第十話 紫苑
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ここ何日も指令が来ないのでどうすればいいのかわからず、こういうときはアオイに聞いてみようと訪ねた蝶屋敷が、どことなく騒がしい。
「今日はなんだかやけに賑やかだね」
普段から人の出入りはそこそこあるらしいけれど他の隊士もわたしと同じような考えで訪れるのかなと思って聞けば、それもあるけど上弦の鬼と戦っていた隊士が入院しているからだと返ってくるのだから驚いてしまった。そのお見舞いや聴取や、折れた刀を直すために刀鍛冶の人が多く出入りしているのだそうだ。しかも。
「……えっ、上限の鬼を倒したのって無一郎なの?」
同期の男の子の名前が出るのだから唖然としたわたしにアオイがこくりと頷いた。
刀鍛冶の里──というところがあるらしい──から彼を含めた何人もが昏睡状態で戻ってきたというので見舞えるかと聞いてみると、無一郎と恋柱様はもう退院したと言われ、溜息がこぼれる。さすが柱だ。
けれどそんなにも強く遠くへ行ってしまったことに羨望よりも心配が勝ってしまう。全身穴だらけ傷だらけで高熱が続いていたと聞けばなおさらだ。彼が上弦の鬼を倒せるほどの柱だとわかってはいても、同じ時に選別を受けた仲間で年下で、その時にはわたしよりも背の低い男の子だったから。
「すごく頑張ったんだね」
そんなことしか言えずにいると、説明してくれる間は難しい顔をしていたアオイも、うん、と頷いた。
普段ならそんな反応すらも珍しいのに今日はさらにおどおどと手の指を組んでなにかを言いたげにしているので声をひそめた。
「もしかして、なにか言われた?」
無一郎が同期のわたし達のことを覚えていないことは知っているし口が悪いのも知っている。その彼と接する機会が多いアオイの複雑な心境も。だけど、うん、とまた頷き口を開いたそれは、わたしの不安とは少し違っていた。
「霞柱様が目を覚ました後、『いつもありがとう』って言ってくれたの」
「それはなんというか、驚くね」
「うん。……ねぇ、前にね、炭治郎さんに言われたの。あたしの想いはもう自分の一部なんだ、って。戦いに連れて行ってくれるんだって」
「想いを連れて戦う……?」
「それって、あたしもみんなと一緒に戦ってるって思っていいのかな。あたしのしてきたことは鬼殺隊の役に立ってるんだなって思っても、いいのかな」
いつもはキリリと上がっている強がりの眉が泣き出しそうに見えた。けれどそれは、最終選別で出会った時に震えてうずくまっていた彼女がようやく立ち上がろうとするかのように前を見ていて。
話しながらいつの間にか拳を作っているその手をわたしは強く握り締めた。
「当たり前でしょ! わたしがアオイのおにぎりにどれだけ助けられたと思ってるの!」
「……どうしてここでおにぎりなの」
「えっ! まさか、覚えてないの……」
叱咤激励をさらりと受け流されて目を見開くけど、でも、そうか、ついこの間の夏にわたしが特別嬉しかった重箱のおにぎりはアオイにとってはそうじゃないんだ。いつだって誰にでも当たり前のように優しさと気遣いをくれているんだ。
嬉しいような少し寂しいような気がしていると「覚えてないはずないでしょ。どうしておにぎりが最初に出てくるのよ」と言うものだからやっぱり嬉しくなる。どことなく不安なときにこうしてみんなが蝶屋敷に来てしまうのはきっとしのぶさんがいるからだけではないんだろう。
「アオイはいい子だなぁ。ぎゅーってしてあげる」
「ちょっと、やめてよ」
「やめないよ、させてよ」
嫌がられながらも、照れるな照れるな、とその小さな体を抱き締めていると、
「お前ら何やってんだ」
後ろから呆れたような声が聞こえた。後藤さんだった。
「何って見ればわかるじゃないですか。アオイと友情を確かめ合ってるんです。あっ、後藤さんにはやりませんよ。好きですけど、ごめんなさい」
「別にいらねーよ、俺が振られたみたいにすんじゃねぇ。つーか、お前らも仲良いよな。あの三人並みじゃねぇの」
