第九話 夜顔
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「……お疲れさまです」
その晩にやって来た背の高いその人を、わたしは少し複雑な気分で出迎えた。
藤の家紋の家の玄関でのことだ。
家の方と母屋で夕食を食べている時だった。ちょうど家の子供がひっくり返したお皿が割れて大騒ぎしていたところで、来訪を告げる声に誰も出られなさそうだったので代わりに向かったのだ。
顔を合わせると冨岡さんの目が少しだけ見開かれたけど、わたしがここにいることではなく出てきたのがわたしだったから驚いた、そんな程度に見えた。
「最近よくお会いしますね」
つい数日前にも数里離れた藤の家紋の家ですれ違ったばかりだ。そもそも最近この方面の任務ばかりな気がする。
そう不思議に思っていると、
「お前の任務が俺の担当区域だけだからだ」
と答えが返ってきたので今度はわたしが目を丸くする番だ。
柱に担当地域があるというのは聞いていたけれど一般隊士もそうなったんだろうか。
「いつの間にそんなことになったんでしょうか」
「目を離さないと言った」
聞けばそうこともなげに言う。ということは、わたしだけなのか。
確かに言われたけどその時の状況を思い出してぽかんとする。ここ最近の単独任務ばかりの理由は冨岡さんかしのぶさんあたりが気を配ってくれたんだろうとわかっていたけれど、あれは比喩のようなものなんだとばかり思ってた。なんというか、ずいぶんと現実的な人だったみたいだ。
「冨岡さんはこれから任務ですか」
「いや、明日少し遠出をする」
多分ここが中継地なんだろうと理解して頷くと、すでに冨岡さんの視線はわたしの顔ではなく左足に注がれていた。隠すように後じさるけどもう遅い。包帯が見えないように後ろに引いていたし歩き方も気をつけたのにやっぱりばれたか。
「膝と足首です。でも無理して突っ込んだわけじゃないです」
鬼の頚を斬って着地した時に長雨で土が柔らかく崩れていたことに気づかず変な風に捻ってしまっただけだ。まあ、未熟に変わりはないけど。
それを説明した時、奥から軽い足音が聞こえてきた。
「イチカ姉ちゃん、誰だった?!」
お皿をひっくり返したわんぱくで人懐っこいその子は、土間に立っていた冨岡さんの姿を見てニヤッと笑う。
「義勇、また来たのか」
「また来た」
「いいけど後でまた生々流転やれよ! ……母ちゃーん、義勇来たー!」
と龍の真似なのか体をくねくねとさせながら奥へと走っていく。そうだ、家の人に告げるのを忘れていた。
間を置かず出てきた家の方も「まあ、義勇さん!」とやっぱり親しげで、冨岡さんがそれだけこの辺りを見回ってきたんだなぁと気付かされた。
「夜分に申し訳ない。一晩世話になりたい」
「ええ、もちろん。でも、今空いているお部屋が雨漏りして使えないのよ。どうしようかしら」
「数時間横になれるならどこでも構わない」
「そんなのはだめです!」
思わず割り込んでしまった。ただでさえ忙しいのにこれから遠出するのにしっかり休めないなんて、と。
「あら。……まぁ、義勇さんなら大丈夫だろうしイチカちゃんがいいなら良いんだけど。布団ならたくさんあるからね」
だから奥さんがそう言って冨岡さんを離れへと案内する姿に安心してしまったんだ。
その間際にちらりと意味ありげな視線を向けられたことにも、ここ数日過ごさせてもらっているその離れは広いけれど部屋はひとつしかない、ということの意味も大して深く考えてなかった。
◇
母屋で家の子と遊んだりお風呂をいただいてから離れと繋がる渡り廊下を歩く途中、さほど広くはない庭の壁を伝っている大きな葉の間で光る白いものに気がついた。月明かりに照らされた夜顔だった。
丸みを帯びたひらひらとした大輪の花びらに、辺りに漂うどことなく甘い匂い。
もし昨日も咲いていたのに今気づいたならずいぶんとぼんやりしていたんだな、と気を取られていたせいか、渡り廊下から部屋へと上がる手前に浮かんだ白い影に、
「ひぃっ」
と持っていた荷物を取り落としてしまう。
