5日目 PM




「ここを下りるんですか?」
 
 冨岡さんに連れられてきた島の北のダイビングスポットは、浜辺ではなく岩場だった。
 有名なスポットらしく駐車場は整っていたけれど、ダイビングで混む時間より少し遅かったせいか思っていたよりも人気はない。宇髄さんやみんなが乗っているはずのショップのワゴンも見当たらなかった。
 
「……下りるのか。潜らないなら何もないが」
「せっかく来たので」
 
 海面へと続いているらしき階段へと近づくと、風の音が岩に反響していた。冨岡さんは少し渋った様子を見せながらも先に下り始めた。
 段差はなかなか急で、器材を背負って下りるにはかなり体力が要りそうだ。岩から水滴がぽたりと垂れて、日差しはあっても階段は濡れている。今日は歩く予定でいたからスニーカーを履いてきて良かった。
 海面近くまで下りると人の声が反響していた。ダイビング以外にもシュノーケルができるみたいだ。邪魔にならないタイミングを見計らって海辺に設置されている手すりに捉まり、奥の方を覗き込む。
 
「あれ? 洞窟ですね?」
「少し奥で色が変わっているのがわかるか。あの向こうが外洋だ」
「どこですか、……もっと右? んん……?」
「ああ。あまり乗り出すと滑……」
「きゃあっ」
 
 せっかくの忠告も一足遅かった。
 足が滑って尻もちをつくと腕が捩れ、手すりを掴んでいる手をつい離してしまう。
 岩の上を滑りながら咄嗟に思ったのは「このまま落ちたらどこかに頭をぶつけてしまう」だった。一昨日、海での初ダイブの後に手のひらに感じた血の感触がよみがえり、咄嗟に顔と頭を両手で庇った不安定な体勢のまま海の中に落っこちる。水飛沫があがる寸前、冨岡さんやシュノーケルをしていた人達の声を聞いた気がした。
 沈み込んだのはたぶん一メートルと少し。邪魔だと思ったスニーカーが軽く、蹴っているうちにすぐに海面に顔が出た。反対に、海面に浮くだろうと思ったスカートの裾が脚にまとわりついて泳ぎにくい。
 登れそうな場所を探して見渡す直前、近くで大きな水音が立った。海面を揺らすような音だった。驚いてそちらを向くよりも早く、脇の下を支えられた。少しだけ体が浮いて海面が遠のく。
 
「そこの岩場に足がつくか。慌てなくていい、押し上げる」
 
 冨岡さんは後ろからわたしを支えながら、いつもよりも少しだけ大きな声でそう言った。
 言われるがままに近くの岩に手足をかけると、手伝ってくれたのはシュノーケルに来ていたグループの人達だ。
 なんとか這い上ったわたしに「大丈夫ですか?」「びっくりしたー!」と笑う声に、
「大丈夫です! ありがとうございます!」
 と笑顔で答える。
 
 余裕を持ってハプニングを受け止める楽観的なムードとは裏腹に、続けて上がってきた冨岡さんだけが無表情で、わたしを見る瞳が鋭くて、少しだけ怖かった。

 
 ◇
 

 ずぶ濡れの格好で岩場の階段を上り駐車場へと戻ると、冨岡さんは車に積んでいたバスタオルをわたしに渡してから、急いで車を発進させた。背もたれにぐんと背中が押しつけられる。
 
「……っ、くしゅん! ………、っ、くしゅんっ」
 
 車内にさす日差しは暑いのに、小さなくしゃみが飛び出した。
 バスタオルに顔を埋めるわたしを冨岡さんがチラリと見た。それから、ホテルへと急いでくれていたはずの車は来た道とは違う方向へと曲がっていった。
 道を少し戻って脇道に逸れた場所は、周囲の視線を遮るように道から少し下がっていて、南国らしい低木が生えている。木陰へと車を停めると、冨岡さんは後部座席に置いてあった荷物を足元へと下ろし、サンシェードを窓に取り付けた。
 