あの三人というのはもちろんきよちゃんなほちゃんすみちゃんのことだ。そう言われて視線をやった先、洗濯物の干してある庭でちょうどいつものように仲良くはしゃいでいる。だけど今日は三人じゃなかった。一緒にいるのは、麻の葉模様の着物の女の子。……あれが禰󠄀豆子ちゃんなのか。
竈門くん──炭治郎くんとはここですれ違うこともあったけど禰󠄀豆子ちゃんを見るのは初めてだった。竈門兄妹を知らない隊士は今はもうおそらくいない。それでも人を襲わず鬼殺隊として共に戦う鬼がいると聞いてもいまだに信じられなかった。
だけどこうして見れば普通の女の子だ。しかもかなりの美人さん。
日光の下に鬼がいる。それがどれだけの異常事態なのかはわたしでもわかる。さらに禰󠄀豆子ちゃんは、自分が太陽に焼かれながら炭治郎くんのことも里の人のことも優先させたと今しがたアオイに聞いたばかりだ。それがどれだけすごいことなのかは、多分、としかわからない。
「すげぇよなぁ、あいつら。冨岡さんも一安心してんじゃねーの。あいつらのために命賭けてるくらいだからな」
わたしの視線を追ったのか、感慨深げに言う後藤さんを振り返る。
「……命、を? 冨岡さんが?」
「なんだ、お前知らなかったのか」
意外そうな顔をしてから教えてくれるのは一年ほど前だという柱合会議の時の話だった。
冨岡さんが前に話してくれたこととほとんど同じ、だけどその育手の手紙のことも風柱様や蛇柱様の話も初耳だった。
「いやー、あん時ゃ柱めちゃくちゃ恐かったなー」
炭治郎くんを連れて行ったためにそこに控えていたという後藤さんはそう締め括るけどそこまで聞いていなかった。……冨岡さんが、そんなことを。
話を終えた後藤さんは誰かの見舞いだと立ち去り、考え込んでいる間にアオイも忙しそうに中へと戻っていった。そのまま縁側にひとり腰掛ける。ぼんやりと視線を投げていた庭先ではきよちゃん達までもが「竹とんぼを持ってきますね」とどこかへ走っていってしまったらしい。わたしと同じように所在なげな禰󠄀豆子ちゃんと二人ぼっちで取り残されていた。
桃色の目がやがて縁側にいるわたしを見つけ、きょとんと首を傾げた。
「こんにちは」
話しかけるとにこりと笑うその口元には、牙。見てしまうと鬼なんだとわかるけれどなぜだか恐怖心も嫌悪感も湧いてこないのは、冨岡さんの話を聞いたせいもあるのかもしれない。
「あ、えっと、わたし、宵谷イチカ。……うん、イチカ」
近づいてきた笑顔に名乗ると、覚えようとしてくれるのか一生懸命に繰り返そうとする姿が可愛らしい。
こんなに華奢で幼いとさえいえる女の子が柱や隊士と一緒に上弦を倒したなんてと見つめた視線の先に、なんでも切り裂けそうな鋭くとがった爪があった。
「あなたは強いんだね」
ついそうこぼしていた。鬼の爪だ。おそらく強力な血鬼術も使えるんだろう。でもそういう意味だけじゃなかった。
つよい? と小首を傾げる仕草に頷く。
「わたしにも大切な人がいて本当は一緒に戦いたいんだけど、その人はそんなの必要ないくらい一人で充分強い人なんだ。強くて優しい人なの。でもわたしはあんまり役に立てないどころか足手まといにもなっちゃって」
咄嗟に守ろうとしたのを逆に庇われて大怪我をさせてしまったのは春先だった。家族の敵の鬼に突っ込んでしまった時も道を拓いてもらった。今だって忙しいなか稽古の時間をとってくれている。
「禰󠄀豆子ちゃんより年上なのに情けないこと言ってるよね」
決まり悪くて笑うわたしの話を聞いているのかいないのか、禰󠄀豆子ちゃんは空を見上げていた。秋らしい澄んだ日差しがつややかなおでこに降り注いでいる。本当に不思議な光景だと見つめているときらきらと輝かせていた目が眩しそうに細められた。
「おひさま、ないと、まっくらなの」
たどたどしくそう言う顔は、なにか愛おしいものを見つめているように見えた。
「まっくらは、みんな、いや、だよねぇ」
おひさま。お日様。太陽。日の光。
鬼になってすらこの子にとって炭治郎くんがそうなのかもしれない。その人がすべてではないけれどその人がいないとすべてが色褪せて見える。そんなかけがえのない存在。
