余裕がないだけです」
わたしの腰には日輪刀はない。本部に預けたままでまだ返してもらえていないからだ。
柱に刀を向けた罰はどんなものだろうと思っていたのに、自分から申し出たことを考慮されたのと強化訓練中に謹慎させるのも時間の無駄ということで、宇髄さんのところで徹底的にしごかれたばかりだった。
初めてお会いした元音柱の宇髄さんは目の前に立つとものすごい威圧感で、端正な顔立ちに厳しい表情を浮かべていた。そりゃそうだ、柱に真剣で斬りかかったんだから。
他の人の倍、とはいわないけど、とにかく走らされた。平坦な山道だけじゃなく高低差のある場所を登り降りしたり重しを持って走ったり。
禁止されてるわけじゃなかったけど他の隊士と距離を置くわたしに、須磨さんはよく話しかけてくれた。雛鶴さんはおにぎりの他に南瓜の煮物を作ってくれたし、倒れ込んだ時にはまきをさんが介抱してくれた。
滞在中は指示と命令しかしなかった宇髄さんはようやく合格をくれたついさっき、お礼を言って下げたわたしの頭を何も言わずに撫でてくれた。雛鶴さんもまきをさんも須磨さんも代わる代わる抱き締めてそうしてくれたその場所にはもう、露草色のリボンはついていない。
「話がしたい」
「話?」
冨岡さんの口から出たその癇に触る単語を吐き出すように繰り返す。
「いまさら必要ありますか。充分聞きました。おっしゃる通りだと思います。いつまでも実力も伴わないくせに口だけ一人前で出来もしないのに文句だけ言って、たかが一度口を吸われたからって調子に乗ったうえに逆上して柱に刀まで向けるような奴はやめろと言われても当然とは思いますけど、ご覧の通り鬼殺隊はやめませんしやめさせられませんでしたし、他の人にこれ以上遅れをとりたくないのでこれから次の稽古へ急ぐのでお話することはないかと思います」
堰を切ったようにまくし立てる声が震えているのは怒っているからだ。宇髄さんには申し訳ないけど稽古の成果はあったとしても懲罰の分の効果なんて全然ない。刀を抜いたことすら反省なんかしてない。
「もうお会いするつもりはないので安心してください。失礼します」
「逃げるな」
「逃げたのは冨岡さんでしょうっ!」
足早に脇を通り過ぎようとするけど、腕を掴まれる。有無を言わさない強引さとその言葉にカッと頭に血が上った。
「話がしたかったのはわたしです! 冨岡さんは何も言ってくれなかったじゃないですか、そうですよね! わざとわたしを傷つけようとしたことなんてわかってます! どうして本音を言ってくれないんですか! どうして遠ざけようとするんですかっ!」
「少し落ち着け」
「落ち着けってなんですか! これでも自制心総動員してるんです! 平常心なんて保てませんよすみませんね教えていただいたのに不出来で! 大体平常心平常心てなんなんですか! そっちだって魔が差したって言ったくせに!」
振り解こうと腕を思い切り振るけどびくともしない。かなわないことなんて最初からわかってる。それでもわたしは真剣で、そのことだけは認めてくれていると信じてた。
「そんなにわたしは役立たずですか! そんなに鬱陶しいですかっ! ならもう目の前に現れません……っ、だからもうこれ以上わたしをかき乱さないで……! もう放っておいてくださいっ!」
「待てっ」
「離してくださ……、いや……っ!」
腕だけじゃなく全身でもがくと、掴まれていた腕が強く引かれて距離が埋まる。唇がふわりとかすめる感覚に言いようのない怒りが込み上げ、反対の手で拳を握り思い切り振り上げるけれど、簡単に掴み取られてしまって睨むことしかできない。するとすぐに腕も離して何もなかったかのような表情で見下ろしてくるから、余計に怒りが増す。
「また魔が刺したんですか!」
「不可抗力だ」
「柱のくせにそんなわけないでしょう! そうやって黙らせようとするなんて最低です!」
「わかってる。それでも話を聞いてほしい、もう触れないから」
泣きたくなんかないのに目から涙がぼろぼろとこぼれていく。悔しい。だめだ。全然かなわない。わざわざ会いにきてくれたことも真っ直ぐに見てくれることも嬉しくて仕方ない自分が、悔しい。いまさらそんな風に一生懸命に言うなんてずるい。あんなことをされても嫌いになれない。諦められない。どうしたって好きなんだ。
頼む、とそんな顔で言われてしまえば逆らえないほど。
