第十一話 野菊
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道の真ん中でうずくまっている金髪の隊士を見かけたのは、柱稽古に向かう前に必要な買い物を済ませて歩き出したところ、街の中心を少し外れた辺りだった。
「大丈夫? どこかに運ぶの?」
道端にぶちまけられている荷物はどう見ても一人で運べる量じゃない。途方にくれたように丸い背中に話しかけるとわたしが同じ隊服を着ていることに目を留めたのか、うん、と鼻をすすった。
「宇髄さんの山まで」
特徴的な目立つ髪色は顔を見るまでもなかった。たしか炭治郎くんの知り合いだ。ついこの間蝶屋敷で禰󠄀豆子ちゃんと話した後、板壁の向こうで大騒ぎしてアオイに怒られていたっけ。太陽の下にいる禰󠄀豆子ちゃんを見れば気持ちはわかるけど、あの時のとんでもなく甲高く大音量な悲鳴はなんというかかなり印象的だった。
「音柱様の? それならわたしも今から行くところだから手伝うよ」
「えぇ、いいの? ありがとう」
もしかしてきみ俺のこと……、となぜか輝き出す顔を横目に散らばった板切れを拾い重ねる。
「これ、どうするの?」
「温泉を掘ったんだけどね、あそこめちゃくちゃ滑るの。危ないから通路を作ろうかと思ってさ」
温泉を……掘った? 柱稽古ってそんなことするの? ……なんで?
「それでね、どうせなら脱衣所とか休憩場所みたいなの作ろうかと思って道具とか色々買ってたらどんどん増えちゃって」
「すごい本格的だね」
「そういうのが整ってたほうが女の子が入りやすいでしょ」
女性の隊士はかなり少ないのにそんなこと考えてくれるんだ。しかも、半分持つよ、と言ってもわたしに渡してくるのはかさばるけれど軽いものだけだ。さらに互いに名乗ると「可愛い名前だね」と自然な調子で言われ不覚にも顔が赤くなってしまった。あのとんでもない悲鳴さえなければ善逸くんは、多分、モテる。
「でも行く前に冨岡さんのところに寄ってもいいかな。しばらく稽古に通えないから挨拶しておきたくて」
「冨岡さんて水柱の? イチカちゃんて継子なの?」
「まさか! そんなに優秀じゃないよ!」
今の階級は己だと言うと、充分じゃない? と言ってくれるから、充分どころか未熟だからこそ稽古をつけてもらってるとは言えず苦笑だけ返した。
並んで歩きながら禰󠄀豆子ちゃんの名前を出すと、その優しげな顔がふにゃふにゃとだらしなく溶けていきまた荷物を落としそうになって慌てている。忙しく表情を変える顔が見ていて楽しくて、蝶屋敷での様子をまた思い出す。
二人が並んでいるところはとても似合ってたから善逸くんの気持ちが禰󠄀豆子ちゃんに届くといいなと思う。鬼と人間だからうまくいくのかはわからないけど人間同士でも噛み合わないことはあるもんな。
……じゃあわたしは。
わたしと冨岡さんは、どうなんだろう。
無意識に唇を結んでいた。一度口を吸われたからって自惚れるわけじゃない。それでもあの時少し届いたと思ったんだけどな。
「冨岡さんと付き合ってるの?」
ちょうど考えてる時に突然そんなことを言われたので、えっ、と立ち止まってしまった。抱えていた荷物がぐらりと揺れ、慌てて支え直してから勢いよく首を横に振る。
「ないない! どうして?」
「冨岡さん、って呼んだときのイチカちゃんの音、なんか甘いっていうか切ないっていうか、こっちまでドキドキしたから」
「……音? えっと、声?」
「ううん。なんていえばいいのかな、心音とか呼吸とかそういうの。俺、耳がいいんだよね」
耳? いったい何が聞こえるんだろう。
なにかの特殊能力なんだろうけど驚くほどのことではない気もするのはわたしが鬼殺隊に慣れすぎなんだろう。