──じゃあ、わたしにとって、それは。
「……うん。そうだね」
きゅっとなった胸に手を当てていると、わたしの顔を覗き込んできた大きな桃色の目がぱちぱちと瞬き、にっこりと満面の笑顔を浮かべる。
「いま、おひさま、みてたね」
「うん、見てた」
おひさまというには少し物静かな青みを帯びた瞳を思い出したら無性に会いたくてたまらなかった。
◇
その後、やってきた金髪の隊士の妙に甲高い悲鳴に耳を押さえながら蝶屋敷を出て冨岡さんの家へと向かうけど、案の定留守だった。出がけにアオイから軟膏を受け取った時に聞くと、今日は緊急の柱合会議があるのだと言っていた。会議はまだ終わっていないのかもしれない。
さてどうしようかと門の前で腕組みをしながらふと、そういえばここにはよく来るのに周辺をあまり知らないなと辺りを見渡した。少し手前に千年竹林という石碑があったしきっともっと奥まで広がってるんだろう。興味が湧いて奥へと足を向けると道はすぐに舗装がなくなり踏み締められた土に変わった。自分の足音以外には葉擦れの音しか聞こえず、やがてそれすらも木々の合間に吸い込まれていった。
……こんな静かなところに住んでるんだ。
この場所を自分で選んだのか誰かの家を引き継いだのかそれとも水柱邸はここと決まってるのかはわからないけど、冨岡さんに似合うと思った。そして似合うことがほんの少しだけ淋しい、とも。冨岡さんはいつもひとり静かに大切なことを決めて、きっと誰にも話そうとはしない。
もしも目の前に鬼がいていくら他とは違う何かがあっても見逃せるだろうか。まして信じられるだろうか。
多分、いや、わたしには絶対にできない。その決断のあまりの潔さに身震いさえする。それが数年前なら今の自分とさほど変わらない年齢だろうに。
『冨岡さんのことを考えると、元気が出てきて力が湧いてもっと強くなりたいって頑張れる、みたいな感じです』
そんなことを言ったのは確かこの露草色のリボンをもらった日だ。
あれから半年も経ったのに。
「……遠い、なぁ」
頑張ってもちっとも届かない。知れば知るほど自分との差を突きつけられる。してもらうことばかりでわたしが役に立てることなんて本当にあるんだろうか。同じようにこの場所に佇んでも答えは見つからなかった。
冷えてきた風にもう戻ろうかと思い始めた頃、森の奥から会いたかったその人が近づいてきた。
こちらを見ていることがわかって呼びかけようとするけど咎めるような視線に足を止めた。
「なぜここへ」
「特に理由はありません、あまり来たことがないので散歩してただけです」
どうしてそんなにピリピリとしてるんだろう。この辺りに来てはいけなかったんだろうか。鋭い表情はすぐにいつも通りに戻るけど、まとっている空気はどことなく重かった。
話しかけることもできないまま冨岡さんの背中や足跡や景色をぼんやりと眺めながらお屋敷の近くまで戻ってきた頃、ふと違和感を覚えた。
冨岡さんといるとき、わたしはいつも小走りだったんじゃなかっただろうか。
「今日、柱合会議だって聞きましたけど何かあったんですか」
「柱稽古が始まることになった」
「それはまさか、柱が稽古をつけるんですか」
話しかけると会話してくれることには安堵しつつ、その内容に頬は引きつってしまう。夏からの冨岡さんの稽古を思い返せば、それが柱七人分なんて到底笑えない。
「どんな稽古なんですか」
「知らない」
「冨岡さんはどんな稽古をするんですか」
「俺はやらない」
「どうしてですか」
「柱稽古は柱がやるものだ」
「それはそうなんでしょうね。でも冨岡さんは水柱ですから」
当たり前のことを言うと冨岡さんはゆっくりと足を止めた。さっきの剣呑な様子は影を潜め今度は妙に塞ぎ込んでいるように見える。
どうかしたんですか? と俯いた目に問うけれど、返答はなく。
「……冨岡さん?」
「なんでもない」
顔を覗き込んだわたしに横目をやり再び歩き出そうとする体を咄嗟に押しとめた。その勢いがよすぎたのか道の端の土留めの柵までよろけていくので慌てて腕を掴む。
……よろける? この程度で? 冨岡さんが?
