4日目
「……海は広いな……大きいなぁ」
ボートは海原を勢いよく進み、真っ白な航跡をつくる。
それをデッキに座って眺めながら呟くのは、日本人ならきっと誰もが浮かぶようなフレーズだ。どうせエンジン音がうるさいから誰にも聞こえやしない。
四日目の講習は友人達が潜るのと同じポイントで行うことになったと冨岡さんに聞かされたのは、今朝ショップについてからだった。
「宇髄と相談して決めた」
「え、でも……」
わたしは首を傾げた。昨日海から戻った時は冨岡さんも宇髄さんもそんな様子はなかったし、夕方以降はずっと友人達と一緒だったけど誰もそんな話はしてなかった。
「ねぇ、今日一緒って、知ってた?」
「今聞いた! やったねー! せっかく一緒に来たんだもん、一緒に潜りたいよね」
友人達を振り返るも、急な予定変更にもすぐに対応して荷物をバンに積み込み始めている。天候や海の状況によって変わることはよくあると宇髄さんにも言われたので、友人達に続いて車に乗り込んだ。
辿り着いたのは、昨日のようなビーチではなく、ボートがいくつか並ぶ桟橋だった。
「お前らは後ろ」
屋根のある運転席周辺に陣取る宇髄さんと冨岡さんにみんなでぶーぶーと言いつつもはしゃいでいたのも、最初だけ。波を切るたびにボートは軽く飛び跳ね、何度も舌を噛みそうになったからだ。
降り注いでくる水飛沫と日差しを防ぐためにバスタオルを頭からかぶっていると、やがてブブブブ……と船体が細かく震えながらスピードが緩くなる。止まったのは周囲360度の青。海の真ん真ん中だ。
「心配するな。そんなに深くはない」
準備を終えて船縁を掴みながらこわごわと覗き込んでいると、冨岡さんが隣にきて言う。
「一緒には来たが一本目は俺たちは別だ。昨日と同じように底で講習をしてから珊瑚やそこの魚の観察をする」
「カクレクマノミがいるところ?」
「ああ。クマノミもナンヨウハギも、キイロハギもヤッコダイもミスジリュウキュウもいる」
「なんですか、それ?」
「その映画に出てきてただろう」
「えっと、そこまで魚の種類を気にして映画を見てるわけでは」
「……そうか」
冨岡さんがさも意外そうにそう言って曇り止めを塗ったマスクを装着すると、ちょんまげの前髪が揺れた。今日はレインボーのゴム。昨日の夕方に買い物をしていて見つけて可愛かったから試しにプレゼントしたら、早速使ってくれている。
「今日はどうやってエントリーするんですか」
船縁は高くはないけれどフィンをつけた足で乗り越えるのは少し難しそうだ。
海に背を向けて腰掛けているのを見て、落ちちゃいそうとおろおろと聞くとぽんぽんと隣に座るように促され、おそるおそると座る。
「水面に誰もいないか確認したらゲージやオクトを前でまとめて、尻をなるべく外側にずらす。昨日と同じようにレギュとマスクを押さえながら、そのまま重みに任せて後ろに倒れる」
説明するなりゆっくりと背中から落っこちていく姿に、思わず目が丸くなる。
「ええ……、なにそれ、かっこよ……」
ただし、見ている分には。倒れるだけってそんな。前が見えない状態で背中から海に落ちるなんて、恐怖以外のなにものでもない。
「転がろうとすると船に頭をぶつける。ただ力を抜けばいい。機材の重みで勝手に後ろに倒れていく」
すぐに浮き上がってきて海面からくれるアドバイスは恐怖を煽るだけだ。お尻ではなく太腿の前の方までずらすけれど、どうしても体を起こす勇気が湧いてこない。
「うそでしょ……」
きょろきょろ見渡せば、反対の縁に座っている友人た 達までが、「また後でね!」と軽く手を振って次々にエントリーしていく。
残っていた宇髄さんをすがるように見上げると、
「目をつむるなよ」
さらに難易度の高いことを言われて泣きそうだ。
「心配するな、ほんの二、三秒で浮き上がる。フィンの裏側で蹴ればもっと早く頭が出てくる。でもな、そのまま仰向けでいれば結構いいもん見れるから」
……好奇心を刺激するのがうまいな。
ひとつ深呼吸をして頷いてから背中のシリンダーの重みに身を任せると、マスクの向こうで入道雲がくるりと回転した。抜けるような空の青に続いて視界を覆ったのは、透き通るほど青い海、ではなく。
……本当だ、きれい。
背中で受けた軽い衝撃の直後、光の加減でうすい緑にも見える水と真っ白な泡が体を包む。立ち上っていく細かな大量のバブルが揺れて、弾けて、まるでラムネの瓶の中にいるみたい。
フィンでかかなくてもすぐに勝手に浮き上がってきてしまう。それが少し惜しいとさえ思いながら、OKを出した冨岡さんに続きそのままエアーを抜いて沈みはじめる。
◇
ダイビングポイントは昨日の陸の近くとはまた違う色をしていた。底に広がる白い砂地以外はなにもない、圧倒されるほどの青。