「わたしが勝手に好きなだけだよ」
「でも、今さ」
そう言ってわたしの口元を見てくるので一瞬でかぁっと顔に血がのぼった。……うそでしょ、まさか。
「……音で、口付けしたのまで、わかる、の?」
「えっ、したのっ?」
「ええっ! 音でわかったから聞いたんじゃないのっ?」
「違うよ!『わたしと冨岡さんはどうなんだろう』って言うから恋仲なのかなって!」
「ええぇっ? わたし口に出してたっ?」
墓穴を掘ったことが恥ずかしくて顔を覆いたいのに両手が塞がっている。
バレてしまったなら仕方がない。善逸くんが女の子慣れしてそうだったのと人懐っこい話し方にきっと気が緩んだんだ。
「……あの、さ。善逸くんは、その、どういうときに口吸いしたくなる……?」
だからつい、あからさまに聞いていた。
でも聞いてすぐに後悔した。初対面の男の子に聞くようなことじゃなかったと後悔したからじゃなく、『俺と禰󠄀豆子ちゃんがそそそそそんなことをぉぉぉ』と甲高い悲鳴が頭に響き渡って目眩がしたからだ。
それでも早口と奇声の合間に「考えられないけどいつかしたいけど禰󠄀豆子ちゃんがちゃんと俺としたいと思うまでは待つけどできるならいつでもしたい」という内容の答えをなんとか得る。あまり参考にはならなそうだ。
「じゃあ、その後に謝るのってどうしてだと思う?」
今度は一転して『はぁぁぁぁあの人そんなこと言ったの!』と一通り盛大に罵った後でわたしの真剣な顔に気づいたのか、善逸くんは色々な可能性を捻り出してくれた。
曰く、こんな俺がしてしまってごめん、可愛くてついしちゃってごめん、その気はないのにしてごめん、許可なくしてごめん、付き合う前にしてごめん。
「……どれもいやだなぁ」
どれだけ情けない顔をしてしまったんだろう、善逸くんは焦ったように、
「でもそんな簡単にするような人じゃないと俺は思うよ。あんまり知らないけどさ」
と言ってくれたけど、冨岡さんならどれも言いそうな気がした。……特に最初のやつ。
まだ買い足したいものがあるという善逸くんと待ち合わせ時間を決めてから冨岡さんのお屋敷へと足を向けた。
柱稽古には参加しないと言っていたけれど忙しい柱がお屋敷にいるかはわからない。すれ違いになるかもしれないけれど連絡をしてから行く気にもなれなかった。なんとなく、避けられそうな気がした。
千年竹林の石碑を越え、竹の葉擦れの音とどこかで鳴く鳥の声を聞くうちに歩みが徐々に遅くなる。
どんな顔をすればいいのかわからなくてあの時から一度も会っていなかった。夏からつけてくれている稽古にも来いとも言われないし、一度だけ菫に文を託したけど返事はなかった。会いたい、でも会うのがこわい。こんな気持ちは初めてだった。
お屋敷に辿り着くと門扉は閉じられていた。やっぱり留守かもしれないと思ったけど庭の方から物音がしている。生垣から覗き込むとこちらに背を向けて木刀を振っているのが見えた。
「冨岡さん。こんにちは、宵谷です」
思い切って声を張り上げるけど動きは止まらない。集中していて聞こえない、なんてそんなはずはないので「失礼します」と再度声をかけてから傍の通用口を通る。
すっかりなじんだ場所だ。敷地に入ればすぐにさっきまでの緊張はやわらいでいた。
「これから柱稽古で音柱様のところへ行ってきます」
庭の端でこちらを向いてくれるのを待つけれど、なかなか声をかけるような暇がない。そう切り出しても特に手を止める様子もない。
「あの、こないだ菫が文を届けたと思うんですけど、いつもつけていただいている稽古はすべての柱稽古が終わった後になりますか?」
