1日目
生まれた場所こそ湖は近かったけど、三才になるかならずで内陸県に引っ越してきたわたしにとって、海というのはとんと縁がない場所だ。
初めて行ったのは小学生の時の潮干狩りだし、二回目は大学のサークル合宿だったけどメイクを気にしてほとんど入らなかった。そして当時の恋人と旅行で行った三回目は、泳ぐというより浸かっていたという方が正しい。
本州では白いほうだという砂浜が人気のその海水浴場は確かに明るかったけど混雑に辟易してしまった。こんな生温くてうっすら臭う水にただ浮き輪に掴まって浮かんでいることになんの意味があるんだろう、とすら思ったくらいだ。
挙げ句の果てに、大きな波で浮き輪がひっくり返って投げ出された。あの時の濁った視界も、息苦しさも、鼻の奥の痛みも――ついでにむせ込んでるわたしを笑っていた恋人の顔も――、なかなか忘れられるものじゃない。
そんなわたしをこんなところに連れてくるのだから、夏というのは本当に不思議だ。
青い海。白い砂浜。眩しい太陽に小麦色に焼けた男女。
絵に描いたような南国のビーチ。
――しかも。
「冨岡さーん、やっぱりこれ入らないですー」
「頑張れば入る」
強い紫外線からも、そう言って近づいてくる冨岡さんの視線からも隠れることのできないような、シンプルなビキニを着て。
◇
「……ダイビング?」
同期の友人がその話を持ち出したのは、仕事の昼休み、パスタのセットのサラダとアイスティーが運ばれてきたすぐ後だった。
すでに汗をかいているグラスにストローをさしてごくごくと一気に半分飲んで、はぁと大きな息を吐く。
職場の冷房で冷え切った体に真夏の太陽が心地良いのも、ほんの〇.五秒ほど。ましてや徒歩五分のこの店に来るまでは、地獄の獄卒も逃げ出しそうなほどの灼熱の炎天下だ。
「そう。一緒にやらない?」
「むりむりむりむり! わたし高いところ苦手だもん!」
「違う違う、スカイじゃなくてスキューバ! ん? スクーバ? どっちでもいいや、とにかく飛び降りるほうじゃなくて水に潜るほうのダイビング!」
小さなクロールをかいて説明してから向けてきたスマホには、画面いっぱいの青が広がっていた。写真と動画投稿メインのSNSだ。海中で魚とともに泳ぐダイバー。海面からピースを向けてくる眩しい笑顔の大学生みたいなグループ。……うん。わたしには縁のない世界だ。
「興味ないなぁ」
「まぁ、そう言わずに」
続けて見せられたのは、海外の地名のついたどこかのダイビングショップのホームページだった。
次々と現れるカラフルな熱帯魚や珊瑚礁、エイの群れにはわたしですらおおっと声が出てしまう。専門用語を交えつつコツなんかも教えたりしていて、好きな人には面白いんだろう。写っているスタッフや書かれている文字からして日本人がやっているらしい。
シュノーケリングはちょっと楽しそうだなと思いながら運ばれてきた冷製パスタを口に入れた時、スクロールしていた友人の指が止まった。
これ、と指さされた上半身裸の人物をチラ見して、二度見して、それから釘付けになった。
「え、えっ、これ、もしかして宇髄さん?!」
「ぴんぽん。今ここでダイビングショップやってるんだって。連休に来ればって言ってくれてるらしいんだ」
久々に聞いたその名前と画面の中の笑顔にちょっとだけ鼓動が早くなった。
宇髄さんは、少し前に辞めた営業部のエースだった先輩だ。明るくて人懐っこくて強引な人が多い営業部でも特別に派手でなにかと目立つ人。売上もほぼ毎月トップで社内にはほとんどいないのに提出される社内書類も丁寧だから、事務のわたしやこの友人も好感を持っていた。
