3日目
講習も今日で三日目。いよいよ海に潜る日だ。
「おはようございます!」
ショップに着くと昨日と同じように何台かの車が並んでいた。
荷物を詰め込んでいるグループをすり抜けてみんなでショップへと入ろうとすると、ちょうど冨岡さんが器材を抱えて出てきた。運び入れているのは昨日みんなが乗って出かけたような大きなワゴンじゃない。定員はおそらく最大四人。
「これで行くんですか?」
「ああ。自分の荷物を運んで乗っててくれ」
「そっか。今日もわたしだけなんだ」
今日から講習は海だから、てっきりみんなと同じワゴンで一緒に行くのかと思っていた。行っても同じことはできないから当たり前といえば当たり前だけど。少しだけ落とした肩に、友人の腕が巻き付いてきた。
「頑張ってね! 戻ったら午後は遊ぼうねー!」
次々と抱きついてくる友人に手を振り、自分の荷物をトランクに積み込んでから後部座席のドアを開ける。すでにエンジンがかかっていた車の中はエアコンのおかげで快適だ。
それでも走り出してすぐに窓を開けたのは、ホテルやショッピングモールの隙間にきらきらと眩しく反射する光を見たから。
「海だー!」
縁も思い入れもないはずなのに心が浮き立つのは、むしろないからなのかもしれない。この島へ来てから散々見てはいたけれど、今からここへ潜るとなると、出発前にしぼみかけた心もどうしようもなくふくらんで落ち着かない。
海へと飛ばす車がカーブを曲がった時、ヤシの木とともに視界いっぱいに飛び込んできた青は光や匂いや波音やあらゆる生き物の気配に満ちていて、一瞬呼吸をすることさえ忘れてしまう。
海だ、きれい、を繰り返しながら少しも目を離せない。
窓から顔も出さんばかりなのをミラー越しに見られていることには、気づいていたけれど。
◇
ビーチのすぐそば、駐車場とは名ばかりの土を固めただけの場所に車を止め、準備運動をしてからセッティングに入る。時々手順を忘れてしまうけど、ヒントをもらいながら進める手は昨日よりは淀みない。
ちなみにウェットスーツは昨日言われた通りに海水でびしゃびしゃに濡らしただけではなかなか着れなかった。
「冨岡さーん、やっぱりこれ入らないですー」
「頑張れば入る。こうするんだ」
悪戦苦闘していると冨岡さんが隣に来て、腰まで着たスーツの上半分で海水を掬い、胸元へと流し込んでみせてくれる。……なるほど、想像よりも大胆にいかないといけないみたいだ。
ひとつひとつこなして気合を入れてシリンダーを背負おうとすると、ストップがかかった。
「確認を忘れてる。毎回必ずバディと互いの器材や装着の仕方に不備がないかチェックをする」
「バディ?」
「ダイビングは基本的に二人でバディを組んで潜る。今日は俺がやる」
そう教えてもらい、お互いの器材の前へと位置を変える。わたしのシリンダーのバルブやメーターをひとつひとつ確認しはじめる冨岡さんをちらりと窺う。
ダイビングスーツを着る人がこんなにセクシーだとは昨日まで知らなかった。ぴっちりとした黒く艶のあるスーツは腰元や長い脚を際立たせているし、まだ開いたままのファスナーの隙間にのぞく背中は日差しに照らされて白く眩しい。
でも今日見てしまうのはそこじゃなかった。
「冨岡さんのゴム、可愛いですね」
わたしが声をかけると、冨岡さんが中腰のまま振り返り、きょとんと首を傾げる。うすうす思ってたけど、この人はもしかして、やや残念イケメンなのでは。
量の多い黒髪は毎日後ろでひとつに結んでいるけれど、今日はそれに加えて前髪を小さなちょんまげにしている。邪魔そうだからまとめればいいのにと思ってはいたけど、見た目は気にならないんだろうか。しかも滑りにくいなみなみのゴムは蛍光イエローのラメ入り。
惜しげもなく晒している綺麗な額と動くたびにみょんみょんと揺れるアンバランスさが、なんだか可笑しい。
笑いながら、自分の前髪も留めた方がいいかとポーチに入っているヘアピンを思い出していると、
「お前も使うか」
とダイコンと一緒に腕に通していたもう一本――蛍光グリーンだ――を差し出された。
せっかくなので真似をして小さなちょんまげを作ると、
