卒業式
夢小説設定
この小説の夢小説設定夢主の名前変換が可能な話があります。
設定しない場合はデフォルトの「◯◯ ◯◯◯」になります。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一度も担任するクラスを持ったことがないせいだろうか。もしかしたら自分は保護者と挨拶を交わすのが苦手なのかもしれない。
話しかけられてもうまく返せず「ご卒業おめでとうございます」ばかりを繰り返し他の教師よりも少しだけ早くその場を後にした時、慣れないワイシャツの内側にじわりと汗をかいていた。……まだ仕事はあるのにこれでは効率が悪い。
たしか予備のジャージが置いてあったな、とネクタイをはずし校舎へ向かうほうではない渡り廊下の奥、体育準備室の鍵を取り出した時、
「冨岡先生、やっと見つけたっ!」
聞き慣れた声と軽やかな足音に手を止めた。
「あっ、もうネクタイ取っちゃったんですか! せっかくかっこよかったのに!」
走り回っていたのか頬を上気させそう言った彼女のブレザーの胸元からも式典の最中につけていたリボン徽章や校章はすでになく。
鞄とともに持っている紙袋から覗く寄せ書きや花束に、後輩にでも渡したんだろうかとなぜかそんなことが気になった。
「先生、あの、これ」
それらを傍に置きポケットから取り出したのは桜の柄の封筒。丸い字の『冨岡先生へ』に、何度も言われた言葉を思い出して反射的に眉の間が寄っていく。
「……だから、そういうのは受け取れない」
「大丈夫です、もう『好きです』なんて書いてないから。言ったでしょ、卒業までに振り向いてもらえなかったらちゃんと諦める、って」
これはただの感謝のお手紙です、と裏返し糊付けがされていないことを見せるように封をめくってみせる。
誰に見られても困るものではないと気遣いのされた封筒を受け取った時、少し強張ったように見えたのが冬の名残をとどめた風のせいか他の理由か判断がつかず、結局また、
「卒業おめでとう」
と口にする。
……いや、これは当然かけるべき言葉か。
「ありがとうございます。あの、それと、悲鳴嶼先生には朝報告したんですけど、本命合格しました。昨日通知がきて」
「式の前に聞いた。……おめでとう。頑張ったな」
「はい、頑張りました! でもやっぱり無理したところだからついていけるかちょっと不安です。合格っていっても補欠だし」
「大学は良くも悪くも全てが自分次第だ。だがお前なら大丈夫だ。もし何か困ったことがあったらいつでも相談しに来るといい」
励ましたつもりの言葉に彼女は頷かなかった。ありがとうございます、と言ったきり視線を爪先へと落とすと途端に遠くのざわめきだけが耳に届いた。
そうして彼女が黙ってしまえば会話はなくなった。いつも話しかけてくるのは彼女で、俺はそれに短く返すばかりでまともに答えてやれたことなどほとんどなかった。
返し方がわからないのはなにも保護者だけじゃない。それでもせめて、気づいた時にもっと俺がちゃんとしていれば、距離の取り方を間違えなければ、学生の貴重な時間を教師に寄せる好意などに費やさせてしまわずにすんだのに。
短い沈黙を破ったのはチャイムだった。式のある午前中は止めていたその音はやけに大きく響いて、彼女はようやく顔を上げ校舎の方を見遣る。
聞き慣れているはずのそれを名残り惜しむような横顔に、――唐突に、今日が最後だという事実が胸に迫ってきた。
……何か言ってやらなければ。最後くらいは教師らしいことを。
「……◯◯、」
名前を呼ぶと弾かれるように振り返り真っ直ぐに見上げてくる目を直視できなかったのは、罪悪感かただの不甲斐なさか。少なくとも、逸らした先に彼女の友人がこちらを窺っていることに気づき教えた直後に襲ってきたのは後ろめたさだった。
まってるからゆっくりでいいよーとみおかせんせーありがとーございましたーげんきでねー。
そう叫んで正門の方へと歩いていく友人に手を振って応えると、今しがたの真剣な目が嘘のような軽い口調で、じゃあせんせー、と荷物を持ち上げる。
「待たせてるからわたし行きますね」
「……ああ。……寄り道せず真っ直ぐ帰れ」
「えー、やだよ、するよっ! 制服最後だもんっ、残念でしたーっ」
あっけらかんと笑って友人の元へと走り出すのをどこか拍子抜けする思いで見送り、やがて苦笑が漏れた。
……確かに、ちゃんと諦めると言っていたな。
切り替えの早さはおそらく何度注意しても廊下を走るのをやめないのと同じ理由。やりたいことが多すぎていつまでも変わらないものを待っていられるほど暇ではないんだろう。あの頃の自分もそうだったかはもう思い出せなかった。わかっているのは、あとひと月もせずに新しい生徒が入ってきてまた忙しない一年が始まること。
こちらもしっかりと準備をして迎えなければなとドアに鍵を差した、その時。
「先生っ!」
聞き慣れた、もう聞けないはずの声に再度顔を上げ息が止まる。
彼女が立っていたのは、三年前の春、入学式のあと他の生徒からはずれて隠れるようにうずくまっていたのとほとんど同じ場所。
――そう。話しかけてくるのは、気づけばそこにいたのは、いつだって。
「わたしのことっ、ちょっとくらいは好きな時あった……っ⁈」
『いえ……本当に一人で大丈夫、です、……緊張で酔っただけ、なので』『冨岡先生、入学式の時はありがとうございました』『先生、ぶどうパン好きなの?』『だってここ居心地いいんだもん』『わたしもう少し早く生まれたかったな』『気の迷いなんかじゃない! わたしの気持ちを勝手に決めないで!』『せんせ……たすけて……』『……先生には関係ない』『ねぇ、先生、今日ね、』『先生っ』『先生』『冨岡先生』
――最後くらいは、教師らしいことを。
「あるわけないだろう」
吹きつけた強い風が言葉から温度を奪って通り過ぎていく。制服の裾を握り締めたままの彼女はぴくりとも動かず、ただ風が乱した髪がその泣き顔を隠した。
――一度、二度。華奢な肩が大きく上下する。
それから、すう、と息を吸い込む音さえ聞こえた気がして。
「だよね!」
顔を上げた時にはすっきりとした笑みを浮かべていた。
背筋が伸びて顎が引かれ、凛とした声が響く。
「冨岡先生、三年間ありがとうございました!」
そう一度深く頭を下げると勢いよく背を向け、それきりもう振り返らなかった。
新しい季節へと駆け出していくその背中が正門近くの桜並木を通り過ぎた時、ああ、と肺から空気が押し出され胸の中が空っぽになる。
手のひらの中で封筒がくしゃりと音を立てた。