営業の同期の子達といる時にたまたま知り合ってからは、違う部署のわたし達にまでおごってくれたり、その後社内でも声をかけてくれるような頼れる先輩だ。ご多分に洩れずわたしも憧れていたから、宇髄さんが辞めた時はさみしかったっけ。
「こないだ営業の子達と話した時にそんな話になってるって聞いて、私も行きたいって言ったら、どうせなら行ける同期みんなで旅行しちゃおうかって」
ああ、なるほど。そういうことか。
上目遣いで『お願い』のポーズをとっているこの友人は、ひそかに宇髄さんに想いを寄せていた。仲の良い同期はいろんな部署にいるけれど、事務系の部署にはわたしと彼女だけ。特に華やかな営業部の子達、しかも自分よりも宇髄さんと親しい中にひとりで交じるのは心細いんだろう。
ちょっとわかる。わたしも彼女達のタフさや上昇志向が眩しすぎて、いつの間にか少し距離を置いていたから。
「でもダイビングでしょ。わたし、無理だと思う。そんなに泳ぎ得意じゃないし」
渋るわたしに、そんなことないって、と前のめりになる目は思っていたよりも真剣だ。水泳には息継ぎが必要だけどダイビングはボンベがあるからむしろ楽だしダイビングスーツの浮力で浮くから溺れない、とかなんとか。
誘いでも説明でもなくもはや懇願にも似た様子に気づいてしまえば、少しだけ行ってあげようかなという気にもなるものだ。
だって、営業部の子達の海外旅行に混じりたいと自分から声をかけるなんて、今のわたし達にはちょっとだけ勇気が必要になってしまっていたから。
けれど、ふと会社の廊下に飾られている海の写真を思い出す。
「うーん、……ダイビングってライセンスが必要でしょ? わたしそんなの持ってないよ」
うちの社長の趣味はダイビングとカメラだ。専務や常務や各部長もその影響を大なり小なり受けていて、昔は社員旅行のコースのひとつにダイビングが組み込まれていることもあったらしいし、差し入れコーナーには今でもフィリピンやサイパン、伊豆や沖縄のお土産もよく見かける。
そういえば以前、営業部の同期もライセンスを取ったと話していたっけ。宇髄さんと一緒に潜りに行ったとも聞いて、さすがだなとどこか遠くの話に感じたものだ。
「私も持ってないよ。だからこれ、この『ライセンス取得講習』ってやつを一緒に受けようよ」
「講習ねぇ……」
恋する瞳の友人に熱心に誘われても、あまり乗り気にはなれなかった。連休の直前には、完結したら一気に読む予定の小説シリーズの最終巻が発売されるのだ。
読書三昧かまったく気乗りしない初体験か、答えを保留にしたままスマホをなんとなくスクロールしていく。
幻想的な海中の洞窟、珊瑚や美しい色合いの魚、スタッフのお洒落な写真。真っ白なビーチや船上でキラキラと眩い笑顔のグループが、いつしか営業の子達と重なっていく。
「こういう機会がないと私達って縁がないじゃん? ね?」
本当に縁のない話だ。だけど、やがてその指が止まる。
海中ではだれもが似たような格好で顔の判別はつかないけれど楽しそうだ。そして、そんな彼らを包み、画面いっぱいに広がっている海の色。
わたしの知っているものとはまるで違う、鮮やかで優しい青。
もしも、こんな風にみんなが同じように心から楽しんで笑える場所があるのなら。
臆病なわたしがなんのしがらみもなく素直にはじけることができる場所が、――あるのなら。
スマホに表示される時間は業務開始まであと二十分。
急いで残りのパスタをフォークで巻き付けながら午後に処理すべき案件とドアの外の灼熱地獄を思えば、心の奥からなにかが浮かび上がってきて、小さくはじける。
……たまには浮かされてもいいんじゃない?
