リスタート
◇
市川レノくんのことは割と知っている方だと思う。
生年月日に簡単な経歴、身長体重体組成。それから入隊後の解放戦力の推移に体力測定の結果などなど。データ上のことのみだけど、オペレーション部隊のわたしが最前線に出る小隊の一員の彼をサポートするにはとりあえず充分な範囲だ。
今年の新人はやれ討伐大首席卒だのやれ飛び級の長官の娘だのととんでもない子が多くて、その中で市川くんは突出しているわけじゃないのになぜか気になる子だった。
入隊してほんの数日、それでも伸び率のいい子だと分析値が示してわくわくしているせいなのはある。選別二次試験の時の日比野さんとのコンビぶりを保科副隊長がやけに気にいっていたせいなのももちろんある。けれど一番の理由は、よく目が合うからだ。
「この時期は隊が明るく感じるよねぇ」
「ですねぇ」
食堂で、休憩室で、トレーニングルームで。何かと目立つ件の彼らを、小此木先輩と微笑ましく見ているとき、市川くんはふいに顔をあげこちらを振り返る。合った視線はドキリとするくらいに逸らされなくて、会釈をしてまた輪の中に戻っていくまで少しだけ緊張してしまう。確かにジロジロ見すぎたかもしれない。同期と屈託なく笑っている新人達の姿は少しの痛みを伴いながらも眩しかったから。
訓練では無線で何度もやり取りを交わしているけれど、実際に市川くんと会話をしたのは一度きりだ。
「きゃっ」
「すみません!」
倉庫の自動ドアが開いたとき、真正面からの西日に一瞬目が眩んだ。そのせいでそこにいたらしい市川くんにぶつかってしまう。抱えていた端末が床に落ちる寸前、わたしよりも先に掴む反応の早さはさすがだった。
「何か用事? 急ぎ?」
ありがとう、と受け取りながらそう尋ねたのは、ここが広大な立川基地内でも奥まった場所にある倉庫でオペレーターや通信班分析班など支援部隊に所属する人間か神出鬼没の保科副隊長くらいしか来ない場所だったからだ。
「……いえ、あの」
「あ、わかった、サボりだ」
「違います」
上昇志向の高い市川くんがさぼるとはもちろん思ってない。休憩中に基地内の探索でもしてたんだろう。歯切れの悪さをからかったわたしに向ける慌てた顔は訓練中に見るよりも幼くて、当たり前とはいえ普段はかなり気張ってるのかもなと思えば自然と笑みがこぼれた。
「この辺でぼんやりしてると危ないよ、大型の武器の搬入とかもあるから」
「わかりました。失礼します」
会釈ではなく敬礼をして急ぎ足で去っていく後ろ姿にぽかんと口が開いてしまう。戻るのは同じ方向なのにと声を上げて笑った。
真面目さ、努力家、ポテンシャル。ゆくゆくは小隊長にもなるかもしれない。市川くんに対する評価も感情も概ね良好で、本当にそれだけで、決してそれ以上のものはなかったはずだ。
なのに、――一体全体これはどういうことなんだろう。
◇
「おはようございます、先輩」
日差しが眩しくて布団に顔を埋めると、誰かの声が聞こえた。
片方だけ瞼を開けるとすぐそこに市川くんがいた。銀色の髪は光を受けて白く輝いていて、寝乱れたのかぼさぼさしている。つるりとした肌の無垢さといいはにかんだ顔といいなんだかひよこみたいに見えた。
「……おはよう」
発した声はやけに掠れていた。おはようということは朝みたいだ。でも起床のラッパ音はまだ聞いてない。それに気づかないほど寮生活は短くはなかったので、もう少しだけ、と瞼を閉じる。朝日はやわらかいのに眩しさがやけにつらい。頭も割れそうに痛かった。んんっ、と咳払いしていると布団が少しもちあがった。市川くんが体を起こしたみたいだ。
……ちょっと待って、どうして市川くんがいるの。
今度はうすく両目を開け、ヘッドボードへと手を伸ばしているその姿に一気に目が覚めた。
市川くんは上半身裸だった。
他の隊員と比べればやや細身だけれど鍛えられた筋肉をまとっていてとても逞しい。その体に引っ掻かれたらしい赤い痕が残されていた。明らかに誰かが縋り付いて爪を立てたらしきそれは市川くん自身では成し得ないそんな方向に、いくつも。