「これに着替えてろ」
 
 有無を言わせない口調に頷き言われるがままに後ろへと移動して、手渡されたTシャツを受け取る。冨岡さんは少し乱暴にドアを閉めると、木の向こうへと早足で行ってしまった。
 
「着替え、ありがとうございました」
 
 後部座席のドアを開けて声をかけると、離れたところでこちらに向けられていた背中がわずかに震えた。
 ゆっくりと振り返った冨岡さんは、上半身裸だった。ハーフパンツは履いているけどわたしが着替えている間に脱いで絞ったのかしわくちゃになってしまっている。
 少し視線を逸らせているのはきっと、わたしが借りたTシャツ一枚しか着ていないからだ。
 車に積んであったらしい新品のショップのロゴTシャツは、冨岡さんの予備にしてもやたらと大きかったから太腿まで隠れるのでとても助かる。とはいえ襟が開きすぎて肩からずり落ち、さすがに取れないブラジャーの紐が見えそうだ。直そうとすればするほど裾が持ち上がり、パンツ一枚のお尻がとても心許ない。
 こそこそと外へと出てみると、戻ってきた冨岡さんがボンネットの上に着ていたTシャツを置いた。真似て、絞ったワンピースを隣に広げる。この気温なら少しの間でもある程度は乾くだろう。
 
「大丈夫か」
「はい」
 
 冨岡さんに頷き、車へと戻る。車内はサンシェードをしてドアを開けていても暑い。けれど後部座席に沈み込ませた体の奥が、まだ細かく震えていた。
 寒かった。冷たかった。洞窟だったからだろうか、昨日泳いだ場所とは水の温度が違っていた。同じ海なのにこうも違うのかと背筋が震える。
 でも心は比較的落ち着いていた。慌てなければ人間意外と浮くものだ。海への恐怖心は薄れている。講習の四日間は無駄じゃなかった。
 ――その代わりに。
 
「あの、水を一本もらってもいいですか。……傷を洗いたくて」
 
 やっぱりどこかにぶつけてしまったのか、両方の手の甲に傷ができていた。もう血は止まっていたけれど、咄嗟に庇わなければやっぱり頭をぶつけていただろう。
 後部座席の足元にある買い置きからミネラルウォーターを一本もらって濡らしたハンカチで拭っていると、トランク部分から救急箱を取り出した冨岡さんが開け放してあるドアから顔を覗かせる。
 
「なんでもあるんですね」
「たまに仕事でも使うからいざという時用に一通りは積んである。……ほら」
 
 わたしを奥へと押し込んでから隣に座ると、コットンに消毒液を浸した。差し出した両手にひんやりと押し当てられ、ビクンと跳ねたのが体ではなく鼓動だけだったのは褒めてほしい。冨岡さんのもう片手がわたしの手を下から支えるように包んでいた。
 
「溺れた人は放っておくんじゃなかったんですか?」
「時と場合と人による」
「どうせわたしはぴよぴよダイバーですよー、だ」
 
 わたしの言い方がおかしかったのか冨岡さんは息を吐く程度に小さく笑い、その拍子に揺れた前髪から落ちた雫がハーフパンツにしみを作っていった。
 自分のことは拭いもしないでタオルも着替えも貸してくれたんだと思うと胸がきゅっとなった。自分で思っていたよりもずっと、甘く。
 
「ありがとうございます。助けてくれて」
「あまり必要はなかったが」
「そんなことないです。すごく安心しました。それにさっきも、お土産屋さんで声かけてくれた時も、嬉しかったです。もう会えないと思ってたから」
 
 消毒綿をとんとんと押さえていた手が止まった。視線を上げると冨岡さんはわたしをじっと見つめていた。青い目がなにかを見透そうとするように揺れて、すぐに逸らされた。
 
「……背後からどうとか、お前は人のことを言えるのか」
「え?」
「なんでもない」
 
 急に落ちた沈黙が落ち着かない。街で最初に助手席に乗り込んだ時みたいだ、消毒をされている指先がわずかに緊張してしまう。いつの間にか近づいて触れてしまいそうな膝をずらし、半分露わになっている太腿をきつく閉じる。
 わずかな緊張と気まずさでそわそわした。濡れて顔に張り付いた髪の毛が邪魔で、それを指で耳にかけようとしたその時、――やってしまった。
 