聞いているのかいないのか、返事を待っても一向になく。用件はそれだけで終わってしまったけれど立ち去り難く、待っているうちに一心に振るう姿にそのまま見入ってしまう。
ただの素振りなのにとても綺麗で無駄がない。水の呼吸を扱う人の中で多分水柱のこの人が一番基本を疎かにしない。だからこそ変幻自在に形を変えられる。打ち込み稽古もかかり稽古もたくさんしたけど流れるような冨岡さんの動きを見ているのが一番好きだ。
だからいつまでもこうしていたいし今後の予定も結局わからないけど、本当にそろそろ行かないといけない時間だった。それに、善逸くんと待ち合わせもしている。
「音柱様の稽古が終わったらまた伺いますね」
なんとかそう言って踵をかえした矢先、
「宵谷。もうここへは来るな」
ようやく手を止めた背中が突然そう告げた。
「どういう意味ですか? あ、柱稽古が全部終わるまでは来るな、ってことですね」
わかりました、と頷くわたしに、違う、と否定する声が重なった。
「お前にもう稽古はつけない」
「……え?」
「帰れ」
短く突き放したきり説明もなくまた木刀を構え直すから慌てて冨岡さんの前に回り込んだ。言葉足らずには慣れたつもりだけどこんなにも突然打ち切られるとは思ってもいなくてさすがに混乱していた。唐突すぎる。意味が理解できない。
「ちょちょちょちょちょっと待ってください! いきなりどうしてですか? こないだのことだったら失言でした! 鬼殺隊にいるのにあんな事口走ってしまって!」
「それは忘れていい」
「忘れていいって……」
「俺は忘れた」
全部、と小声で言い足すそれは多分、「忘れろ」じゃなくて「なかったことにしろ」という意味だった。どっちにしても。
「できません、無理です。わたし、なにかしましたか」
「俺にもう近づくな」
「だから、どうして急に。せめて理由を説明してください」
言葉足らずとかそういうことじゃない。ちっとも会話にならないしそんなの答えになってない。真剣な話のはずなのにわたしの顔さえちっとも見ようとしてくれない。
「する必要はない」
「そんなの納得できません」
「できなくていい。ここへは来るな、上官命令だ」
いくらなんでも乱暴すぎる。それでも命令だと言われれば従うしかなかった。
「……わかりました。もう来ません。でもご自分がいま卑怯なことをしたって自覚してください」
元々継子でもないのに好意でつけてくれていただけだ。感謝こそすれ文句をいう筋などないとわかってる。それでもそんなことを言う人だとは思わなかった。
「戻ります。でもその前に教えてください。どうして口付けてくれたんですか。上官とか関係ないですよね」
「魔が差した」
さっきから何を聞いても理由なんて説明しなかったくせに、どうしてそれだけ、そんなはっきりと。
善逸くんが挙げてくれた理由の中にそれはちゃんとあった。あの『ごめん』は『その気はないのにしてごめん』、か。……なんだ。そうなんだ。
「……そうですか。それでも、やっとお役に立てたみたいで嬉しかったんです。忘れるなんて無理です」
それが、冷えた唇をほんの少し温めるだけだったとしても。あの時たしかにわたし達は同じ体温で抱き合っていた。
「元々冨岡さんが好きですってことを伝えていられれば充分でした。変なことを言ってしまったのは謝りますけど気持ちは今も変わりません」
「忘れろと言った」
「無理ですと言ってるんです。わたしの心の中まで命令できると思わないでください」
魔が差しただけでももうここに来れなくても、それでも冨岡さんの唇から流れ込んできたものも胸に湧き上がったものも全部わたしのものだ。
――なのに、どうしてそれさえ許してくれないの?