◇
山の中の温泉まで案内する間、二人とも口を聞かなかった。
「善逸くんたちが掘ったみたいです」
温泉には簡単な屋根と板敷きの四阿のような休憩所ができていた。当然誰もいない。宇髄さんの稽古は厳しいし、それでもみんなどんどん次に進んでる。
善逸くんはわたしが来た翌日には次へ行ってしまった。それ以上説明する気にもなれず二列備えてある長椅子に斜向かいに座りながら、もしかして味方が欲しくてここへ来たのかもしれないとぼんやりと思った。
下を向きたくなくて辺りを見渡した先に、小ぶりの花弁を重ねた青がうつる。リンドウかな、とぼんやりと見つめる。前に蝶屋敷で飲まされた薬に確か竜胆も入っていた。あの薬は苦かったっけ。
「この間、炭治郎が来た」
そう切り出された話はいつになく整然としていて、あらかじめ考えて来てくれたんだと気づく。お姉さんのこと。錆兎さんのこと。炭治郎くんに言われたこと。
この人の振るう刀はずっと贖罪のようなものだったんだと初めて知った。きっと、守れなかった大切な人たちの代わりに『誰か』を、『誰かの大切な人』を守り続けてきたんだ。そしてそこに自分は入ってはいけないと決めて、律して、何年間も一人背を向けて。
人間なのに揺れないはずがない。なのにわたしは、澄んだ水面の底に沈んでいるものを知らず、見ようともせず、泣くことを必死にやめたこの人の前で簡単に泣いて。
『あなたのためなら死んでもいい』
気持ちが溢れて口走った言葉は追い詰めるだけだったんだ。こうして話をしてくれるのも炭治郎くんのおかげで、わたしは結局力になれなかった。
だけど。
「詰ってくれて構わない。殴られても当然のことをしたと思う」
そう言われた時、立ち上がって右手をその顔をめがけて思い切り振り抜いていた。と思ったのに、既の所で掴みとられている。
「どうして受け止めるんですか、殴っていいって言ったじゃないですか」
「つい」
ん、と差し出してくる真面目な顔に力が抜けてしまう。ここ数日、心に澱んでいた感情を帳消しにする気力はもう今ので使ってしまった。
「……もういいです。わたしも知らずに傷つけてしまったからおあいこです」
「お前はなにも悪くない」
「そういう問題じゃありません。でもわたし、あの言葉は取り消したくありません。本気だったんです」
あなたを守りたいと思ったのも理不尽と戦うという約束も、それをあなたに否定されるなら死んだほうがましだと思ったのも。
「全部、本気でした」
わかってた、という小さな声が返ってくる。
「お前はいつも本気だった」
「……いつもじゃ、ありません」
立ったままのわたしを見上げてくる青い目に、首を横に振る。
「冨岡さんのこと知りたいって思ってたんです。だけど、黙られるとこれ以上聞いても教えてくれないだろうって勝手に線を引いてました。でも炭治郎くんは諦めなかったんですよね」
「毎日厠にまでついてこられては仕方なかった」
想像して少しだけ笑ってしまうわたしに「だが感謝している」と続けた目は穏やかで、こんな顔を引き出した炭治郎くんに少しやきもちを焼いた。
「わかろうとしてあげられなくてごめんなさい」
「謝るな。あいこなんだろう」
隣に座るようぽんぽんと椅子を叩いて促され、冨岡さんに並んで腰を降ろす。
しばらく二人とも無言だった。けれどもうここへ来た時の息苦しさはない。風に小さくゆれるリンドウを見つめていると、その紫がかった青のせいかまた蝶屋敷のことを思い出した。
『竜胆って、その辺に咲いてる青い花でしょ? そんなのも薬になるの?』
『そう。使うのは根の部分なんだけどね。……あたしみたいな花なの』
いつだったか薬のあまりの苦さにこれ何が入ってるのと文句を言うと、アオイは使っている成分を説明しながら自嘲的な笑みを浮かべた。そんな顔をする理由が知りたくて後で調べたリンドウの花言葉は『寂しい愛情』だった。群生せずに単独で自生するからだそうだ。
多分これを言ったんだろうけど、ばかだねアオイ、これしか見てなかったんでしょう。
「アオ……わたしの知ってる隊士にも、最終選別の記憶が恐怖になった子がいるんです」
話し出しても冨岡さんは相槌も打たないけど、聞いていてくれるのがわかる。いつだって黙ってそうしてくれていたこの人がやっぱり好きだと思った。