「いったぁぁぁっ!」
 
 思わず叫んで、耳を覆うように手をかざす。ひどい日焼けをしている耳裏にうっかり触れてしまい、焼け付くような鋭い痛みが頬まで広がっている。
 ひりひりとした痛みをどうすることもできず、手をかざすだけで震えていると、冨岡さんがペットボトルの水を染み込ませたタオルを手渡してくれた。これで拭けということなんだろうけれど、細かく首を横に振る。
 
「いや、無理、拭けない。触らなくても今すっごい痛いもん」
 
 触ってしまったせいか、やっぱり服のまま海に落ちたことで動揺していたんだろうか、ようやくそこまで気が回るようになった今頃になって、すごく痛い。
 
「海水だろう。流すからあっちを向いてろ」
 
 冨岡さんは少し前のめりになってわたしの耳の後ろを覗き込むと、タオルを耳の下にあてがいながら上から少しずつ洗い流してくれる。そうされるとただでさえ車内という限られた空間の中でさらに距離が縮まって、暴れだす心臓が耳から飛び出してしまいそうだ。
 
「……ああ、真っ赤になってる」
「それは……っ」
 
 半分あなたのせいです。
 という言葉を、わたしは奥歯で噛み潰した。だから近いよ、近い。パーソナルスペース狭すぎだよ。タオルを持つ手もペットボトルを持つ指も静かな呼吸も、全部わたしに触ってる。
 視線を逸らして後部座席の背もたれをどこか腹立ちまぎれに睨むと、ふっと吐かれた息が首筋に触れた。ぴくりと肩をすくませながらも、それがひどく控えめではあるけれど確実に笑い声だったことに気づいて、冨岡さんの肩をパシンと叩いていた。
 
「もうっ、なんですか!」
「こんなに手間のかかる客は初めてだ」
「もう客じゃないもん」
 
 ふくれっつらでそっぽを向くと、冨岡さんの手がゆっくりと止まった。
 言葉数が多い人じゃないのはわかっていた。海辺でもボートの上でも車の中でも食事中にも、ふいに沈黙が訪れることはもう知っていた。その意味を聞きたいと思う瞬間が何度もあった。
 でも今、今だけは、こくりと上下に動いた喉仏でなんとなくわかった。
 冨岡さんは今、自分が『客と寝たりしない』と言った言葉を思い出してる。
 
「……客じゃ、ないですよ」
 
 最初はそういう意味じゃなかった。でも、繰り返せばそういう意味になってしまう。
 
「……そう、だな」
 
 厳密に言えば客には違いないのに耳の近くで肯定するから、思わず肩が跳ねてしまう。緊張した声音が、わたしの気持ちも伝わってしまったと教えていた。
 注がれる視線がもう耳ではなく横顔なのがわかる。
 今そっちを向いちゃだめ。目を合わせたら逸らせなくなる。
 だから、できることは目を閉じることくらいで、だけど瞼の向こうが暗くなったのはそのせいじゃないとわかった。
 湿った硬い髪が頬をくすぐり、そのままゆっくりと顔が近づいてくる。少しだけあごを上げてその時を待ち受ける。温かい吐息が唇に触れた。
 冨岡さんの睫毛の震えさえ感じられるほど近づいた――その時。
 ごおっと強く吹いた風が、車体を揺らした。
 重なる寸前で、冨岡さんの動きが止まった。薄く瞼を開けてみると、すぐ目の前で吐き出された息が「……服」という言葉に変わる。
 
