5日目 AM



 
 翌日、わたしはひとりでホテル近くのメインストリートを歩いていた。
 昨日の帰り際に友人達に、「行くはずだった北の絶景ポイントに潜って来て」と告げたのだ。だって、せっかく休みをとってきたのに一番の目的を果たさずに帰るなんてもったいない。
 実を言うと四日間慣れないことをして疲れてしまって本来の今日の予定――離島でパラセーリングなどのアクティビティとか――をこなすのは無理そうなんだ。
 そう言うと安心してくれたのか、送り出した時にはみんな晴れやかな顔をしていた。
 とはいってもずっとホテルにこもっていても仕方がない。なんせ帰ったら次にいつ潜れるかどころか、海を見れるかもわからない。それどころかすぐにまた日常へと戻らなければならないのだ。

 滞在しているホテルがあるのは、ショッピングセンターやレストランが立ち並ぶ一番の繁華街の一画だ。行き交う人で賑わう街並みは綺麗に舗装されていて、それなのにコンクリートの照り返す熱気は、海よりも少しばかり乱暴で、喉が詰まって息苦しい。明日からはまた、ここよりももっと狭苦しいコンクリートのオフィス街へと戻らなきゃいけないのに、こんなことでどうするんだろう。
 それでも免税店をのぞけば、見ているだけでも心が弾む。愛用している化粧水のビッグボトルを買って、サングラスやテスターの香水を試して。
 コスメエリアでパッケージが可愛かったブルーのラメのアイシャドウをまぶたに重ねると、ふと、もっと澄んだ青い瞳をした人が頭に浮かんだ。
 昨日までの四日間、Tシャツとショートパンツ姿に日焼け止めを塗っただけの顔しか見せてなかったけれど、ちょっとだけおしゃれした今日のわたしを見たらあの人はなんて言うんだろう。
 
「……なんにも言わなそう……」
 
 自分の見た目にあまり頓着していないあの前髪を思い出すと少し笑える。わたしは結局そのまま店を出て、すでに懐かしくなっている海へと足を向けた。
 

 街と海とを繋ぐほど広い公園の遊歩道を歩いていくと、浜辺には現地の人が何艘か船を出していた。漁なのかただの釣りなのかわからないほどののんびりさだ。
 午前の明るい日差しに煌めいている沖に見えるのは、おそらく今日遊びに行くはずだった小島だ。珊瑚に囲まれたエメラルドグリーンの海。ポストカードのようなこの美しさが加工されたものじゃないことは、もう知ってる。
 日本で行ったことのある数少ない思い出の中の暗い海とつい比べながら、それでもなんとなく、あの人はどこの海も愛している気がした。わたしも多分、今ならどんな色の海でも好きになれるところを見つけられる気がした。
 でも、あの人がいるのはこの海だから。
 
「……また来ようっと」
 
 ショップにシフト表が貼ってあった。
 今日はお休みだった。
 友人達を迎えにショップへ行ったところで会えるはずもない。でも「待ってる」と言ってくれた。
 目の前に広がる綺麗な青。どこか懐かしい潮の匂い。耳をくすぐる穏やかな波の音。生温かく、けれど優しく肌を撫でる風。
 帰った後で思い出すんだろうなと思った。きっとこの海の色と重ねて、何度も。
 

 ◇

 
 地元のマーケットやドラッグストアを覗き、お昼はどうしようかとぶらついていると、ビルの合間の路地の先に通ってきたメインストリートが見えた。近道だ。
 確かあの道の反対側に美味しそうなハンバーガーショップがあったなと思ったら途端にお腹がぐぅと鳴り、早く向かおうとその路地を曲がった。
 この辺り一帯でお揃いの白い建物に張り付くように、屋台のような店が並んでいた。狭くも薄暗くもない普通の道だけど、果物が腐ったような甘ったるさや古い油の匂いが熱気に入り混じっている。メインストリートや海沿いの道では感じなかった匂いだ。
 これが本来のこの街なのかなと店先に並ぶ雑貨を見るともなしに通りながら、そのうちの一軒で足を緩めていた。店先にぶら下げられているたくさんの小さな木彫りの人形は、ダイビングショップに飾られていたものの小型バージョンだ。
 
「カワイイ、ヨー」
 
 どうしようかと見ていると、早速世界共通語のそれを繰り返しながら店員と思しき男性が近寄ってきた。
 見ていたものを手渡されつい受け取ってみれば、素朴な顔がやっぱり可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。椰子かなにかの繊維でできている髪を頭のてっぺんでひとつに結んでいる。なんだか、ゴムで結んでみょんみょんと揺れていたあの小さなちょんまげみたいだ。
 
