フラワーバレンタイン
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夜の駅前を行き交う人たちがどこか幸せそうに見える。チョコレートをもらったのか渡したのか、急いで帰るのか、それともこれから会いに行くんだろうか。
ロータリーのベンチに腰掛けて眺めながら小さな溜息をついた。かじかんだ手を暖めるのは自販機で買った缶コーヒー。通勤バッグから渡さなかったチョコレートの箱を取り出して蓋を開ける。脳みそがくたくたで糖分を欲していた。捨てたいくらいだけどもったいないし、ちょうどいい。
「これ一粒で牛丼食べれるお値段かぁ……」
おいしいけれど特別おいしいのかはよくわからない。コーヒーで溶かすようにして最後の一粒を飲み込んだ時、通りがかった会社の人とバチリと目が合って、必要もないのに慌てて手元を隠した。
「お疲れ様です。……あっ」
頭を下げると膝の上からチョコレートの包装紙が風で飛んでいった。すぐに立ち上がれないわたしの代わりに拾い上げたのは冨岡さんだ。わたしにはもうゴミだけどただの職場の先輩である冨岡さんにそうとわかるはずもない。職場で配ったものとは違うチョコレートをわたしがこんなところで一人で貪り食っている理由も。拾ってくれたものをすぐ丸めることもできず、ありがとうございます、と軽くたたんでバッグに入れた。
「帰らないのか」
「え、と……、電車、乗りづらくて」
チラリと傍を見遣る。なるほど、と言いたげに冨岡さんの視線も移った。
ベンチに置いてあるのは大きな花束だ。しっとりとした手触りの赤いバラは何十本あるんだろう。ラッピングの薄紙やビニールはベンチに乗り切らず少し垂れ下がっていた。
冨岡さんはなんと答えればいいのか迷ったみたいで、
「……大きいな」
と事実だけ言った。
「はい。重いし、ちょっと……困っちゃって」
くれたのは課長だった。仕事ができて面倒見も良い男性で何度も相談に乗ってくれた。普段お世話になっているお礼にと奮発したチョコレートを渡しに行くと、帰りまで待ってくれと言われた。忙しかったのかなと指定された会社の裏手で待っていると車で現れた課長は、花束を目の前に差し出してきた。
思わず受け取ってしまったのはあまりにも流れが手慣れてたからだ。よかったらこれから食事に行かないか、と助手席のドアを開けられたけどしどろもどろな言い訳をしてなんとかここまで逃げてきた。金曜の夜。食事だけじゃ終わらない気がした。
「そういうんじゃない人だったからびっくりしちゃいました。なんか、だから、うまく喋れなくて曖昧にしちゃって、今ちょっと落ち込んでます」
「その気がないならはっきり断ればいい」
「……そうですけど、いざとなったらそんなにうまくはできないですよ」
好意が気持ち悪いとか信頼してたのに裏切られたとかそこまで思っているわけじゃない。……ううん、本当はよくわからなかった。ショックだった。今までのすべてに下心が含まれていたのかとどうしても考えてしまう。
「彼氏がいるとかわかりやすい理由があればまだよかったんですけど、仕事に支障が出たら嫌だし、……怖いし」
そうだ、怖かった。これからも一緒に仕事をする人だから穏便に済ませたかった。察してほしいというのがわがままじゃないとわかってくれる人ばかりじゃないと、わかってても。
「週明け、会社行きたくないなぁ……」
結構好きな職場だ。やめるつもりなんてない。これから課長がどうするかはわからないけど、居心地が悪くなるのは必至だった。
「なら付き合うか」
「……え?」
冨岡さんは、花束を挟んだ向こう側に腰掛けると正面を見たまま、俺と、と言った。
「もちろん、そういうことにする、だけだが」
「それは恋人的なそういう意味で?」
「……まあ」
「なんで?」
「俺と付き合ってると言えば少しは断りやすいだろう」
「でもそれだと冨岡さんが課長と角が立つんじゃないですか」
「……課長なのか」
「あっ! ……えっと……、はい……」
「……そうか。まあ、そんな陰湿な人じゃないだろう。お前が心配するようなことは起こらないと思う」
「でもご迷惑じゃ……」
「お前がいないと仕事が滞る。来なくなるのは困る」
思わずふふっと笑ったら、肩の力が抜けた。さすがにそんなにすぐ出社拒否しようと思っているわけじゃない。でも必要だと言われて悪い気はしない。
「じゃあお言葉に甘えて」
なにかあったらよろしくお願いしますと頭を下げると冨岡さんは、ああ、と膝に置いていた拳を開いて手のひらを擦り合わせた。いつも見てるのにやけに大きいなと初めて思った。
「でも意外です。冨岡さんてそんな感じなんですね。そんなに親切ばかりしてるとなんだか彼女だらけになってそう」
「なってない。こんな提案したことはない」
「ふぅん……。どうして今日はそんなに親切なんです?」
「……今言えるわけないだろう」
え? と聞き返すけど冨岡さんは「とにかく」とそれを遮り、
「なるべく気にかけておく。お前も必要があれば声をかけろ」
それから、花束を持って立ち上がった。
「どうするんですか」
「俺が持って帰る」
「えっ、でも、それはさすがに申し訳ないというか、冨岡さんだって電車でしょう?」
「なら要るのか」
「要らないです。でも、お花に罪はないから困ってたわけで……」
「花束は渡した時に役目は終えてる。あとは誰が愛でようと構わないだろう」
「愛でるんだ。お花好きなんですか」
「特別好きじゃない」
じゃあやっぱり自分でなんとかしますと手を伸ばせば、冨岡さんはわたしが届かないところまで遠ざけてから眉の間にしわを寄せた。
「もらってほしくない」
雑踏に紛れそうな本当に小さな声だった。でも聞こえた。
そうして、
「じゃあまた月曜日に」
そう言ってさっさと構内へと歩き出した背中を物足りなく思ってしまった。
「あのっ、今度ご飯食べに行きませんか!」
荷物をまとめて小走りで追いかけると、振り返った青い目が驚いたように見開かれた。それを見てわたしも慌ててしまった。
相談事なんてない、下心ありの親切は好きじゃないはずなのに。はず、なのに。
「その、あの、えっと、お礼です! 牛丼とかでよければおごります! あっ、牛丼食べれますか? お好きですか?」
「好きだ」
お疲れ様、と改札へ吸い込まれてゆくのに返事ができなかった。初めて見た。あんな嬉しそうな顔。耳に届いたその耳慣れない響きも。
「……あ、あれぇ……?」
コートの上から押さえた胸の鼓動がとくとくとくとく速いのは今少し走ったからだ。だけど、さっきまではしなかったはずの甘い匂いがどこからか漂ってきていた。