失礼します、と背を向ける寸前、一瞬だけ表情が揺らいだような気がした。未練がましく振り返ったわたしを冨岡さんはようやく真っ直ぐに見てくれた。取り消してくれるのかと淡すぎる期待に言葉を、待っていたのに。
「ならば鬼殺隊を辞めろ」
「……? どういう意味ですか」
よくわからない。というよりも聞き違いかもしれない。鬼殺隊を辞めろ、って聞こえた。
「何言ってるんですか、辞めませんよ」
「自分で辞めないなら俺が辞めさせる。柱の権限で」
「そんなこと出来るわけが……」
「出来る」
だとしてもやっぱりよくわからない。だって、いくらなんでもそんな言葉が冨岡さんの口から出てくるわけない。
そんなこと言うわけがない。
「冨岡さんの冗談、あんまりおもしろくないです。というか、ちょっときついですよ……」
「冗談を言っているつもりはない」
それきり何の言葉も続けずに見つめてくる冷えたまなざしから思わず顔を背けた。助けを求めるように彷徨わせた視線はすぐに、庭に面している外廊下へと辿り着く。
ここで事務仕事をしていた時、よくあそこで休憩や勉強をしていた。ここで稽古をつけてもらっている時はよくあそこで汗をぬぐった。教えてもらったことを反芻しながら井戸端で体を拭う冨岡さんを見つめていた。
それから、そう、あの夏の朝。
「……ぁ……」
にわかに思い出す。
あの夏の朝、アオイの重箱、竹の鳴る音、白いシャツ、背中に回った腕。もらった熱。
声が出なかった。胸がひどく痛い。うそだ。そんなこと、冨岡さんが言うなんて、うそだ。
「どう、して……っ」
なんとか絞り出した声は掠れた悲鳴だ。あの場所で諦めるなと励ましてくれてからまだ三月も経っていない。
なのにどうして突然変わっちゃったの。
「俺の補助をしていたお前は少なからず隊内の機密に触れている。総力戦になるかもしれないという時にたかだか口吸いで感情を抑えられないようでは、万が一にでも鬼の術にでもかかり洩らされては困る」
「好きな人に抱き締められて……っ、口を、吸われて……っ、心が揺れない女がいるとでも思ってるんですか……!」
「それはお前の問題だがそれが隊の今後に関わりかねないから言ってる。今のお前は足手まといだ」
「そんなこと承知で、だからこそ鍛えてくれたんじゃないんですか……!」
「いつまでも甘ったれるな。俺を責める前に己の未熟さを省みろ」
「わかってます……! でも……っ、でも、足手まといでも盾くらいにはなれます!」
自分の言葉に思い出す。
大切なものを守りたいと言った。この身を挺してでも。命を懸ける意味があるものをこの場所で見つけた。拒まれたくらいで手放したりしない。
「盾、くらい……?」
泣くもんかと、滲みかけた涙を手の甲で振り払う。だからその時、冨岡さんの表情が変わったことに気づかなかった。顔を上げれば向けられている視線はもう氷のようだ。それでも俯かない。戦えと言われた。
「わたし、少しは強くなりました。今の階級は己です。まだ全然弱いですけど冨岡さんのおかげで前より早く上がったんです。もう守ってくれなくていいです。足手まといなら捨て置いてください。鬼の術にかかる前にちゃんと自刃しますから安心してください」
あの夏の日、わたしの心は一度死にかけた。それを救ってくれたのはあなたなのに。もう一度戦えると信じて抱き締めてくれたのに。諦めるなと言ったその口であの優しさも温かさも否定されるくらいなら、あの時舌を噛んだほうがましだった。
「冨岡さん、わたしと真剣勝負してください。わたしが勝ったら取り消してください」
躊躇いなく日輪刀を抜いて正眼にかまえる。
あの日、仲間に刀を向けられて絶望したわたしがこの世で一番大切な人に同じことをしている。これはどんな罪になるんだろう。少なくとも辞めさせる理由を与えたはずだ。正気じゃないように見えるだろう。そうかもしれない。でも冷静だ。心の水面は凪いでいる。それがあなたの瞳の色だろうともう揺れない。
「絶対にやめません。どうしてもやめさせたいなら斬ってください」
わたしは剣士だ。やめるのは死ぬ時に決まってる。
「愚か者!」
怒号が爆発して辺りに鳴り響いた。
「敵うとでも思っているのか!」
「……愚かで結構です。それにやってみなきゃわかりません」
「敵う」ではなく「叶う」に聞こえた。どっちにしてもやらずに引き下がるなんてできない。今のわたしにそんな恫喝が効くと思ってるならその方が愚かだ。
木刀しか持っていなくても水柱に隙なんて見えるはずがない。それは自分で作るしかない。前傾姿勢で一気に踏み込む。けれど何度振るっても向かって行ってもすべて受け流されてしまう。袈裟斬りを躱し左逆袈裟斬りを払いながらも表情さえ変えない。腰には刀を差しているのに抜かないどころか一切攻撃をしてこないことが屈辱で、一撃が荒々しくなっていく。
「どうして抜かないんですかっ!」
どうして真剣で来てくれないの……? そんな価値すらわたしにはないの……?