「その子、それからずっと戦えなくて、他の隊士が命を懸けてるのに自分は無力だって思い込んで自分を卑下してるけど、でも本当は強い子なんです。優しくて頭が良くて努力家で、周りをよく見てその人のためになると思ったら毅然として譲らないんです」
花言葉のもう一つは『正義感』。薬草として使われて病気に打ち勝つから、らしい。
「その子がこないだ言ってたんです。自分のしてきたことが誰かの力になってるって思えるようになった、って。仲間がそう言ってくれたんだ、って」
もう一つは『あなたの悲しみに寄り添う』。たしかにアオイみたいな花だと思った。
「覚えてないと思いますけど、冨岡さんが自分を『俺なんか』って言ったときにわたし怒りましたよね。わたしの好きな人を馬鹿にするのは冨岡さんでも許さない、って」
人とは違うと思い込んで、どれだけ人を助けているかを自分だけが認められずそれでも誰かのために戦い寄り添い続ける。
リンドウとアオイは、それにこの青い瞳の優しい人は、どこか似ている。
「自分のことを自分が一番わかってるだなんて思わないでください」
あなたの周りにはたくさんの仲間がいるって気づいて。
「大体なんなんですか今ごろ、繋ぐだの託すだの。ご自分がどれだけの人を守ってきたと思ってるんですか」
それを自分に課したのだというのはもうわかった。それでもあえてぶっきらぼうに言う。
「夏にわたしが襲……われた時も、冨岡さんはわたしを守ってくれました」
「助けたのは不死川だろう」
「はい。風柱様には本当に感謝しかありません。でも」
ぎゅっと押さえた胸の傷はとっくに消えても、心につけられたものは簡単にはいかない。だけどあの日奪われ尽きてしまいそうなものを取り戻してくれたのは。
「ここは、冨岡さんが守ってくれたんです。だからまた戦っていられるんです」
自分の無力さがつらくて苦しくて諦めそうになった心を守ってくれた。脈打つたびに血液とともに全身を巡りわたしを熱くしてくれるものを。
「そもそも炭治郎くんと禰󠄀豆子ちゃんを助けたじゃないですか。あの二人のおかげで状況が変わったことなんて誰でもわかります。でもそんなこと冨岡さん以外に誰ができました?」
「それは結果論だ。俺はそんな立派なものじゃない」
「結果論でもいいじゃないですか。もしもなんて考えても無意味だってみんな身に染みてるんだから」
もしもあの時こうしていたら、そんな選択できないんだから。時間は巻き戻せないんだから。
「冨岡さんが命を懸けて託したからですよ。それは錆兎さんのおかげで、お姉さんのおかげなんですね」
ちゃんと繋がってます、と言うわたしに向けられる表情はどんな気持ちなのかよくわからない。だけど真剣なのはわかる。浅く腰掛けた膝に置いている軽く握ったこぶしに、少し力が入ったのが見えた。
「大事なことを忘れてても、心を閉じてても、冨岡さんはそうしちゃうんです。きっとそういう人なんです。俯かないでください。あなたはとっくに水柱です」
あなたの選択が、重ねてきた無数の努力が、現実を変えた。絶えず落ちる水滴がいつか固い岩をも穿つように。好きなんて言葉ではとても足りない。
「水柱が冨岡さんの時にここにいられて良かった」
あなたに出会えて良かった。
ありったけの想いを伝えると顔をそらされてしまうけど、追いかけてのぞき込むとさらにそらされてしまうけど、それはもう拒絶ではなく照れているように見えた。
いつだって透き通る水のように清廉で冴えた月のように綺麗で自分ではとても追いつけないほど強い特別な人。だけど初めて普通の男の人に見えた。
「甘やかすな」
それでも返ってきた言葉は思いがけなさすぎて目を何度も瞬く。
「甘やかしてますか? 水柱としてこれからも先頭で戦ってほしいって言ってるのに?」
「俺にとっては」
そうなのか。そうかもしれない。きっと同じようなことは何度も言われてきたに違いない。それをようやく受け入れられるようになりつつあるのかもしれない。知らなかった、こんなに不器用な人だったんだ。
「甘えてもいいんですよ」
「聞いてなかったのか。甘やかすな、と言ったんだ」
「冨岡さんこそ聞いてなかったんですか、甘えても、って言ったんです。甘やかされても、じゃなくて」
「……何が違うんだ」
どこか不服そうな顔は今度ははっきりと子供のように見えたので笑ってしまった。
「欲しいとか助けてとか言っていいし、自分を縛らなくていいし、疲れたらちゃんと休んでいいってことです」
