この指とまれ
ここに来てからよく昔を思い出すようになった。人間だった頃の遠い昔だ。はじめは朧げだったそれは、日ごと鮮明になっていた。
それがいつの時だったかはわからない。親戚の祝言か葬式の帰りか、父の仕事関係で連れられて行ったのか。覚えているのは大勢で押しかけたその屋敷の若い主人の困惑顔だ。
持ってきた酒と出前で昼から宴会をする大人達と食事を終えて遊び始めた子供たち。座敷でのカルタにも飽き、かといって庭でチャンバラ遊びに興じる男の子達に混じる気にもなれずひとり庭を歩き始めた。
淡く咲く芙蓉に誘われるように砂利敷きの道を奥へと入るとやがてそれが板塀沿いの朝顔に変わった。いくつも並べられた鉢植えの花はすでにしぼんでいる。それでもその澄んだ青は慣れない場所での居心地悪さに疲れていた胸にやけに優しくて、傍で見ようと近づいた時、コン、という小さな咳払いが聞こえて振り返った。
縁側の開けた障子にもたれるように幼い男の子が座っていた。昼間は汗がにじむ季節なのにきちんと衿を合わせた着物の上に葡萄色の羽織までかけ、どこか気まずそうにわたしから目を逸らしていた。
「こんにちは、勝手に入ってしまってごめんなさい」
声をかけると緊張していたその青白い頬がほんの少しだけ緩むのがわかった。どうやら怒っているわけではなさそうだ。
「ここの家の子だよね。出ておいでよ。みんなあっちで遊んでるよ」
「体が弱いんだ。歩くだけで息が切れる。とても行けないよ」
ゆるく首を振ってからその口から出た声は華奢な肩よりも何倍も頼りなかった。広い座敷に敷かれた一組の布団と、傍の一人分の箱膳。向こうから届いてくるチャンバラの歓声が妙に悲しかった。
「大丈夫、うつったりはしないよ、生まれつきなんだ」
わたしが黙って立ちすくんでいるのを誤解したのかその子はそう淡々と告げた。
「ずっと一人なの? さみしくない?」
「……これが、あるから」
一瞬の間を空けてその子が懐から取り出し指にかけたのは、丁寧に編まれたあやとり紐だった。ほっそりとした頬に浮かべたぎこちない笑みを見て、そうじゃない、と思った。わたしはさみしくないかと聞いたんだよ。
「じゃあ、わたしが連れていってあげるからあっちでみんなでやろうよ」
「こんないい天気だよ、誰も僕と家の中で遊んでくれないよ」
「そんなことないよ。……ね、指をこうしてみて」
人差し指を一本伸ばして少しだけ上に掲げてみせる。怪訝な顔でわたしの真似をする、それだけの動作さえどこかつらそうに見えた。
「こう言って。『あやとりする人、この指とーまれ』」
「……あやとりする人、この指とーまれ」
「はぁい」
その指をそっと掴むと、びくりと肩を跳ねさせて逃げるように引かれてしまった。一瞬だけ握った感触はささやかで、細くかさかさした指は抵抗なくすり抜けた。
「……こんなことしても誰も来ないよ」
「来ないかもしれないし来るかもしれない。選ぶのも選ばないのも自由だから。誰も来なければ別の遊びに誘えばいいし、またの機会でもいい。とりあえずわたしは、今あなたとあやとりをしたい」
もう一本ちょうだい、と出した手をしばらく見つめていたその子はやがて真っ赤なあやとり紐をそこに載せてくれる。それから自分の糸を指に絡めて黙って手を動かし始めた。箒、蝶、梯子に富士山に蜘蛛の巣。淀みなく動いては次々と出来上がっていく形をいつしか必死に追いかけていた。
「ちょ、ちょっと待って。絡まっちゃった」
「きみ、ずいぶんと下手だね」
「下手じゃないもん。やってればすぐできるようになるの、……たぶん。だからあなたが教えてよ。ね、もう一回」
「いいよ。もう一回」
覚えの悪いわたしに呆れながらもその子は飽きずに教えてくれた。川、吊り橋、蛙。おかげで四半刻ほどして母がわたしを探しに来た時には、その子の手からも滑らかに取れるようになっていた。
「さようなら、……くん」
別れ際に手を振ると控えめに振り返してくれた時、青白かった頬に赤みが差していたのが嬉しかった。
あの朝顔のような青い瞳をした男の子の顔と名前だけが、どうしても思い出せない。
***
「……こんな感じ……だったかな……」
山深い場所にあるぼろ屋敷の前で指先から出した糸で形作るのは、昨日思い出した星のかたち。……の、つもりだけれど、大して複雑でもないそれすら『弟』に分けてもらったこの力で作る糸ではどうしてもうまくかたどれない。
「あ……、できた」
ようやく思い描いていたとおりのものができて夜空にかざす。透明な蜘蛛の糸でできた星は月明かりで銀色に輝いた。
見惚れていると「なにしてるの」と背後から声がかけられ、緊張しながら振り返る。
「あやとりを、少し。なんだか懐かしくて」
「なつかしい……?」
「ええ。昔、誰かに教えてもらったの。弟のように小さな男の子で……」
「弟? 君は僕の姉さんだよね」
話を遮ってきた言葉に喉がひゅっと鳴った。同時に手元の星がふつりと消える。手も全身も細かく震えていた。
「ご、ごめんなさい……、ちがうの、弟っていうのは……あなたにとてもよく似ていたっていう意味で……、きゃあっ!!」
「……もういいよ」
突然の激痛に両手で顔を覆う。弟の声はいつだって疲れたように平坦だ。それでもそれが許しの意味で使われたのではないのだとわかった。瞼をこじ開け、見てしまったから。
「お前はさ、僕の姉さんの自覚が足らないんだよね。その弟とかいうやつのことを考えてるから元の顔に戻るんでしょう。大体こんな簡単な形も満足に作れないくらい糸も操れないでどうやって僕を守るの。ねぇ」
自分の血にまみれた指に絡んでいるのは、弟と同じに変えられた白髪ではなく元々のわたし自身の真っ黒な髪。ごめんなさいと繰り返す言葉がもう意味のないものだと悟った。
「役割を果たせないなら生きてる意味がないんだよ」
抑揚のない声で紡がれた言葉にわたし達を窺っていた気配が微かにざわめいた。弟はわずかに辺りを見渡しながら、その指先から糸をちらつかせる。
「ねぇ、父さんも母さんも、兄さんや姉さんたちもそう思うよね。僕の言うこと、なにか間違ってるかな」
その細い糸に引き寄せられるように次々と姿を現した偽りの家族の姿に、唐突にあの子の名前を思い出した。
そんなやり方で手繰り寄せた相手はあなたが本当に求めていたものなの?
散々に折檻された後で屋敷の東の壁に張りつけられた時、すぐそこに朝が迫っていた。すでに瞼の裏は赤く焼け、もうあの青は思い出せない。
「……さようなら、累くん」
自由を得てなおがんじがらめになってしまった、わたしの可愛い、——。
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