それでも避けられ下がっていかれれば自然と庭の奥の方まで追い詰める形にはできる。誘われているのかもしれないとは思わなかった。その方がよかったのに。
――漆ノ型 雫波紋突き・六角
高速の突きを六方向から連続で放った時、その平坦な瞳が少しだけ動いた。隙ができたかと思う暇も無く、間合いに入ったはずのすべてを無効化されて放った右腕に衝撃を受ける。それでもそれは、あきらかな防御。ようやく訪れた変化だった。
――壱ノ型 水面斬り
間髪入れずに強引に踏み込んで振るった刀が、木刀を真っ二つに斬った。
「……っ!」
その時息を呑んだのはわたしの方だった。切っ先は躱されてその身に届くようなことはない。でも日輪刀が胸元を掠める恐ろしさは知ってる。切れて飛んだ木刀の先が瞼を掠めた反射で青い目を一瞬細めたのが見えた。
今度こそできた隙のはずだった。あと一歩踏み込めばきっと届く。防ぐには刀を抜くしかない。
だけど、もし、──抜かなかったら。
そう思った時、冨岡さんの姿が一瞬消えた。
「げほ……っ!」
背中を叩きつけられてむせこむ。胸元と腕を取られて地面に倒されたのだと気づいたのはその後だった。受け身をとってなおこの衝撃。地面に押し付けられたわたしの手から刀が奪われた。
「どうして抜かないかだと? その必要がないからだ!」
押さえつけられたまま真上から浴びせられたそれは罵声だった。
「なぜ怯んだ! なぜ踏み込まなかった! そのしくじりで敗れたのだとわかっているのか! これが鬼だったらお前は死んでるんだぞ! 真剣を抜く場面で相手に容赦をするな! なぜ本気でやらない!」
「ちが……っ、わたしは、本気で……!」
「ならばお前の本気がその程度だということだ! 中途半端な覚悟で戦いに関わろうとするな! なにが少しは強くなった、だ。お前は弱い。少しも変わらない。何も守れず命を捨てるだけだ。いい加減に愛想が尽きた」
そう言うなり呆然としていたわたしの両手首を片手でまとめて頭の上で拘束した。
自由のきかない体にのしかかってくるともう片方の手が隊服の襟元にかかりそのまま引き裂く。釦がちぎれ飛んでいく感覚に頭が真っ白になった。
「いや! やめて!」
喉の奥から叫ぶけれどそのまま手がシャツの釦にかかった瞬間、体が動かなくなった。強張った体が勝手に次の衝撃に備えるけれど、今度は引きちぎられたりはしなかった。まるでこの時間を引き延ばすように、上からひとつずつ外されていく。
「やだ……、やだ……っ! 冨岡さんやめて! やめてーっ!」
ちょうど三つ、あの夏の朝と同じだけ釦を開けたところに顔が近づいて肌を強く吸われる。吸われる度に痛みが走る。首に、鎖骨の下に、肩に、胸の奥に。あの夏の朝にわたしを励ますためにつけてくれたはずの場所に、今度はわたしに自分の弱さを思い知らせるために傷をつけていく。
やめて。お願い。もうやめて。
あなたがくれた大切な思い出なの。わたしの宝物を汚さないで。あなたが奪わないで。
「……男に押し倒されたくらいで半狂乱か」
やめてと繰り返すだけで何もできないわたしから身を離し、立ち上がったのか、高いところから冷たい声が落ちてくる。
「俺一人振り解けないでどうやって上弦と戦うつもりだ。鬼と相対してもお前はそうして震えて泣くだけだ。自刃するなど軽々しく言うな。お前は戦えない。盾にすらなれず食われて終いだ」