「やっぱり何かあったんですね、変ですよ」
「何もない。お節介はやめろ」
「やめませんよ。あきらかに様子がおかしい人を放ってはおけません」
冨岡さんはそのまま積まれた石の上に寄りかかるように座ってしまった。羽織の裾だけ掴んだままかける言葉を探す。
「会議は禰󠄀豆子ちゃんたちの話ですか? 冨岡さんにも関わるようなことがあったんですか」
緊急の会議だなんてよほど重要なことが起きたに違いなく、直近の最大のことはそれ以外に知らなかった。
「さっき聞きました。冨岡さんが炭治郎くんと禰󠄀豆子ちゃんのために命を懸けてるって。その二人がまた上弦との戦いに関わっていたことも」
炭治郎くんは上弦の鬼に勝ったし禰󠄀豆子ちゃんは太陽を克服した。だから何も心配するようなことは起きてないはずだ。誰にとっても朗報でしかないはずだ。
「さっき禰󠄀豆子ちゃんとも会いました。噂では自我がなくて子供みたいだって聞いていたんです。でもちゃんと心にぶれないものがあって炭治郎くんを守って一緒に戦えるすごく強い子でした」
その兄妹の絆はなんて強いんだろうと思う。禰󠄀豆子ちゃんも笑っていた。
──だけど。
「お前はそう思うんだな」
どこか否定的な口ぶりに顔を上げる。二人の活躍を誰より嬉しく思っているはずの人なのに、どうして。
「冨岡さんは違うんですか」
「炭治郎は妹を人間に戻す方法を探すために鬼殺隊に入った。その妹に守られていたのでは意味がない」
「意味がない、ですか……? 禰󠄀豆子ちゃんは守られるだけじゃなく戦えるのに?」
「それでも妹を失うところだった」
そう言って羽織を掴んでいるわたしの手を振り解く。近づけないのはいつものことなのにまるで拒絶されたようだ。わたしをじゃない。わたしを含むすべてを。
「戦うのは勝てる人じゃなきゃだめですか? 仲間が死んだときも意味がないって思ったんですか」
違うとわかっていた。わたしが帳面を見て傷つかないような配慮すらしてくれた人だもの。そこまで孤独な人だと思いたくもなかった。心から他人を拒む人はそんなつらそうな顔をきっとしない。
なのにどうしてそんなことを言うの?
「守られちゃだめですか? 守りたいって思っちゃだめですか? 負けたら、死んだら、無意味ですか?」
「そうじゃない。あいつにはちゃんと守ってほしいだけだ」
「炭治郎くんはたくさん守ってるし、だからこそ禰󠄀豆子ちゃんも戦えるしそうやって強くなるんじゃないんですか? 冨岡さんだってそうしてきたでしょう? この両手でたくさん鬼を斬って、色んな人を助けてきたでしょう?」
今度は羽織じゃなくその両腕を掴んで力を込めるけどされるがままに力なく揺れているだけだ。そして、また俯いてしまう。
「俺はそんないいものじゃない」
「どういう意味ですか……?」
わからない。柱のこの人がこんなに下を向いてしまう理由が。だけどその説明はなく、また手を解かれてしまう。
「確かに禰󠄀豆子や炭治郎の話もあった。でも本当に何でもないしお前には関係ない。必要なことならば後で柱達から通達があるはずだ」
これ以上は話さない。引き結んだ口がそう告げていた。
一人になりたがっているのはわかるけど放っておけるはずがない。だってなにか重いものを一人で抱えて耐えている。少しでいいから持ってあげたい。
でも多分それは他人にはわけることができないもの。もしくは他人に知られたくない、渡したくない、そんな痛み。
そんな風に痛みと心細さに耐える人に出来ることでわたしも冨岡さんも知っている方法は、もう、ひとつしか思い浮かばなかった。
うな垂れて丸くなった背中に両腕をまわし抱き締めるわたしを冨岡さんは拒まなかった。
「……布団の神様」
わたしが月経痛で倒れた時に教えてくれた、そのおまじない。
「どうか痛みを取り除いてください」
幼い頃にお姉さんがしてくれたと言っていたそれを大人の男性に向けるのは場違いかもしれないけれど、息を呑む気配がしたからそんなに的外れではなかったと思う。