「きゃないはぶ、でぃすわん、ぷりーず」
 
 安いし部屋にでも飾ろうかと伝えると、店員の男性はにこりと笑った。笑って、すかさず別のものも手渡してきた。
 リゾート地ではあるもののいわゆる観光地ではないと思っていたし今まで入ったお店はこちらから声をかけるまで放っておかれることが多かったから、意外な商魂に驚いてしまう。
 
「こっちはどう? 人気ナンバーワンだよ。お土産とかにも」「日本人? どこにいくの? アソコは行った?」「アレは食べた? おすすめの店があるんだけど教えようか」
 
 みたいなことを言っている気はするものの、ぱっと返答できない残念な語学力がうらめしい。
 
「いえ、あの、ひとつで結構です。それにわたし、ハンバーガーを食べる予定なので大丈夫、のーさんきゅーですから」
 
 ハンバーガーも多分世界共通語だったのがいけないんだろう。「ならばハンバーガーの美味しい店を」と一生懸命な説明は親切心なんだろうけど、わたしが首を横に振る理由がその店はいやだと言っていると勘違いしたのか、隣の屋台の人も交えてあーだこーだと始まってしまう。
 それにしても、距離が近い。ここに住んでる人はみんなそうなんだろうか。
 商品が並ぶ棚の間で見知らぬ男性二人に挟まれてしまえば、緊張を通り越して恐怖心のほうが強い。
 
 申し訳ないけど選んだものも置いて出ようと思った時、
「ノー!」
 突然割り込んできた人にぐいっと腕を掴まれた。
 二人の間から引き出されてよろめいたところを抱き留める見覚えのあるTシャツには、『GIYU』の文字。
 
 冨岡さんは、あっけに取られている彼らに背を向け、
「それは買うのか、買ったのか、……まだか。来い」
 思わず手にしていた人形を棚に戻したわたしを強引に引っ張って歩き出した。
 
「あ、あの……っ」
 
 ようやく解放されたのは、路地を戻り今歩いてきた道まで引きずられるように連れて行かれてからだ。立ち止まり、見下ろしてくる顔が怒っていた。
 
「昼間でも女一人であんなところを通るな。しかもそんな格好で。日本とは違うとわからないのか」
「ごめんなさい。でも普通の道に見えたしお人形見てただけだし、悪い人達じゃなかったですよ」
「彼らがどうこうではなくお前の警戒心のなさを言ってる」
「……だとしても、格好は関係なくないですか」
「いかにも無知で隙だらけの観光客でもか」
 
 手持ちのなかで一番リゾートっぽいと思って持ってきたコットンのノースリーブワンピースと初日にここで買ったばかりのトロピカル柄のカゴバッグは、どうやら冨岡さん的にはナシみたいだ。何も言われないどころか怒られてしまった。
 歩き出した冨岡さんの後ろをしょんぼりとしたまま付いていくと、冨岡さんは狭い駐車場に止まっていた一台の車に近づいていった。ショップのロゴはついていない少し大型のSUV。こういうのに乗るんだと少し意外だった。
 覗き込んだ後部座席には、まとめ買いしたとおぼしき大量のペットボトルやついさっき通ったマーケットの袋が置いてある。買い物していたら偶然わたしを見かけて声をかけようと追ってくれたんだろう。困っていたのは確かなのにお礼も言わず文句ばかり言ってしまった。
 
「送る」
「……ありがとうございます」
 
 助手席のドアを開けて促されたので、大人しく乗り込む。途端にあきれたような小さな溜息が落ちてきた。
 
「……頼むからもう少し警戒してくれ」
「警戒? 何をですか?」
「そう簡単に他人の車に乗るな。拐われるぞ」
「ええっ! だって冨岡さんだったからいいかなって!」
 
 自分から誘っておいて理不尽だと騒ぐわたしに一度目を見開いた冨岡さんは、すぐに眉間にわずかに力を入れてじっと見つめてきた。ほんの数秒だったけどドアを押さえたまま、何も言わずに。その隙間から潮風が吹き、肌をかすめて車内の空気と混じり合う。
 え? と漏らして瞬きをすると、パッと逸らして、何もなかったみたいにドアをバタンと閉めて、運転席へとまわった。
 
「どこに行けばいい」
「ええと、目的地はないんです。みんなが戻ってくるまで暇だから散歩してただけで」
 
 こんなに怒られるならもう戻って大人しく読書でもしていようと泊まっているホテルの名を告げると、エンジンをかけてメインストリートの方へと向かって行った。
 そういえば助手席は初めてだな、と景色を見るふりをして横顔を窺う。運転する男性が少し素敵に見えてしまうのはデフォルトだけど、それを差し引いてもこんなにドキドキするのは、助手席のドアが閉まる寸前の冨岡さんの沈黙のせいだ。沈黙と、覗き込もうとするような視線のせいで、わたしまで何気ない自分の言葉の意味を考えてしまう。
 