「ど、ど、どうしてそんなところにいるんですか」
季節外れの幽霊かと思ったら冨岡さんだった。わたしが借りているのと同じ柄の浴衣に着替えて、部屋の灯りもつけず壁に背を預けて座り込んでいる。もちろん冨岡さんがいることを忘れていたわけじゃない。さっき家の子にせがまれて生々流転を見せた後引き上げていたからてっきりもう布団にいると思っていたからだ。
けれどその布団は入り口のすぐそば、部屋の端っこというよりもはや廊下に敷かれている。もちろん蚊帳の外だ。まさかこんなところで休むつもりなんじゃ。
「俺のことは気にしなくていい。お前は好きに過ごせ」
案の定そう言う理由は、部屋にわたしの刀や荷物があったせいだろう。
「何を言ってるんですか、奥に入ってください」
いくらわたしが先にいたからといって、上官を差し置いて部屋の真ん中を占領できるわけがない。
隅に置かれている布団を奥まで引っ張って整えてから、少し迷って自分が使っているものも蚊帳に入れるぎりぎりの所に離して敷く。
……うん、これは、わたしが無理だ。
冨岡さんが慮ってくれたのは多分夏の一件からなんだろうとは思う。共同任務の時の雑魚寝はよくあることだったけど、たしかに今のわたしに誰かと一緒は怖い。でも無理な理由はそういうのじゃない。冨岡さんだからだ。好きな人の隣でなんて緊張して眠るどころじゃない。
「わたしは大丈夫ですからこっちに来てください。もし気になるならわたしが隅に行きますから」
「怪我人にそんなことをさせるつもりはない。それに虫に食われるぞ」
言われ、部屋の隅まで覆いきれていない蚊帳を見上げる。夜風はもうすっかり秋だけど昨日までは雨だったし虫もまだ多い。
考え込むわたしを見てせっかく真ん中に敷いた布団をずりずりと元いた場所へ引きずって戻そうとするので、慌てて反対側を掴んで引き留める。自分が刺されるのも嫌だけど冨岡さんの白い肌が虫刺されだらけになるのも嫌だ。
「お願いですから中に来てください」
「こっちでいいと言ってる」
「それはだめですと言ってます」
ああだこうだと抵抗するのを諦めずに説得を試みる。こうなればもはや意地だ。こんな早くから夜に休めるなんて貴重なんだから少しでもゆっくりしてほしい。明日遠くまで行くならなおさらだ。冨岡さんの体とわたしの緊張のどちらが優先かなんて天秤にかけるまでもない。
「中に来てくれるまでわたしは寝ませんよ」
最終的にはそう脅し、布団の間に可能なかぎりの隙間を取って敷いてからようやく冨岡さんは頷いた。
やっと落ち着いて布団の脇に座る頃には少し汗をかいてしまっていた。ぱたぱたと手で衿元に風を送りながら、さっきと同じように部屋の入り口に腰を落ちつけている冨岡さんをちらりと窺う。こちらに向けている横顔はいつもよりも涼しい顔をしていた。
「どうして灯りをつけないんですか」
「庭を見ていた」
「そんな風流なこともするんですね」
確かにここ数日の雨が上がり久しぶりに見上げた夜空は澄み、十五夜も近い月明かりに眩しいほど照らされている庭は綺麗だ。
「甘い匂いがする」
「夜顔ですかね」
まだ濡れている髪とそれを拭う手拭いを風が揺らした。離れは入り口も北側の障子も開け放たれていて夜風が気持ちよく通り抜ける。夜顔の匂いはここにいるだけではわからないけれどついさっき同じことを思ったばかりだ。
「わたしここに三日いるんですけど、さっきまで気づかなかったんです。雨だったから暗くて見えてなかったのかもしれま……」
「違う」
言葉を遮られて顔を上げると、冨岡さんは庭ではなくわたしを見ていた。
「お前から」
振り返るその後ろから差す月明かりが、真っ黒な髪の先を透かして輪郭をほんのり淡く輝かせていた。髪を拭くていを装って慌てて手拭いを頭からかぶる。そうしていないと隠せない気がした。
「あ、あの、多分さっきお家の方に化粧水をお借りしたからそれだと思います。藤の家紋の家の方は皆さんすごく親切にしてくれますよね。前に花火を見に行った時の奥様も……」