そんな一面を炭治郎くんのように少しは引き出せたのかと思うと嬉しくて、そんなわたしを見ながら冨岡さんは珍しく逡巡してから口を開いた。
「望んでも、いいのなら」
「はい」
「お前に傍にいてほしい」
「なんだ、そんなこと」
もちろんです、と頷きを返した後に続いたのは、
「俺もお前を守りたい」
出会った時からとっくにそうしてくれている、そんな言葉。
だけど、息が止まるかと思った。
「……俺、『も』……?」
繰り返す声が震えてしまう。
それは、わたし『も』? わたしも冨岡さんのことを守りたいって思っていてもいいの?
同じ場所で、同じ気持ちで戦えと言ってくれてるんだって思っても、いいの?
「ああ」
窺うように揺れた視線を真っ直ぐに受け止めながら冨岡さんは、わたしが聞きたかったことの意味を正確に捉えて、確かに頷いた。
──やっと、届いた。
初めて認めてもらえた。
浮かびかけた涙を拭うと、頬に伸びてきた手が触れるすんでのところで思いとどまったように引っ込んだ。触らない、という約束を思い出したんだろう。自分で拭ってから濡れたままの両手を目の前に差し出す。
「返してください」
その手とわたしの顔を交互に見る戸惑い顔に、催促する。
「わたしにくれた優しい記憶です。こないだ乱暴に奪われました。返してください」
冨岡さんは迷わなかった。わたしの両手を包むと顔の前まで持ち上げて手の甲に唇を落とした。荒れた指に、指の間に。関節や爪に口付けが優しい雨のように降り注ぐ。
「あ……」
手をひっくり返すと今度は手のひらに顔を擦り寄せるようにして何度も押し当てる。目を閉じて、まるでわたしを確かめるみたいに。
手首の裏側の静脈を辿るようにつたう熱い唇が袖口に行き当たった時、もどかしげに腕を引かれて胸に転がり込んだ。抱き締める腕は強く、そしてわずかに震えていた。大きな手のひらがわたしの頬を包み込む。
「……してもいいか」
「わたしが頼んだからしてくれるんですか」
そう聞くと、違う、と首を横に振りながら頬を撫でていた親指が唇を押さえた。一度きりの口付けの感覚はあんなに忘れたくなかったのに忘れてしまっていた。あれほど突き放されても必死で手繰り寄せようとしていたのに。
あの時と同じ冨岡さんの熱が触れている。でも欲しいのはこれじゃない。
「魔が差してませんか」
押さえられたまま見上げると一瞬なんとも言えない顔をして「わからない」と返ってきたので苦笑してしまう。
「正直なのもちょっとどうかと思います」
「ごめん」
そう言って性急に近づく顔を寸前で防ぎ、首を横に振る。
「……ごめん、は、もういやです。もう言わないで」
見開かれた目がゆっくりと瞬いた。自分の心の中を探るように、わたしの望むものを見つけようとするように瞳を揺らしていた。
そして、遮っているわたしの手を押しのけながら、
「したい」
ほとんど吐息のように、だけど切実な響きで囁いた唇が重なった。
「……ん……っ」
強く押し当てたかと思うと何度も何度も角度を変えて、吐く息すら飲み込まれるくらい強引だった。息苦しくて口を緩めた瞬間、歯列をこじあけて熱い舌が入ってくる。味なんてしないはずなのに甘くて、目を開けると眉根を寄せながらも薄く開いた瞼の隙間から青い瞳がわたしを捉えていた。
心臓が壊れてしまいそうなくらいに暴れていて、あんまり苦しくて羽織を握り締めると頬から離れた手に頭の後ろを抱え込まれる。
「ん、んんっ」
舌の裏側のでこぼこしたところをなぞられ喉の奥が痺れたように唾があふれてきてくちゅりと音を立てる。口からこぼれてしまいそうで必死になって飲み込むそれが自分のものなのか冨岡さんのものなのかもうわからない。飲み込んだ拍子に舌を引っ込めてしまうと奥まで入り込んできて絡め取られそのまま激しく吸われる。
求めるような奪われるような深い口付けを受けながら、──どうしてそれを思いついてしまったんだろう。
本当は背を向けながらもずっとどこかで許されたかったんじゃないのかな。亡くなった大切な人にこそ抱き締められたかったんじゃないのかな。
そんな時にわたしが傍にいたから。
冨岡さんのことが好きで好きで結局全部許してしまうわたしだったから。だから魔が差したんじゃないのかな。
あの時、わたしを庇って大怪我をした時。
──本当は誰を見ていたの?