「どうか、つらいところを全部吸い取ってください」
あの時、つらいなら無理するなって言ってくれた。大怪我をした時は、自分のことよりわたしを心配してくれた。家族の仇を討って泣いた時には傍にいて、誰からも話しかけられないようにしてわたしを泣かせてくれた。
「何もないならそれでいいし言いたくないならもう聞きません。でももし、もしもですけど、泣きたかったら泣いてもいいですよ。誰も見てませんから」
背中をぽんぽんと叩く。
夏の朝にそうしてくれたみたいに。
「『俺がいるだろう』って前に言ってくれましたよね。それなら冨岡さんにはわたしがいますよ」
全部全部、返したい。
冨岡さんがわたしにしてくれたこと。
しばらくそうして静かな呼吸を聞いているとやがて衣擦れの音がした。背中に腕がまわってきて抱きすくめられる。
「随分と寸足らずな布団だな」
「それはすみません」
耳元で呟かれた声は泣いてはいなかった。静かで淡々としたいつもの声。少し安心して両腕をさらに背中へまわすと一歩引き寄せられた。
腰掛けている冨岡さんの両足の間にそうして体を挟まれるとそれで背丈がほとんど変わらなくなった。羽織の肩口から感じる冨岡さんの匂いで急に速くなる胸の鼓動を意識してしまう。だけど顔を傾け、思っていたよりもずっと近い場所に待ち受けていた目を見て一瞬息ができなくなった。
まなざしは穏やかだけど淋しそうで、わたしを映す瞳はまるで、水面に射す光を深い水底から見上げるような、そんな孤独な青色。
「さっきまで考えてたんです。どうしたら冨岡さんに追いつけるのかなって」
背中にまわしていた両手をほどいて頬を包み込む。
どうしてこんなに冷えてしまっているんだろう。どうしてそんなに一人なの。
「でも多分わたしじゃ追いつけないんです。冨岡さんはあんまり強くてどんどん先へ行ってしまうから。でもわたし、背中を追うのは得意です。ずっとそうしてきましたから」
水底にいるあなたの手に触れられさえすれば引き上げられるのに。そのくらいの力ならもうあると思う。あなたが強くしてくれたから。
「だから、覚えててくださいね。もし何も見えなくなるくらい一人だと思っても、絶対にどこかにわたしがいるって。まあ、あんまり離されないように頑張りますけど」
ほんの少しだけ背伸びをして冷えた額に唇を落とす。
少し前までそうしてくれていたように。
一秒か二秒そうしてから離して顔を見ると、瞼は静かに閉じられていた。そして濃い睫毛を震わせながらゆっくりと開いた青い瞳がわたしを見つける。淋しげな色は変わらない、だけど。
「今は、ここにいる」
そう言って頬を包んだままのわたしの片手に大きな手のひらが重なった。あの花火の夜みたいに。
そういう意味じゃないです。
……それとも、そういう意味、なの?
背中にまわっていた反対の手に引き寄せられてさらに距離が近づく。
なんて綺麗な目。
なんて整った鼻筋。
なんて柔らかそうな唇。
でも、冨岡さん、間違ってます。
そのまま来ちゃだめです。
だって、ぶつかってしまいます。
わたしの、唇に。
ほんの少しだけあごを引くと、考えていることがわかったみたいに一度吐息が絡まる近さでわたしを確かめてから、冨岡さんはその距離を埋めた。
重ねられた唇もやっぱりひんやりとしていた。だけど不思議と温かい気持ちが流れ込んでくる。いつの間にか目を閉じたせいでその柔らかさも甘さも一層強く感じられる。
初めて求められたことが嬉しくて、少しでも役に立てているのだと思えばこんなに誇らしいことはない。何度も重ねているうちに冷たかった唇が少しずつ熱を帯びてくるのがわかる。
「ん……」
思わず声を漏らしてしまうと頭の後ろを支えられて口付けが一層深くなった。やり方なんてわからない。だけど、伝えたい。心の奥から湧き出てくる気持ちを、一滴残らず。
力になりたい。役にたちたい。
及ばずとも守りたい。幸せでいてほしい。
きっと誰にとっても心の奥底で優先順位がちゃんと決まってる。飛び出す瞬間、その人の行く先が日の光に照らされているのが見える。そうであれと願う。