「それがいい。水中だと邪魔になるから」
とどこか満足気に頷くのが思いがけず可愛い。
ちょっとくらい残念でも、美形は得だ。
人というのはほんの一日で大きく成長するものだ。なんとか転ばず一人で立ち上がり、くぼみに足を取られないよう浅瀬の岩場を歩いていく。前を行く冨岡さんが立ち止まったのは、岩場が途切れ深度が深くなる手前だった。
「どうやって海に入る……ええと、エントリーするんですか?」
フィンをつけながら尋ねると、冨岡さんは口に咥えたレギュレーターとマスクを片手で同時に押さえ、反対の手を後頭部へと持っていく。
「飛び込んだ時に外れないように両手で押さえて、そのまま、こう」
そして、見てろと言うなり片足を大きく前に出してそのまま足から飛び込んだ。すぐに浮かび上がってきてはわたしの邪魔にならないようにか少し泳いだところで手招きをしている。昨日のプールよりは深そうだけど、沈んだりはしなそうだ。
よぉし、と意気込んで透明な海を覗き込み――、途端に腰がひけた。
「えっ、無理です、こんなの! ぶつかっちゃう!」
岩場の下に見えたのはやっぱり岩だった。しかも小さな魚が泳いでいるのや海藻までもはっきり見えるほど近い。こんなに重い器材を背負って飛び込んだら、沈み込む勢いで激突してしまう。
「ぶつからない」
「だって岩がすぐそこに見えるじゃないですか!」
「そう見えるだけでぶつからない。透明度が高いからよく見えるだけだ」
「……絶対に?」
「絶対に」
「……もしぶつかって怪我したら、訴えますよ」
「構わない。絶対にぶつからない」
冨岡さんは急かしはしないけれど、水面にじっと浮かんだままそれ以上はアドバイスもしてくれない。もう少し安心させてくれてもいいのにと一度だけ睨んでから、ええいままよ、と大きく踏み出す。小さな衝撃の後、細かな白い泡が視界を埋め尽くした。
プールとは比べ物にならないほどの飛沫をあげながら飛び込んだそこは、思っていたよりもずっと深かった。5メートル、6メートル? 水中ではものが1・3倍に見えると昨日覚えたから、もう少し深いのかもしれない。
浮力で一旦水面まで浮かび上がると、わたしをじっと見つめている冨岡さんと目が合った。
「ぶつからなかっただろう」
とでもいうように軽く頷いたように見えた。
ついて来いと身振りをしてそのまま少し泳いでいく後を追う。マスク越しに見える海底が岩から砂になったころ、「潜水」の指示が出て、BCから空気を抜いていく。
昨日と同じ耳の違和感は潜り始めてすぐ、「耳抜きしろ」とハンドシグナルで言われる前に襲ってきた。鼻をつまみ耳に空気を送るけれど、左耳は今日もうまく抜けない。きつくつまみなおして思い入り力むと、一発でボォンという音がして違和感が消える。本当に、人は一日で成長するものだ。
ゆっくりと水底に膝をつくと白い砂が舞い上がった。
冨岡さんが早速エアーの残圧を聞いてきたのでハンドシグナルで答え、講習が始まる。わざと水を入れたマスクをクリアにする。レギュレーターをはずして再び咥え直し、呼気やパージボタンで水を吐き出す。ほとんどは昨日プールでやったことの復習だ。
それでも昨日とはぜんぜん違っていた。
プールの固い底じゃない柔らかな砂の上、膝をついていても波で体が不安定に揺れているのがわかる。浅いとはいえここは海の底なのだ。立ち上がっても水面から顔が出るわけじゃない。レギュをはずしたら息さえできない。
「(落ち着け)」
「(吐け)」
「(ゆっくりでいい)」
緊張で呼吸が浅くなりがちなわたしに冨岡さんが何度も繰り返す。苦しいときこそ吐け、肺の中の空気をしっかり吐き切ることを優先しろ、と。
わたしが深くゆったりとした呼吸を覚え、講習で覚えるべきスキルを終えたらしき頃、
「(こっちだ)」
と誘うようにわたしを見ながら後ろ向きで泳ぎはじめた。
◇
「(これは――、こっちは――の幼魚)」
ポイントの探検に出ると、冨岡さんは出会った魚の名前をスレートに書いて教えてくれていたけど、すぐにやめてしまった。たぶん種類が多すぎて追いつかないからだ。それにわたしも覚えられない。