うそ、と唇だけで呟いて慌てて自分の体をまさぐり青ざめる。いや、青じゃなく真っ赤だったかもしれない。かろうじてスリップを着ている、着ているけどブラはしていないしあろうことかパンツを履いていない。お尻が丸出しだ。
あまりに心許なくて布団に潜り裾を伸ばそうと動くと、市川くんの下半身が目に入ってしまった。市川くんはちゃんと下着を履いていた。履いていたけどついその盛り上がりを見てしまう。ボクサーブリーフだけの市川くんとスリップだけのわたし。
どっちだ、したのか、してないのか。
「良かったら水飲んでください。ぬるいですけど」
頭上から落ちてくる声に恐る恐ると顔を出す。すぐ目の前にある胸元や首筋に小さな内出血まで確認してしまいついに飛び起きた。
布団を胸元にかき寄せながらできるだけベッドの端へと寄る。ペットボトルを差し出した体勢の市川くんはきょとんと目を瞬いた。
「……先輩、急にどうしました?」
「えっと、え……、え……?」
慌てて状況を確認するも見慣れた景色だ。同室だった先輩が先月引っ越して今は一人で使っている防衛隊の寮の女子部屋。窓際のベッド、ロッカーに貼っている写真、枕元にはお守りのぬいぐるみ。
普段と唯一違うのが目の前の男の子だ。しかも半裸。なんで、どうして。必死に考えを巡らせる頭がズキンズキンと脈打つように締め付けられる。完全に二日酔いだ、とおでこを押さえたその痛みがようやく思い出させた。
昨晩は、この春入隊した新人の歓迎会だった。
基地近くの居酒屋は『ザ・居酒屋!』な雰囲気のお酒も料理も美味しい店だ。
歓迎会といっても斑鳩小隊の面々とこの小隊のサポートにまわることが多いわたしも含めてのこじんまりしたものだったけれど、全員で遠慮なく飲み食いすればあっという間に大騒ぎ。
くだらない話から侃侃諤諤とした議論まで交わされているテーブルの端で、わたしは時々相槌を打ったり意見を言いながらも基本的にはおとなしくグラスを傾けていた。中に入るよりもこうしてみんなを見ているのが好きなのと、円滑にサポートできるように性格や人間関係を把握しておきたかったからだ。
何気なく店内を見渡しながら、ふと、入り口近くにある暗がりの壁際に寄りかかっている誰かが動かないことに気がついた。仮配属されている市川くんだ。わたしの視線はそんなにあからさまなんだろうか、市川くんはすぐに顔をあげた。けれどいつものようにぺこりと頭を下げて戻ってこないので席を立った。今日の主役は君たちだ。
「お疲れ様です」
「お疲れさま。どうした、疲れちゃった?」
「いえ、食べ過ぎたんで休憩してました」
市川くんは、ふう、と大きく息を吐きながら隊支給のジャージの上からお腹に手を当ててみせる。苦しそうにさすっているけれど鍛えて引き締まっている体はとてもそんな風には見えなかった。
「なら良かった。楽しんでる?」
「はい。防衛隊にもこういうのがあるんですね」
「うん。一緒にご飯食べてお酒飲むと手っ取り早く距離が縮まるからじゃないかな。それにいつも張り詰めてたらいざという時に切れちゃうから」
そういうわたしは気が緩みすぎだった。ふわぁ、とあくびが出たばかりか手で隠すことも忘れているのに気づかない。はふぅ、と声まで漏らすと市川くんが少しだけ笑った。
「先輩は酔うと眠くなるタイプですか」
「……今のはお酒のせいじゃなくて寝不足。……あ」
体調管理も仕事のうちなのにいたらないところを新人に見せてしまった。保科副隊長には内緒ね、と立てた人差し指を口元に当てながら隣に寄りかかる。
レジ脇のカレンダーを何気なく見れば、お店の定休日なのか◯で囲ってあるのは8日の日付だ。『8』という数字にキリリと胃が締め付けられる気がした。
ここ最近のわたしの仕事は、通常のオペレーションの他に新人のサポート、それから――例の怪獣8号だった。防衛隊発足以来初の未討伐事件だ。いまだ把握しきれていない出現時の数値分析や発生場所予測は急がれていて、モニタールームや資料室にこもることが増えた。今日が歓迎会で明日の非番は用事があった。できるうちに少しでも進めたくて昨晩はだいぶ根をつめてしまった。そろそろ切り上げようかと小此木先輩に声をかけられたのは日付を大幅にまたいだ頃だった。
……あれ?