『冨岡さんだったからいいかな』
 
 わたしは冨岡さんだったらなにがいいんだろう? 危なくないから信じていい? それとも、どこかに連れていかれてもいい?
 冨岡さんはわたしの言葉の奥に何を見ようとしたんだろう。どう受け取ったんだろう。
 考えれば考えるほどさっきのことを鮮明に思い出す。腕を掴んだ力強さ、抱き留められたときにぶつかった冨岡さんの胸元の熱。頬が急に熱くて仕方がない。
 流れていく景色へと視線を逃してひとつ息を吐く。そうしながらすぐに、あれ? と、きょろきょろと辺りを見渡した。
 
「……どこ……?」
 
 ホテルとは違う方向へ走り出している気がする。近道か寄り道かとも思ったけれど、ウインカーを出して幹線道路へと続くカーブを曲がっていく。見慣れない街並みとそのスピードに鼓動が速くなって、膝の上のカゴバッグを少しだけ引き寄せた。
 
「……あの、どこに行くんですか?」
 

 ◇

 
「……なにこれ、おいしいっ」
 
 幹線道路を北へ約二十分ほど、海沿いのバーガーショップは店員さんと地元のお客さんが和気あいあいとしている店だった。
 目の前のプレートには、カラフルなサラダと付け合わせというには存在感のあるシュリンプ、カリッとした山盛りのフライドポテト。もっちりしたバンズにジューシーなパテや厚いベーコンが挟まれ、どうやって食べればいいのか途方にくれそうなほどだ。店員さんの「ガンバッテ」の意味もわかる。
 一応ナイフも渡されたけど、それはそれでむずかしい。困り果てて向かいをチラリと見ると、視線に気づいた冨岡さんが頷いた。
 
「かぶりつけ」
 
 あんまり当たり前に言うから一瞬驚いたけど、わたしはナイフを置いた。そして周りのお客さんと同じように大きく口を開ける。
 
「〜〜っ! んんん〜〜!!」
 
 あまりにおいしくてジタバタしていると、冨岡さんは少しだけ目を緩めてから静かにハンバーガーにかぶりついた。
 
「ハンバーガー屋さんの話が聞こえてたなら、あそこまで冷たい態度取らなくても良かったのに」
 
 口のはじっこについたソースを指で拭ってそう言うけれど、冨岡さんはわたしをちらりと見ただけで今度は無言でポテトを口に運んでいる。
 
「もしかして、聞こえてたから『俺のおすすめを食えー』って割り込んでくれたんですか?」
「違う」
「ですよね」
 
 窓の外へと視線を移せば、そこに広がるのは白い砂浜と海、晴れやかな空の大パノラマ。真昼の強烈な日差しは明るい青の上で踊って輝き、けれど烈しさよりもただただ金色に柔らかく感じる。
 
「楽園てこういうところを言うんでしょうね」
 
 圧倒されて溜息混じりに言うと、冨岡さんがわたしの視線を追う。
 
「わたし、今まで海に縁がなくて。みんな物好きだなぁなんて思ってたくらいなんですけど、きっと日本の海も素敵なところがたくさんあるんでしょうね。わたしが知らないだけで」
 
 冨岡さんはさっきからもぐもぐと口を動かしながら頷くだけで返事をしない。食べながら喋ったりはしないみたいだ。でもそれが正しい。わたしのマナーが悪かったなと黙ると、飲み込んだらしき冨岡さんが交代するように口を開いた。
 
「日本は透明度こそ劣るがその分地形は豊かだし魚の種類も豊富だ。季節によって会える魚も景色も変わるし違う面白さがある」
 
 言い終えた冨岡さんが怪訝な顔でわたしを見る。わたしが二つの理由でくすくす笑っていたからだ。一つは、別にそういうことを言いたかったわけじゃないのにこの人はいつも潜る視点で考えてるんだなということ。そしてもう一つは。
 
「やっぱりそうなんだ。さっきひとりで散歩してる時、同じこと考えてたんです。冨岡さんて、海ならどこでも好きそうだなって。当たっちゃった」
 
 今度は少しばかり目が見開かれた。そんなに驚かなくてもと思いかけ、海を見ながらあなたのことを考えていました、だなんて告白をしたことに気づく。
 気恥ずかしさをごまかすように飲み込んだアイスティーは、紅茶の味よりもパッションフルーツのような味がして甘い。
 
「冨岡さんは色んなところに潜ってるんですよね。総合点でどこが一番好きです?」
「今はここだ」
「どうして?」
「……ここの青が一番好きだという奴がいるから」
 
 それは昨日わたしがログブックに書いたことだ。この海に潜ればそういう人はきっと多いと思う。でも冨岡さんの青い目は何か伝えたそうにわたしを見ていて、もしかしてからかわれているんだろうか、とストローでグラスの中の氷をかき混ぜながら目を逸らせた。
 