「……飛ばされるかもな」
 
 わたしから逸らせた視線は運転席の向こう、ボンネットの方に向いていた。サンシェードで外は見えないはずなのに、それがとても重要なことのように真剣な顔だった。濡れた黒髪から覗く耳朶は赤い気がするのに横顔は気まずさを隠していなかった。
 ――今、この瞬間を逃したらもう会えないかもしれない。その焦燥が胸を焼いた。
 背もたれに置かれていた手が離れようとするのを拒むように掴む。冨岡さんがハッと振り向いた。青が揺れていた。
 
「……しないの……?」
 
 視線が絡んだのは一瞬。
 掠れた声で誘った唇は、すぐに柔く塞がれた。
 初めはそっと。だけど、長く。そして一度重なった唇は、もう止まらなかった。頬を包んでいる手がかさかさとしていた。多分わたしの肌はベタついているはずだ。
 
「ん……っ」
 
 少しずつ深くなるキスに声を漏らすと、荒く息を吐いて離れた冨岡さんが背後のドアを閉めた。そのままわたしを跨ぐように反対側へと手を伸ばす。バタンという音と共に車体が揺れ、体がシートに沈み込んだ。
 押し付けられている体が熱い。昨日まで憧れていた青からは想像できないほど。わたしの肩を撫で、腰を引き寄せた手がTシャツの裾から滑り込んできたその時、初めて少しだけ抵抗した。
 
「ま、って……、え……、ここで?」
「大丈夫だ」
 
 ――大丈夫って、なにが。
 
 だって道路から見えないとはいえここは外だ。それもまだ真昼間。ドアは閉まっているけれど風を通すために窓は開いている。遮ってくれるものはサンシェードと南国の低い木しかない。そもそもアバンチュールなんてちっともわたしらしくない。
 でも冨岡さんは、こういうことをするのに慣れているのかもしれなかった。互いの手や唇で昂らせた体を離し、サイドボードに腕を伸ばして取り出した小さな箱に、――中から取り出した小さな正方形の袋に、ほんの少しだけがっかりしてしまう。これもいざという時用にいつも備えているものなんだろうか。客以外とは奔放なんだろうか。モテないと言ってたくせに。いったいここで何人としたんだろう。そんな風には見えなかったけど、わたしのことちょろい女だと思ってるのかもしれない。

 しない理由はいくつもあった。
 だけど準備を終えた体を迎え入れた理由はきっとひとつだけだった。
 
 ――いいや。ちょろくても。
 
 体の奥まで満たすその青は、今までに見たどの青よりも綺麗で、わたしを捉えて離さない。

 
 ◇

 
 体を離した時、日差しは真横から差し始めていた。暑さで息苦しいくらいだ。車内の熱気だけじゃない。肌や体の奥にまだ冨岡さんの熱が残っていた。
 
「大丈夫か」
 
 後部座席のシートにもたれると、目の前にペットボトルが差し出された。小さく頷き、キャップをはずして口に含む。一口、一口。水とお湯の狭間の温度で喉を下っていくたびに、落ち着きを取り戻していく。
 渡されたバスタオルと引き換えにペットボトルを手渡し、隣でシートに背中を預けた冨岡さんをちらりと窺う。飲み下すたびに上下する喉仏から広い肩へと視線を逃し、そこに残されていたものに気がついて息を呑んだ。
 
「あの、ごめんなさい、これ……」
 
 そこには引っ掻き傷がいくつもついていた。夢中だったわたしがつけた、なにかを想起させるその赤い爪痕。
 
「どうしよう、水着のお仕事なのに……」
「気にするな」
 
 短くそう言って確認するように自分の肩を撫でた手が、わたしの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。どこか嬉しそうに細くなった目元に胸がきゅっと締め付けられる。
 温かさが胸に沁みてこつんと頭を肩に預けたその時、運転席に置いてあった冨岡さんのスマホがピロンと鳴った。冨岡さんは少し迷ってから手を伸ばし、それを見るなり眉の間に皺を刻んだ。
 