「……そんな風にしなくてもどこにも行きませんよ」
そう伝えようとするけど唇を離してくれなくて、また攫われて吸われれば体から力が抜けて溶けてしまいそうになるのにこんなに胸が痛い。
冨岡さん
冨岡さん 好きです
あなたが好きです
だけどわたしのこの気持ちは、きっとお姉さんや錆兎さんに敵わない。
あなたのためなら死んでもいい
だから ねぇ わたしを見て
誰かの代わりはいや
だってわたしは見返りを求めてる。
大切な人が生きて隣で話をできることがどれほど尊いか知っているのに。お姉さんのように守れない。錆兎さんのように戦えない。禰󠄀豆子ちゃんのようには笑えない。
「……っ」
鼻の奥がつんとして息苦しさに喘ぐと唇がようやく遠ざかる。気付きたくなかった。せっかく届いたと思ったのに。
「宵谷、今夜」
青みを帯びた瞳の奥に熱を感じた気がして体の奥がドクンと高鳴る。いつだってわたしを蕩けさせる切なく湿った声。最後まで言われていたら断れなかったと思う。
だけど、がさりと葉が揺れる音がそれを遮った。振り返った木々の間、須磨さんが半身を覗かせていた。駆けてきたのか片足を出したまま固まっている。
「あ、あの……っ! 見回りしていたら声が聞こえたから、あああああ新しい人が迷ってるのかなって……!」
そう言いながら後ずさると、声をかける間も無く身を翻し「ごめんなさいっ!」と一瞬で姿を消した。
遠ざかる気配さえなかったせいであっという間に沈黙が落ちた。
ちょうどいいと思った。
「……わたし、次の稽古に行かないと」
抱き締められたままの胸元でうつむくと結いていない髪がちょうど顔を隠してくれていた。きっと恥ずかしがっているだけに見えるはずだ。
「急ぐんだったな」
もういつも通りに戻った平然とした声とは裏腹に頭の後ろを抱えていた手が髪越しに頬を撫で、名残惜しげに離れていく。のろのろと立ち上がったわたしと共に歩き出そうとするので、すみません、と言いながら傍の荷物を胸元に抱えた。
「宇随さんのところに忘れ物しちゃったみたいなんです。先に行ってください」
わざとらしく聞こえないように照れ笑いまですると、わかった、と頭の上にぽんと手が置かれた。
「頑張れ。待ってるから」
そう言って立ち去っていく背中を見送る。柱稽古のことを言ったんだとはわかってたけど咄嗟に返事ができなかった。
『背中を追うのは得意です』
初めて口付けを受けたあの日にそう告げた。
だけど、たとえ追いついても、振り返ってくれても、きっとわたしは一人のままだ。
▲
どうしよう、やっちゃった……!
逃げるように木の上に飛んでから須磨は大きく息を吐いた。
平和な毎日が続いて気が緩んでいたのか、これでもくノ一なのにあんなに無警戒に歩いてしまうなんて。
しかもよりにもよってあんな大切な場面の邪魔をしちゃうなんて!