そう思える人に出会えるなんて、わたしはなんて幸せなんだろう。
「好き……です」
どうしようもなく好きなんです。
伝わっていますか。
あなたがいれば何も怖くない。
あなたの幸せを守るためなら自分の命を差し出しても惜しくない。
「……あなたのためなら」
そうだ。わたし。
この人のためなら。
「しんでも、いい」
──けれど。
「……っ!」
突然両肩を掴まれて引き剥がされた。
さっきまで冷えていた冨岡さんの頬はほんの少し赤みがさしている。それはきっとわたしの熱が移ったせい。だけどその目が、その手が、なにか恐ろしいものを見たかのように震えていた。
そしてわたしを突き飛ばしてあっという間に竹林の奥へと走り去ってしまう。
「ごめん」
そう、ひとこと言い残して。
茫然として追いかけることも声をかけることすらできずその場にへたり込んだ。体中から力が抜けてしまっていてとても立っていられない。失言だったのはわかっていた。鬼殺隊にいるのにあんなこと。でもそれなら怒ってくれればいい。
「ごめん、て、なに……?」
口元に運んだ手が行き場を失う。冨岡さんの感触が消えてしまうのが怖くて唇に触ることはできなかった。
◆
竹林の奥へと逃げ出しながら唇を手の甲で拭う。宵谷の感触を消したかった。
『好きです』
何度言われても応えるべきじゃなかった。
『あなたのためなら死んでもいい』
向けられた最大級の愛の言葉。
誰かのために命を懸ける、鬼殺隊の誰もがそんな優しい決意で挑んでいる。その『誰か』に自分がなってしまうことを思えば叫び出しそうで足が竦む。
竹林を抜けてさらに奥へ、万が一にでも見つからない場所まで山道を分け入る。この方向にこのまま行けばお館様の屋敷に着いてしまう。彼女はそれを知らず歩いていただけだ。ただ俺に会いたかっただけだ。いつだってそうだった。わかっていたのに。
乱暴に刀を抜いて周りの草木を薙ぎ倒す。
鍛錬なんて呼べるような代物じゃない。闇雲に振るうな、平常心、といつも彼女に教えていることが自分ではまるで出来ていない。これで水柱などとは本当にお笑い種だ。
……痣? そんなもの俺に現れるはずがない。
大切なものは何一つ守れないくせに。
辞めさせていればよかった。立ち直らせなければよかった。花火なんて行かなければ、贈り物などしなければ、幼い頃の話なんてしなければ。
出会わなければよかった。
ごめん。宵谷。縋ってごめん。
もっと早くにちゃんと突き放しておくべきだった。このまま近くにいればいずれ来る戦いで彼女がどう動くかなど簡単に予想がつく。
だが時を巻いて戻す術はない。ならば俺はこれからそれをやらなければいけない。
『揺れるな義勇。水面だ』
先生、未熟ですみません。
もう大丈夫です。
腕を止めうな垂れた時、細く淡い紫の花片が羽織の裾に付いているのを見つけた。辺りには咲いていない。ここへ来る時にでも引っ掛けてしまったんだろう。
……これは、思い草、だ。
紫苑というその花の名より先に、かつて姉さんが教えてくれたその異名を思い出した。
『忘れ草と思い草、義勇はどちらを植えたい?』
そう聞かれたのは、父さんと母さんが死んで毎日泣いていた頃にしてくれた昔話の後だった。父親を亡くした悲しみのあまりそれを忘れたいと墓の周りに忘れ草の萱草を植えた兄と、決して忘れまいと思い草の紫苑を植えた弟の話。
『ずっと父さん達を想っていてもいいし、つらかったら忘れてもいいの。どっちも愛してるってことに変わりはないから』
あの時、俺はどちらと答えたんだろう。
紫苑の花弁をつまみ上げる。
姉さん、俺は忘れたりはしない。ずっとそうしてきたしこれからも同じだ。それにもし錆兎ならそうするだろう。
紫苑を植えた弟にはその想いに感激した墓守の鬼が現れ予知能力を授けたという。散々鬼に奪われ鬼を斬ってきた自分がそれを選ぶのか。
「なんの皮肉だ」
吐き捨て、もう一度唇を荒く擦る。
何度拭っても感触は消えてくれなかった。
(続)