「なにか問題ですか?」
「いや、宇髄からだ」
「呼び出しとか?」
「……いや」
 
 曖昧に答えてこちらに向けられた画面に書いてあったのは、時刻だった。見覚えのあるその数字は、わたしが明日乗る予定の飛行機の離陸時間だ。便名も一緒に書かれてあるから間違いない。
 だけどどうして宇髄さんが知ってるんだろうと首を捻った。いや、知っているのはわたしの友人達に聞いたんだとしても、どうして冨岡さんに知らせてきたんだろう?
 疑問はすぐに解けた。
 続けて届いたメッセージで。
 
 ――ピロン。『間に合うように帰してやれ』
 ――ピロン。『車汚すなよ』
 
 顔が爆発するかと思った。パッと冨岡さんを見上げる。すでに困惑した表情は消え、見慣れた平然とした顔に戻っている。
 この状況で平常心? それとも気まずすぎて固まってる?
 どういう気持ちの顔、これ?
 
「どうしてバレてるんですか!!」
「……大丈夫だ。宇髄はわざわざお前の友人に話したりはしない」
「甘いですよっ」
 
 午前中、たまたま冨岡さんと出くわしたこともお昼を食べに行くからホテルに戻るのが遅くなるかもしれないことも、とっくに連絡済みだ。宇髄さんに飛行機の時間なんて聞かれたらどんな想像が発展していくか、冨岡さんにはわからないんだろう。
 慌てて自分のスマホを確認する。さっきはなかったはずの通知が数件。『チェックアウト10時だからね。義勇さんによろしく♡』の文字に頭を抱えた。
 さすがに今すでに一線を超えてるとは思わないだろう。だからといって今すぐ帰っても遅い。冨岡さんと二人で出かけてこんな乱れた格好をして戻ったら「みんなの妄想が暴走してるだけだよ」と笑い飛ばせる度胸はとてもじゃないけど持ってない。
 ……ここはもう、前向きに。自分の口から話さずにすんだと前向きに、考えるしかない。
 わたしが頭を抱えている間に、冨岡さんはボンネットで乾かしている服を取りに行っていた。多少湿ってはいるけれど身につけて、座り直してから冨岡さんのほうに体を向ける。
 
「……これ、冨岡さんのじゃなくてショップの車なんですか」
「宇髄のだ。だがときどき仕事でも使ってるから、正確には店のかもしれない」
「そこはどっちでもいいです。車汚すなよってそういう意味ですよね。なんでバレてるんですか」
 
 わたしがそこまで踏み込むとは思わなかったのか、冨岡さんは初めて言葉に詰まった。しかも目を逸らした。
 
「……ここに停まってるから」
「どうしてここに停まってるとそうなるんですか。というかなんでここにいるってわかるんですか」
「GPS」
「なるほど。それで、ここってなんなんですか。観念して全部説明してくだい」
 
 説明は以上だとでも言わんばかりの短い返答にさらに詰め寄ると、冨岡さんは重たげに口を開いた。ただし、インストラクターとしてのようなわかりやすく淀みない説明じゃない。言いたくないのかなんなのか、単語を繋げたような辿々しさで、わたしは何度も細かく聞き返した。
 ――曰く。
 この宇髄さんの車は、ショップのワゴンが足りない時は仕事でも使うこと。ショップのみんなが乗れること。そのうち車内でことに及んで使えなくなったスタッフがいること。そのスタッフから聞いたここは、こういうことをする穴場だということ。『サイドボードに忘れ物してあるからな』と囁かれたこと。
 
「……なるほど」
 
 他人の車。他人が性行為をしたシート。他人が置いて行った避妊具。それらぜんぶを使ったわたし達。色々と最悪だ。
 
「最初からそのつもりで来たわけじゃない。着替えをするのに人目につかないと思ったから」
 
 そんな説明を信じられると思うんですか。
 口にはしないもののじとりと睨む。さっきまでの情熱もときめきもシュルシュルと萎んでしまっていた。
 だけど、それでもいいと飛び込んだのはわたしだ。最悪には違いない、それでも、心のどこを探しても後悔は見つからなかった。
 