「……冨岡さん、気を付けないとだめですよ。あんまりそういうことを簡単に言うと、いつか背後から襲われますよ」
 
 ……わたしが冨岡さんのことを考えていたなんて言ったからやり返されているんだろうか。それとも言葉選びを間違えてるだけなんだろうか。
 どっちにしても動揺したわたしはやっぱり可愛くないことを言ってしまう。
 
「せっかくだから言いますけど、言葉選びがちょっと変です。あと距離感おかしいです。そうやって思わせぶりなことばっかりしてると勘違いする人出ますよ。ただでさえモテるでしょう?」
「モテない」
「うそだぁ。冨岡さんて鈍そうだから気づかないだけで狙う人いますよきっと。ワンチャン? ワンナイト? ってやつ? こうやってさりげなくデートに連れてってくれるし、ダイビングしてるところは綺麗だし。背も高いし格好いいし、お仕事終わったら遊んだりするんでしょう?」
「客と寝たりしない」
 
 失礼なほどのあけすけな揶揄いを遮った言葉に、手にしていたグラスを落っことした。幸い空になったところなのでテーブルに水滴が散らばっただけですんだ。たしかにそういう話だけど、ストレートすぎる。
 
「……なんですかそれ、ポリシーですか」
「ただの線引きだ。そんなことでもしトラブルを起こしたら宇髄に迷惑をかける」
 
 お前も今そう言っただろう、とハンバーガーを口に運ぶのをみながら、ふぅん、と手を拭ったハンカチで口元を押さえる。
 四日間一緒にいたのに少しも知らなかった。冨岡さんは客のわたしとの間にちゃんと線を引いていたことに。そしてそのことにこんなにショックを受けてる自分にも。
 唇についたソースを拭う指、それを舐めとる舌。どんな風にキスするんだろう。どんな風に始めるんだろう。
 客じゃない人といる姿を想像して、今、見知らぬ誰かにこんなに妬いている。
 無理やりに視線を剥がすと顔周りの髪が落ちてきた。煩わしさに手を上げ、耳にかけようと指を滑らせる。
 
「痛ぁっ!」
 
 その瞬間にジリッと走った痛みに飛び上がった。その拍子に膝でテーブルを蹴飛ばしてしまい、こちらを見た店員さんが笑った。飛び上がるほど美味いか、と。
 引きつった笑みを曖昧に返してから、目を丸くしている冨岡さんに向けて髪をかき上げ耳の後ろを見せる。
 
「あの、実はこんなところを日焼けしちゃって」
「ああ……やりがちなやつだ。特にシュノーケリングするやつが。気をつけていてもどうしても塗り忘れるしマスクの取り外しでもこすれる。あまり触るなよ」
「もう絶対に触りません」
 
 昨日、休憩中にボートの近くでシュノーケリングをした時に違いない。たしかに直前まで冨岡さんと話していたし、日焼け止めを塗り直していない。
 
「日本より暑くないけど日差しは思ってる以上に強いんですね……。冨岡さんはなんでそんなに日焼けしないですか」
「気をつけてる。仕事に障るから」
 
 ああ、確かに。
 車の中にあったマーケットの袋から日焼け止めが覗いていたのを思い出す。この日焼け――というかこれはまごうことなき火傷だ――を負ったまま塩水に入るなんて考えただけでゾッとしてしまう。
 
「それでもダイビングのお仕事するなんて、よっぽど好きなんですね」
「ああ、好きだ」
 
『好きだ』の響きにドキッと鼓動が跳ねた。違う違う、これはダイビングの話だ。
 けれど今し方、冨岡さんの恋愛事情について思いを馳せたせいなのか『好きだ』が耳の奥から離れない。『好きだ』。動揺を悟られないようにわたしは口を開いた。
 
「で、この島のどこが好きなんですか? やっぱり北のポイント?」
「あそこは高台だから景色もいい。その分潜る時は大変だが」
「そうなんだ」
 
 冨岡さんの説明は友人達がしていた話とあまり変わらなかった。へぇ、ふぅん、と相槌を打つもののいまいち想像はできない。そんなにも色々な人が太鼓判を押すような場所、いつかわたしも潜れる日が来るんだろうか。
 ……いつかって、いつ?
 最後のフライドポテトを口へと運んだ手が、ゆっくりと止まる。目の前に広がる青。わたしはここで何を覚えた?
 海から空っぽになったお皿へ、そして冨岡さんへと視線を移し、油でべたつく指先を擦り合わせる。
 
「行ってみたい、な」
 
 ハンバーガーが美味しすぎたのもいけない。あっという間に食べ終えてしまったから。もっとずっと時間をかけて食べるつもりだったのに。
 

 






〰︎続〰︎
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