インコの国





 るりちゃんが逃げた。
 破れていた網戸の端を週末に直すとお母さんが言っていたのを忘れてつい窓を開けてしまったのだ。
 
 るりちゃんと同じ色をしている晴れた空に柔らかそうな雲がぷかりぷかりと浮いていて、久しぶりに外が気持ち良さそうに見えた。今たくさん遊んだるりちゃんもきっと外の空気を感じたいだろうと思った。
 
 からからと窓を開けるとるりちゃんは驚いたのか羽をばたつかせて部屋の奥まで逃げたけど、すぐに寄ってきた。そしてくちばしで網戸の端をペロンとめくってベランダに出ると、柵の隙間から植木へ、向かいの家の屋根の向こうへとあっという間に見えなくなってしまった。

 たった今まで飛び回ってはしゃいでいた小さな体が他の大きな鳥に襲われる姿が目に浮かんだ。
 だから家に鍵をかけて探しに行くことにした。
 誰かのためなら強くなれると聞いたことがあるけど本当だなと思った。誕生日に買ってもらったスニーカーはまだきれいなままで、それなのにもう窮屈な気がした。

 
 
 
 ◇

 
 
 
 るりちゃーん。るりちゃーん。
 住宅街や駅前の雑踏を抜けていく。踏切や大通りを越えていく。上ばかり見ていたからどこを歩くのも怖くはなかった。歩道の段差に気付かずにすてん、と転んだのもそのせいだったけど。
 
「大丈夫か」
 
 膝についた砂をはらっていると声をかけてくれたのは一人のお兄ちゃんだった。るりちゃんよりも少し濃い青色の目をしていた。後ろでひとつに結んでいる髪がるりちゃんの尾と似ていた。
 
「るりちゃんを知りませんか」
「……妹か?」
「ううん、でも家族なの。体は青くて羽とほっぺに黒い点々があります。呼ぶといつも手に乗ってくれるのにちっとも戻ってこないの。わたしの声が聞こえないくらい遠くに行っちゃったのかも」
 
 わたしはるりちゃんのことが知りたいのにお兄ちゃんはわたしのことが知りたいみたいだった。この辺りに住んでるのかとか親には伝えているのかとか。
 もういいです、と歩き出したけどお兄ちゃんは後をついてきた。どこか困ったような顔をしているけど構っていられない。

 
 
 
 住宅街を歩いていると鳴き声が聞こえた。るりちゃんの声に似ていて慌てて耳を澄ますけど、お兄ちゃんのスマホからだった。
 仲間の声で呼び寄せようとしているんだとわかって少しだけ腹が立った。だってわたしがるりちゃんだったら聞きたくない。道の反対側をランドセル姿の子が歩いている。もうそんな時間なんだ。心臓がばくばくする。早く家に帰りたい。

 
 太陽が傾くとあたりがるりちゃんの鼻みたいな薄いオレンジ色になった。なったと思ったらあっという間に鮮やかなオレンジに照らされた。ガードレールもわたしのスニーカーもお兄ちゃんのほっぺも。るりちゃんはまだ見つからない。
 
「……逃げたインコの国があるんだって」
 
 まぶしくてまぶしくて立ち止まると、お兄ちゃんも立ち止まった。
 
「おいしいご飯があって一年中あったかくてね、みんなで仲良く暮らしているんだって」
 
 本で読んだ気がするけどその時はまだるりちゃんはいなかったからふぅんと思っただけだった。小声になったのはうろ覚えだったからだ。でも、あるかもしれない、と返事がきたときすごくほっとした。
 
「だよね、あるよね。それって幸せなところだよねきっと」
「諦めるな」
 
 お兄ちゃんは夕日に背中を向けていて顔がよく見えない。なのに真っ直ぐにわたしを見てるとわかった。真っ直ぐ。
 
「諦めるな。家族なんだろう」
 
 すぐ傍でふすーっという音がした。わたしが息を吐き出した音だった。そうして思い切り吐き切るとお腹の奥が熱くなって、力強く地面を蹴って歩き出す。諦めるな。

 
 だけど夕焼け放送が終わってしばらく経ってもるりちゃんは見つからなかった。お母さんが帰ってきたら一緒に探してみる、と言うとお兄ちゃんは、そうか、と言った。少し残念そうに聞こえた。
 
「一人で帰れるのか」
「うん」
「知ってる場所か」
「うん。あれ、わかるから」
 
 橋を渡った先にある建物を指差すとお兄ちゃんはあからさまにほっとしたかおをした。数ヶ月ぶりに見る小学校の校舎だった。

 別れ際に小さなメモを一枚もらった。名前と電話番号が手書きでかかれていた。
 
「手伝えることがあったら言ってくれ」
 
 習っていない漢字ばかりで少しも読めなかったけどポケットに入れて、ありがとう、と言うとお兄ちゃんはまた困ったような顔で頷いた。

 
 
 
 ◇

 
 
 
 るりちゃんはすぐに見つかった。
 近くの林で鳴き声がすると聞いてお母さんと探しに行ったら木の上の方に止まっていて、えさを持って声をかけるとすぐに手に乗ってきた。泣きながら謝るわたしの指をがじがじ噛んだ。
 空の広さに怯えて動けなかったのかもしれない。でもインコの国よりわたしの家を選んでくれた気がして嬉しかった。

 
 メモはお母さんに渡さなかった。お兄ちゃんに連絡もしなかった。その代わりにランドセルに積もった薄い埃を払って教科書を詰めた。
 
『冨岡義勇』
 
 なんて読むのかまだわからないその字が読めるようになったら、会いに行こうと思う。






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