その代わりに、驚くほど多くのものを見せてくれた。岩にあいた穴からのぞかせている愛嬌のある顔、目の前を蝶々のように優雅に舞う魚。下にばかり気を取られていると腕を叩かれ見上げれば、それ自体が一つの生き物のような魚の群れが覆ってはやがて遠ざかっていく。
「(スイミーみたい)!」
ゴボゴボと空気を漏らしながら言うと冨岡さんのレギュからもゴボゴボと泡がたった。
次々と形を変える姿に見惚れながら先へ進むと、冨岡さんがグローブをはずした。そのまま指先で砂底をゆっくりとさらうと魚が飛び出てきた。
グローブは毒のある魚もいるからとつけているものだったけれど、同じようにはずし手を伸ばしてみる。こちらを正面にしてそこで泳ぎ始める姿はまるでわたしを観察しているみたいだ。
水族館でしか見たことのないような小さな熱帯魚。分厚いガラス越しじゃない、写真でもない、触ってしまいそうな距離で薄いヒレを懸命に動かしている。
「(かわいい!)」
「(そうだな)」
本当にそう言ったかどうかはわからないけど、マスクの奥で冨岡さんの青い目が細くなった気がした。
海の中の冨岡さんは陸にいるときより少しだけ表情が豊かだ。スレートに書けない、ハンドシグナルでは伝えられないものを伝えようとしてくれているみたいに。
呼吸をすること、慣れないフィンを動かすこと、冨岡さんを追いかけること。
ずっとそんなタスクでいっぱいいっぱいだったわたしの目の前に、ようやく青い世界が広がりはじめる。
海面から差し込む光のヴェール。
吐き出した息が泡になって放つプリズム。
世界屈指の透明度といわれる海はずっと遠くまで見通せる。ほんの少し泳げばまた遠くまで見えてそれがずっと続くのだからもう永遠みたいなものだ。
手足を動かすたびにかかる抵抗がわたしはここの生き物じゃないことを教えてくる。それでも最低限の知識とマナーを覚えれば受け入れてくれている懐の深さ。
縦にも横にも三百六十度、身体を水に溶け込ませるように自在に泳ぐ冨岡さんのようにはできない。それでも、できる限り手足を伸ばせば確かに自由で、わたしも海から生まれたんだと懐かしいような気持ちがした。
◇
「うぅ……、重……い……」
海から上がるエグジットは、さっき飛び込んだ岩場近くに今度は這いつくばってよじ登るというこれまた根性論が必要だった。わたしってこんなに重かったっけ、と四つん這いからなんとか立ち上がりながら、思わず愚痴が溢れでる。
――おのれ重力。
ビーチで器材をおろしようやく一息ついていると、傍でのんびりとスーツの上半身を脱いでいた冨岡さんが突然駆け寄ってきた。脱ぎかけたスーツが腰元でばうんばうんと跳ねて邪魔そうだ。けれどお構いなしにしゃがみこみ、顔をのぞきこんでくる。
「頭痛はするか。めまいは。耳が痛かったりは」
「え? ……ああ、少し耳が痛いですけど他は別に」
あまりに真剣な問いかけにわたしは目を瞬く。初ダイブとはいえそんなに心配しなくても。
「そこで待ってろ」
大丈夫ですと笑いながら、冨岡さんが指差した木陰へと目をやると、その間に立ち上がり、急に車の方へと走っていってしまう。
「……メイクしてないからあんまり見ないで欲しいなぁ」
やや呆気に取られて見送りながら、濡れている顔を何気なく拭うと、ぬるりとした感触がした。なんだろうとその手を見て、瞬間、血の気が引いた。手のひらは真っ赤に染まっていた。
……どうしよう、どこを切ってしまったんだろう、何かにぶつけた? それとも毒のある魚に触ってしまった? 早くタオル、ううんそれよりも鏡、どうなってるんだろう。手をスーツに擦り付けても怖くてもう触れない。
とにかく早くわたしも車に戻ろうと立ち上がりかけた時、冨岡さんが荷物を抱えて駆け戻ってきた。
「立つな。そこに座れ」
ティッシュの箱からどんどん引き出すその量を見て、指示は関係なく力が抜けてへたり込む。
「……どこ、が切れてるんですか……? ……ふがっ」
そんなにひどいのかと情けない声を漏らし見上げた顔――というか鼻に、ティッシュをまとめて押し当てられる。
「ただの鼻血だ」
◇