とっくに心は虚でもう聞きたくないのに、それでもその声を耳が拾ってしまう。
「そうなる前に鬼殺隊から去れ」
砂を踏む音が遠ざかっていく。それきり竹の葉擦れの音しかしなくなった。
静かだ。ここは本当に静かだ。誰もいない。わたし以外には誰もいなくなってしまった。本当に。
そのままどれくらいそうしていたんだろう。のろのろと上体を起こすと足元に白い野菊が潰れていた。淡い花片やしっとりとした葉を無惨に踏んづけてしまったのはきっとわたしだ。
「……ごめんね」
そして視線を横に向け、思わず乾いた笑いがこぼれた。
「……なんだ。ちゃんところしていってくれたんだ」
今まで頭があったそのすぐ傍の地面にわたしの日輪刀が突き刺さっている。
それはまるで墓標のように見えた。
◆
静かな場所へなど行きたくなかった。
何に思いを囚われるかなど分かりきっていた。
『盾くらい』? ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。なにが彼女のためだ。俺は何も教えられてない。追い詰めただけだ。あそこまでするつもりなんてなかった。俺はなにも守れてなどいない。なにも守れない。
竹林を抜けて少しでも音のする街の方へと足を向けると、行く手を遮るように木の影から目立つ黄色の頭が現れた。やけに大荷物だ。無視するつもりだったのに挑戦的な目付きが苛立たせる。
「稽古はどうした」
「やってますよ。温泉掘りですけど」
「遊んでないで真面目にやれ」
「遊んでねぇしこっちから女の子の泣き声が聞こえたもんでね。アンタなにやってんだよ、馬鹿じゃないのか」
「お前には関係ない」
「ええ、関係はないですよ、ないですけどね! 関係なきゃ言っちゃダメなのかよ! 泣いてんだぞ!」
我妻は、宵谷が抱えていたものと同じような荷物をその場に放り投げ詰め寄ってきた。
「イチカちゃん、アンタの話する時すげぇ幸せそうな音がしてた! 音なんて聞かなくたってわかる、アンタのこと好きで好きで堪らないって顔してたからな! 会ったばっかの俺がわかるんだからアンタがわからないはずないだろ! なのにあんな風に悲しませて、アンタはイチカちゃんの何を守りたいんだ。自分から断ち切ってどうすんだよ! 俺は禰󠄀豆子ちゃんが笑っててくれればそれでいい! アンタは違うのかよ! 好きな女の子に笑っててほしいって思わないのかよ……っていてぇぇぇぇぇ!」
無言でいたせいなのか唾を飛ばしながら胸ぐらを掴んできたその腕を捻り上げる。途端に情けない悲鳴を上げた我妻を地面に放り投げてから背を向けた。
「長口上、ご苦労」
「おいっ!」
その場を後にしても甲高い声が追いかけてくる。自分以外の誰かのためにそんな風に感情を爆発させるこいつが、今は神経を逆撫でしてきて仕方がなかった。
「隣にいられるのに泣かせてんじゃねぇよ!」
我妻、そんなに言わなくていい。
お前が正しいのはわかってる。
そして数日経った。
「冨岡さーん、こんにちはー」「義勇さーん、俺でーす」
玄関から聞こえる快活な炭治郎の声がやけに癇に障る。
炭治郎は毎日追いかけてくる。
宵谷は姿を見せなかった。
(続)