――三十分後、メッセージアプリに届いた営業部の子からの連絡に『行く』と返信しているわたしがいた。
# 1日目
「おー、お前らよく来たな!」
ホテル前まで迎えにきてくれた宇髄さんは、記憶にあるよりもホームページの写真で見た時よりも褐色に日焼けしていた。
Tシャツとハーフパンツにサンダルという軽装が、南国の空気にも引き締まった体にもよく似合っている。さらさらの銀髪は、太陽の光で輝くというより内から溢れてくる魅力で発光してるみたい。
いや、もう御託はいい。とにかくめちゃくちゃに格好良くて、見惚れるどころか目を逸らしてしまったくらいだ。
「きゃー! 宇髄さーん、お久しぶりですー!」
はしゃぐ営業部の子達が駆け寄ると、宇髄さんは白い歯をいたずらっぽくのぞかせながらTシャツの胸元を指差した。
「天元、だ」
『◯◯Diving Service』というショップのロゴの下にプリントされているのは、『TENGEN』の文字。ショップのスタッフは同じように名前が書いてあってお客さんとも名前で呼び合うスタイルなのだというのだから、やることがなんだかお茶目だ。
「一応はインストラクターと客だが、お前らはこれから同じ海に潜る仲間、言わば運命共同体だ。ド派手に楽しませてやるからお前らも気なんか遣わず思いっきり楽しめよ」
早速、わーい天元さん天元さんとはしゃぐ友人達はやっぱり順応性が高い。どうしたらそんな風にできるんだろうと目を丸くしてばかりのわたしには、とてもできそうにない。
「天……てん……、……宇髄さん、よろしくお願いします」
急にはそう呼べないわたしに向けられた宇髄さんの笑顔にも堅い挨拶しか返せず、結局また目を逸らすのだった。
◇
「そういや講習はお前ひとりになったんだっけ。あいつは残念だったな」
Tシャツと同じロゴの描かれたワゴンに乗ってダイビングショップに到着すると、みんなの後に続こうとしたわたしに宇髄さんが声をかけてきた。
「はい。本人もものすごく残念がってました。宇髄さんにくれぐれもよろしくって」
そう、あんなに楽しみにしていた友人は、なんと出発直前に夏風邪を引いて倒れていた。この旅行のために連休と繋げて有休を取得したからと残業を続けた結果だ。なんというか、現実は頑張る人に厳しい。
宇髄さんは、そうか、と入口の脇に置いてある売り物らしきショップオリジナルのメッシュバッグを手に取ると、彼女への土産にでもしてくれと手渡してきて、からりと笑った。
「まぁ、そんなに心配すんな。むしろマンツーマンだからしっかり見てやれる。信頼できるやつをつけてあるから」
「……ん? マンツーマン?」
「おう。そっちの部屋で待ってろ。すぐ行かせる」
指さされたゴザの敷いてある小さな部屋へと入り、ひとり、あまりの憂鬱さに溜息をつく。てっきり多人数かと思ってたのにここで初対面の人とマンツーマンだなんて。
部屋のテーブルの隅っこに座り、傍らのモニターや壁に飾られている写真や棚の置物を落ち着きなく見渡していると、さほど待たずに奥からサンダルの音が近づいてきた。
「講習を担当する冨岡です」
背中を伸ばして待っていたのに、ずっこけそうになった。
宇髄さんの言ってたショップのスタイルって一体なんだったんだろう。しっかりと名字で名乗って向かいに座ったその人は、想像していたインストラクターとはまるで違っていた。
こんなに日差しの強い場所で働いているのに、ほとんど焼けていない白い肌。後ろで一つに束ねている真っ黒な長い髪はなんだかとっても暑そうだ。
Tシャツの胸元の『GIYU』の四文字に首を傾げる。……ぎゆ……? ……じーゆー……?