どぎまぎとして勝手に早口になるお喋りは、聞こえてきた床の軋む音でしりつぼみになる。それから蚊帳をめくる気配がして、俯いて狭い視界のなかに大きな裸足の足が入ってきた。冨岡さんはそのままそこにしゃがみ込むと、手ぬぐいの内側に手を差し込んできた。
指が、触れられた頬が、熱い。
「……っ」
近づいてくる顔にきつく目を閉じると、すん、と間近で吸い込む音がした。
「本当だ」
……これが無自覚ならたちが悪い。わかっていてやってるならひどい人だ。すぐに離れていった手にへなへなと力が抜ける。さっさと自分の布団の上に座り直す顔はもうわたしの方を見ていない。
前言撤回。たちが悪くてひどい人で、とんだ天然すけこましだ。
「冨岡さん」
憎たらしい気持ちがするのにそんな風に触れられたらもう少しだけと望んでしまう。傍に寄って見つめると、ほんの少し迷った手で肩を引き寄せてくれた。
これは機能回復訓練のようなものなんだと思う。
あれから時々冨岡さんは、こうしてわたしに触れてくれる。隊服は着れるようになったし着てしまえば憂いは嘘のように刀も振るえた。
だけど、隊士だけでなく一般の人でも大柄な男性を見かけるとつい強張ってしまうわたしに気がついて励ますように手を握ってくれたのが最初だった。引き寄せて背中や頭を撫で、時々は額や首に唇を落としてくれることもある。
多分、教えてくれているんだと思う。
わたしの体は丁寧に扱われる価値があるということ。わたしの心は蔑ろにされていないということ。人の温もりと優しさ。男の人の体に怯えないように。また他の隊士と共同任務が出来るように。自分がいないところでも戦えるように。
でも冨岡さんはわかってない。
そうして触れられるたびに、『怖いか』という気遣いの声が耳元で落とされるたびに、わたしの身体の奥にあの時の熱が甦っていること。
あの夏の日からわたしは「好きです」と簡単に言えなくなっていた。
「宵谷」
呼ばれて、肩に預けていた頭を上げる。
「さっき、そんな風流なこともするのかと言ったな」
「はい。でも似合わないとかじゃなくて少し驚いただけですよ」
意外とまではいかないけれど日常の姿を見ることは少ないのでひとつずつ知れるのが嬉しかっただけだ。
「俺は庭を眺めるのが割と好きだ」
「そうなんですね」
「酒も飲む」
「ええと」
……どういう繋がりだろう。
必死に頭を回転させて、そういえば梅雨の頃に紫陽花を見ながらお猪口を傾けていた姿を思い出した。確かにあの時も少し驚いた気がする。
「それにお前は俺を強いと思ってるかもしれないが苦手なものもある」
「それは人間ですから当然です。ちなみに何が苦手なんですか」
「……。犬だ」
「それは、ちょっと意外です」
正直に言うと、こくり、と頷いて続ける。
「だから、ちゃんと覚えておいてほしい」
「何をですか」
「お前は俺をなにも知らない、と」
……これはもしかして、ついに振られようとしてるんだろうか。
そう思った時唐突に恐怖が襲った。知っていてもらえればそれでよかったはずなのに。
「もちろんそのとおりなんでしょうけど、大事なことはちゃんと知ってます。冨岡さんは優しくて温かい人だって」
正面を向いたままの少し伏せ気味の目になにか読み取れないかと見つめるけど、何度か瞬いて反対側に逸らされてしまう。待って。まだ行かないで。
「これ以上はなにも求めませんから、まだお傍にいさせてください。いま突き放されたら立っていられません」
その優しさにつけ込むような真似をするのはずるいとは思う。
だけど、冨岡さん。
わたし本当はもうそれだけじゃないの。
肩に置かれている手をぎゅっと握ると、その指に力が入った。食い込む指も眉根にしわを寄せるほどきつく閉じた瞼も苦しげだった。
「そういうことじゃ、ない」
「じゃあどういう意味ですか」
返事はなかった。ううん、それが返事なのだと気づかなかっただけなのかもしれない。
胸元から見上げたままでいると冨岡さんはやがて力を抜き、わたしの頬にそっと触れてきた。遠慮がちな指先に自分からすり寄っていく。あなたがいるからわたしは大丈夫と伝えるその仕草。
いつもと変わらなかった。そこまでは。