「……わかりました」
 
 深く息を吐いた。苦しいときこそ息を吐く。そう教えてくれたのは冨岡さんだった。この場面で実践することになるとは思いもよらなかったけど、荒れた心をなんとか立て直す。
 
「でも、せめて冨岡さんの車だったら良かったな」
 
 そうしたら、帰ってから思い出す時にいい思い出になったのに。
 
「持ってない」
「……え、不便じゃないですか、こんなところで暮らすのに車ないと」
「店には自転車で行けるし、たまに借りれる。夏だけならさほどは困らない」
「そうなんだ……。……ん……?」
 
 思わず瞬きをした。目の前の冨岡さんを見つめると「なんだ?」と見つめ返してくるので、今聞いた言葉を追いかけるようにぐるりと目を動かして、首を傾げた。
 
「夏、だけ?」
「ああ。夏だけここでインストラクターをしてる」
「そうなんですか?!」
 
 思わず前のめりになったその拍子にシートが弾む。車体が揺れるほどのわたしの勢いに、冨岡さんは少し目を丸くしながらも頷いた。
 
「来月末には日本に戻る。休みが合いそうなら潜りに行くか。近場なら朝出れば何本か潜れると思うし、よく行くところは温泉も近いから、もし泊まれそうなら……」
「ちょちょちょちょっと待ってください!」
 
 ぐるぐると渦を巻く思考を整理しながら、もしかしてという期待が胸の奥から浮かび上がってきてしまう。口を開きかけて、閉じ、また開きかけて、息が止まる。
 
「え、それは……また会おうって意味ですか……?」
 
 熱くなった喉からなんとか絞り出すと、今度は冨岡さんが驚いた顔になった。
 ああ、と溜息をつくと、わたしが痕をつけた肩や首の後ろを撫でながら俯き気味に視線を逸らした。
 
「……なんだ、ワンチャンってやつだったのか」
「そうじゃないですっ! そうじゃないんですけど……」
 
 心なしかしぼんだように見える肩に、口ごもる。きっとさっきまでのわたしはこんな顔をしていたんだろう。
 
 伝えなきゃ。伝えたい。
 でもなにを言えばいいのかわからない。どう伝えればいいのか。信じたいのに臆病が邪魔をする。息苦しい。落ちた沈黙は海の底よりもずっと静かで深かった。
 迷って視線を落とすと、ゆるく握られていた冨岡さんの手がゆっくりと動いた。思わず追いかけた視線の先、長い人差し指と中指を開いて自分の目を指し示す。
 
「こっちを見ろ」
 
 波音が聞こえ、真っ直ぐな青に飲み込まれた。
 
 それは、ここで覚えた言葉にしなくても伝えられる方法。
『こっちを見て』『体に異常あり』『あなたがいないと息ができない』『わたしと一緒に行こう』
 
 いくつものシグナルが魚の群れみたいに頭の中を横切っていく。
 
 ――でも、それじゃ足らない。
 わたしが伝えたいのは、わたしが手を伸ばせなかったのは、もっと単純でもっと真っ直ぐな、あなただけに伝えたいもの。
 ぎゅっとワンピースの裾を掴んだわたしの視線が冨岡さんの胸元へと落ちた。しわくちゃのTシャツに描かれている、その文字。
 
『GIYU』
 
 体の内側から小さな想いの粒が浮かび上がってきた。海の底で吐いた息がポコポコと立ち上り、やがて水面で弾けて光の粒になる。そんな風にはっきりと見えた。
 
 わたしは、深く、深く、息を吐き切った。
 新しい空気を取り込む邪魔をする古い空気を、臆病を、不安を、追い出すように。
 
 今度は声にして伝える。
 海の外でもちゃんと届ける。
 
 わたしはゆっくりと胸の奥まで空気を吸い込み、想いを声に乗せた。
 
「……義勇さん、あのね、わたしね――」






 
 
 
 
 


 〰︎完〰︎

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
˗ˏˋ ✩ ˎˊ˗⊹˚.⋆˗ˏˋ ✩ ˎˊ˗⊹˚.⋆˗ˏˋ ✩

お読みいただきありがとうございました!
 
 
 
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