「……よろしくお願いします」
下の名前を言わないから呼び方に自信が持てない。冨岡と名乗ったんだから名字でいいんだろうと判断して、ペコリと頭を下げた。
「学科は終えてるか」
「あっ、……ええと、すみません、実はほとんどできてなくて」
ライセンス取得講座は四日間の予定だった。一日目が学科講習、二日目がプール講習、三日目と四日目が実際に海に潜る、という予定だ。
そのうち学科講習を事前にeーラーニングで終えておくことで現地では最終テストだけで済む予定を組んでいたはずが、夏風邪の友人と同じく残業続きで旅行準備さえ出発前夜に終わらせたわたしにそんな余裕はなかった。通勤の時と昨日の夜に少し進めただけだ。
すみません、とまたも頭を下げると、冨岡さんは気にするなとでも言うように持ってきていたノートパソコンを開いた。
「正直に申告してくれるだけ助かる。……こことここと、あとここは後でテキストでまとめて説明するから飛ばしていい」
開かれたページにログインすると進行具合を確かめてそういくつかメモを残し、
「後でまた来る」
と言い残して部屋を出ていったのでほっと息を吐く。
ショップとの間の引き戸は開け放してあるとはいえ、初対面のイケメンと個室でマンツーマンはさすがに心臓がもたない。
早速画面には海の映像が流れ始めていた。まだ見たこともない形の器材、さらに細かなパーツの説明、ひとつひとつを丁寧に解説してくれている。
油断すれば危険なマリンスポーツだと頭ではわかってはいる。けれど、ほんのりと抑揚をつけた声は興味を持てないわたしの頭の中を素通りしていた。正直、へぇと思ったことなんて、酸素ボンベと呼んでいたあの銀色のタンクをシリンダーと呼ぶことと、その中身は酸素ではなく圧縮された空気だと知れたことくらいだ。
「おい」
「きゃあっ」
眠気と戦いながらなんとか画面に向かっていると、ふいに呼びかけられ飛びあがった。ちょうど理解度を確かめるためのミニテストのようなものをやっていたのだ。
「進んでるか」
「進んではいるんですけど、身についたかといわれると微妙です」
画面にはたった今押した答えの上に×がついている。
正直に申告すると、冨岡さんは今度は向かい側ではなくテーブルの直角になる場所に座ってわたしがミニテストを終えるのを待ちはじめた。そして、半分しか正解していない結果画面を確認するとノートパソコンを押しやり、持ってきたテキストを開く。
ライセンスを取得するための流れから始め、器材の使い方、特に水中で体にかかる負荷や安全のルール。
冨岡さんの低い声は淡々としているけれど、時々クイズのようなものも交えて興味をひきながら上手に教えてくれる。
最初はダイビングインストラクターっぽくないと思ったしマンツーマンなんて気が重かったけど、むしろこの人で良かったのかもしれない。あの宇髄さんが、信頼できるやつって言うくらいだし。
ちらりと視線をあげると、通った鼻筋も切れ長の目尻も涼しげだ。これはこれで夏が似合う人なのかもしれない。夏というよりもこの南国の島を包む一面の、青が。
なんたるイケメン。むしろ容姿端麗、いや、眉目秀麗か。説明を続ける声すらなんだか艶っぽく聞こえてきてしまうのから、美形はすごい。
「……で、これがさっきやった……」
指も長くてきれいだなぁとボールペンを握っているその手にまで見惚れていると、わたしの方へ向けているテキストの前のページを捲るために冨岡さんがほんの少しだけ身を乗り出してきた。その分近づいた距離そのままに説明を続けるものだから、思わず仰け反った。
上体を後ろへと倒してゴザの上に両手をつく。知らなかった、美形は匂いまで澄み通るようにみずみずしくて甘いんだ。
「疲れたなら少し休憩するか」
「いえ、それは大丈夫なんですけど、ちょっと……集中できないかな、なんて……」
「飽きたかもしれないが、大事なことだからちゃんと覚えてくれ」
「そうじゃなくて……。冨岡さんてパーソナルスペース狭いって言われませんか」
一気に赤くなった頬は隠せないけど、なんとか心臓を落ち着かせようとTシャツの胸元を握りしめる。
「……近いです」
と言うと、冨岡さんはぱちくりと目を瞬いた。
「……すまない」
一応そう言って元の姿勢に戻ったけれど、どうやらわたしの気持ちはわからないみたいだ。
「後でテストがあるからな。合格は七十五%以上」
怪訝な顔でそんな言葉を返して来たので、今度こそ真剣にペンを握り直した。
一応気をつけてくれているのかもう近づいてきたりはしない代わりに、わたしがちゃんと理解しているか何度も顔を上げて確かめてくる真っ直ぐな青い目のせいで、結局あんまり集中はできなかったけど。
〰︎続〰︎
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