昨日と同じように底で色んなスキルを練習し、最後に向けられたスレートにはこう書いてあった。
『サンゴに手足をつかないように』
『けった波もなるべくぶつけないように』
けった波? 首を傾げると、こうするんだ、というように泳ぎ始めた。
今までわたしがしていたバタ足のような動きをしてから冨岡さんは砂地を指差し、指で×をつくる。なるほど、蹴った波。砂が巻き上がって視界が悪い。これくらいの衝撃でもサンゴに当てるなということか。それから『見てろ』とシグナルを送ってきてから平泳ぎのように動かし始めた。
見よう見まねで泳ぎはじめると冨岡さんは距離を保ってついてくる。がに股なのがちょっと恥ずかしいけど、一度足を伸ばせばゆるやかに進んで行くのが楽だしこれならサンゴを傷つけずにすみそうだ。
冨岡さんを振り返ると、『OK』ではなく拍手をしてくれている。どうやらわたしはこれが結構得意みたいだ。
少し先へと泳ぎ出すと、ところどころに岩場が見えてきた。
「(カクレクマノミ……!)」
ゆらゆらとイソギンチャクの隙間にオレンジ色の小さな姿が見え隠れする。すごい。こんなに広い海にこんなに小さな魚がいるなんて。
「(かわいい!)」
かわいい、は世界共通語だ。たとえ水の中でも。わずかなイントネーションからか、興奮して繰り返すから伝わったのか、『OK』を作って頷いてくれる。
手招きをされるがままに次々と岩場を移動すれば、海藻の合間に色鮮やかな魚の群れを次々と見つけられる。
……ああ、もっと勉強してくればよかった。あの映画ももう一度観てから来ればよかった。そうすれば冨岡さんがスレートに書いてくれる名前も、なにかを見つける度に懸命に呼んでくれる興奮も、もっと感じられたかもしれないのに。
気づけばお腹の下には枝のようなサンゴが広がっていた。肺を膨らませて少し浮きあがり、そのまま静かな珊瑚礁の上を泳いでいく。
先を泳ぐ冨岡さんは魚みたいだ。なにも触れることができないせいだろう、静かな珊瑚の上を時々わたしを振り返る以外はゆったりと泳いでいく。わたしみたいにふらふら上下しないで、息を吐く度に小さな泡だけ立ち上らせながら、フィンを自在に動かして。
重い器材を背負ってないように自由で、冨岡さんが愛しているのと同じくらいこの青に愛されている気がして、あまりに完成された光景をいつまでも見ていたい気がした。
きらきらと遠くで光る魚のような動きを交互と見ながらフィンを動かしていくと、やがて先のほうに縦にまっすぐ伸びる黒い線が見えてきた。ロープだ。
海藻かなにかが絡まっているロープに沿って見上げると、海面に丸い影、フロートに繋がっている。その傍の船影が一本目の終わりの合図だった。
冨岡さんはわたしの手をロープに掴まらせると、グーにした親指を立てた『浮上』のシグナルを出した。頷いて、水面めざしてのぼっていく。
空気を吐くたびに浮かび上がるバブルが大きくてあらいのは、わたしが呼吸するのが下手だからだ。昨日そう言われた。
でもゆらゆらとする泡が面白くて、自分の息と鬼ごっこをするようにスムーズに浮上していく。海面近くにいったらまたあのラムネのような景色がみれるのかもなんてワクワクしながら。
その時、掴むというよりただゆるく握った手のひらの中でガイドにしていたロープが、激しく揺れた。え、と思うより早く脚を掴まれる。驚いて止まったわたしに向けて、冨岡さんの両手のひらがこちらを向いた。『ストップ』、だ。
その深度でロープを握り締めているわたしを追い越し、今度は先を行き始める。さっきよりも随分とゆっくりだった。わたしはそれに続く。
もう少しで海面というところでまたハンドシグナル。片方の手のひらに反対の手の指三本をくっつけている。
「(……なんでしたっけこれ)」
首を傾げると、冨岡さんの口元から荒いバブルが上っていった。
「(……を、……)」
なにか喋っている。でもわからない。
首を横に振ると、冨岡さんは今度はスレートを取り出そうとしたけれど、気が変わったのかわたしの手を上から握り込んだ。
そのまま動かず片手だけでまた、『ストップ』。ここでしばらくこうしているという意味らしい。
海面が近いほど浮き上がりやすい。シリンダー内の空気が減った分の浮力でふわふわと安定しないわたしのBCを掴んで引き戻しながら、冨岡さんはじっとして動かない。
……だから、近いよ、近い。
マスクをしててもレギュを咥えててもスーツを着ていても、手も胸元も触れられていることには変わりない。
シューと吸う音、吐いた息は泡になってボコボコと上って行く。二人分のバブルを見つめながら顔をそらせて過ごす。
だけど、昨日の距離を思い出して勝手にどきどきとしていたのも船に上がるまでだった。
◇