冨岡様がイチカちゃんの特別な人なんだと知ったのは、寝言でその名を呼んでいたからだ。けれど毎晩誰よりも遅くに戻ってきては気絶するように倒れ込み涙を浮かべる寝顔を、いつも雛鶴さんとまきをさんと心配していた。
だから二人が抱き合っているのを見た瞬間、自分の間の悪さに青ざめつつもきっと解決したんだろうと安心したのに、振り返ったイチカちゃんの顔に見覚えがあった。
あれは、天元様の嫁候補に妹が挙がってると知った時のアタシの顔だ。
「……須磨さん、須磨さんまだいますか……」
ぽかぽかと自分の頭を叩いていたところへ名前を呼ばれて、ぴえっ、と飛び上がる。がさりと梢を揺らしてしまったせいか下から当人が須磨を見上げていた。
「い、いるよ! さっきはごめんね! 本当にごめん!」
降りて行って頭を下げると、
「呼び止めてしまってすみません。ご相談してもいいですか」
と目を真っ赤にしている。
ああ本当に、なんて顔をしてるんだろう。
「え……、えっと、雛鶴さんとまきをさん、呼ぶ?」
自分だけでいいのかと頼りになる二人の名を挙げるけど、須磨さんがいいです、と言われ、任せて! と久々に姉の気持ちになって胸を張った。といっても本当の妹に頼られたことなんてないから初めてかもしれない。
「宇髄さんを独り占めしたいって思った事ないですか。……ごめんなさい、皆さんのこと何も知らないのにすごく失礼なこと言ってるってわかってます」
いいんだよぉ、と続きを促すとしゃくり上げながらもほんの少しだけ安心したみたいだ。そもそもアタシ達の本当なんて誰も想像できっこないんだから。
「大丈夫だから、何でも聞いて!」
「……最初は、ただ守りたいって思ってたんです。少しでも力になれたらって。でももう違うんです。わたし、冨岡さんの亡くなった大切な人の代わりかもしれなくて、それでもいいって思えないんです。……役に立ちたいのにわたしはきっといざという時に我儘言って、それが叶わない時に傷付けるかもしれない。わかってるのに一番近くにいたいんです。一番、です。勝てっこないのに」
次々と溢れてくる涙を拭いもせずただただ気持ちを吐き出す姿が懐かしかった。
ああ、この子は恋をしているんだなぁ。きっと初めての本気の恋なんだろう。胸がいっぱいで自分を見つめる冨岡様の顔に気づいていないんだ。
……イチカちゃん、あのね。
「独り占め、してるよ」
アタシの返答が意外だったんだろうか、兎のように真っ赤な目が軽く見開かれた。
「ちゃんと独り占めしてるし、されてるよ。いつもじゃないけど。天元様がアタシ達を三人の嫁としてじゃなくてそれぞれに特別に想ってくれてるのがわかるんだ。冨岡様もそうじゃないのかな」
「かもしれません。でも、わたしじゃ特別になれない……」
「特別って、他の人と違うってことだよ」
「……違うから、特別……?」
うんうん、と全力で頷く。
「それに、そんな顔するくらい好きなのに及ばないなんてことないよ。絶対に、ない」
断言すると少ししてから、ありがとうございます、と控えめな笑顔を見せてくれた。
でもきっとあんまりわかってない。真っ直ぐで一途な瞳にはいつだって他のものが入ってこないから。
もっと修行します、と駆け出した背中はさっきよりも真っ直ぐだった。頑張れ、と手を振りながら背中を見送っていると、ふいに影が落ちた。
「女にあんな顔をさせるとは冨岡も案外やるな」
「天元様!」
いつ来たんだろう、音もなく後ろに立たれてひっくり返りそうになる前に背中に手が添えられている。
「お前に似てる」
「ですよねぇ。……大丈夫ですよね、イチカちゃん」
「さあな。だが欲しいもんは欲しいって言える奴だあれは。根性もあるしな」
はい、と頷く。伊之助くん並みの重しを抱えて走りきった子だ。
「それに、冨岡様もいい男ですもん」
「俺と奴を同列に語るんじゃねぇ」
不服そうに言って踵をかえす背中を追いながらついさっきの冨岡様の顔を思い出して、ふふっと声に出してまた笑う。
……イチカちゃん、あのね。
代えのきく人間を見る時に人はあんな顔をしないんだよ。
一瞬だけ見えた冨岡様の静かな青い瞳は、天元様が欲しくて欲しくて堪らなくて襖を突き破ったアタシとやっぱり同じに見えた。
(続)