ふと、隣の市川くんの顔を見上げる。
昨晩からついさっきまで、モニタールームで見ていたデジタル表示の日付は4/12。
……四月十二日といえば。
「……もしかして、今日って市川くんの誕生日じゃない?」
「覚えててくれたんですか」
「データ見てるからね。――あのっ、みなさんすみません! 今日はなんと……」
誕生日の人がここにいまーす、と手を引いて戻ろうとすると反対に引っ張られた。よろめいたところを壁によりかからせるようにして目の前に立ち塞いだ市川くんは、首を横に振る。
「いいですよ、そんな、言わなくて」
ここは暗くて向こうからは見えづらいし、酔っ払いたちには聞こえなかったみたいだ。変わらない賑やかさと斑鳩小隊長のよく通る声が届いてくる。
「せっかくみんないるんだもん、お祝いさせてよ」
「柄じゃないです」
柄とかは知らないし誕生日を祝うのは大事だ。
防衛隊に所属してひとつ年を重ねるというのは、この一年命を落とさずに任務を遂行したということ。新人の初任務はまだだけど、今年の選別試験で起きたことを考えれば文字通り命懸けの仕事で同期や先輩や自分が殉職するのも珍しくないのだと、入隊前から身に染みているはずなのに。
懸命に説明するわたしが面倒くさかったのかもしれない。市川くんは目元に苦笑いのようなものをわずかに含ませた。
「じゃあ先輩が祝ってください。それで充分です」
いい子だなぁって思ったんだ。
斑鳩小隊長に断りを入れて移った別のテーブル、実戦での無線のコツやオペレーターがどんな仕事をしているかの説明やお互いの趣味や他愛もない話をいくつも重ねながら。
――そう、いい子なのだ、市川くんは。
酔い潰れた女に手を出すような男の子じゃないのだ。
「えっと……、ごめんね?」
「何がですか」
「迷惑かけたでしょう。……たぶん」
この状況はきっとあれだ、漫画とかで見たことあるやつ。お酒に強くないのにきっと飲みすぎてしまったんだろう。寝不足も重なりべろんべろんになった挙句お気に入りの新人に早速絡んでは寮まで送らせて、部屋にあがったところでぶちまけてしまって仕方なく汚れた服を脱がせたとかそんなところ。
いくつもの違和感を無理やり納得させて、だけど市川くんはそんなわたしを見て怪訝そうに眉根を寄せた。
「もしかして覚えてないんですか」
「お、覚えてない……かな……」
布団を握り締めると、市川くんは小さなため息をついた。髪に指を差し込んでぽりぽりと掻く、そのわずかな仕草でベッドが二人分の重さでぎしりと軋む。いつもは気にならないその音を聞きながら本当にしたのかと下腹に意識を集中させてみるけれどよくわからなかった。
オペレーション部隊といえど災害現場で動けなければ話にならない、訓練はそれなりにしている。頑丈で健康なわたしの身体は多少の負担は負担にならないし回復も早い。たとえベッドが軋むような行為を市川くんとしても翌朝違和感を残さないほどに。
それでも「したんだっけ?」と確認する度胸も経験値もなかった。乾いた喉にかき集めた唾液を送り込むと不自然なほど大袈裟に鳴って、ペットボトルが無言で差し出される。
受け取った水は常温でもほてった体にはひんやりと冷たい。それでほんの少し冷静になってみれば、別に大したことでもあるまいと思い直した。市川くんも呆れてる様子だけど動揺はあまりしてないみたいだ、意外とよくあることなのかもしれない。
「そ、そっか、まぁ、でも、うん、お互いにいい大人だもんね、酔った勢いってことで」
「酔ってたのは先輩だけです。俺はまだ酒飲めないんで」
そうだった……と、小さく呻いて顔を覆う。市川くんは誕生日を迎えてもまだ十代。成人してるとはいえお酒も飲めない彼をこんな酔っ払いに付き合わせてしまうなんて。
「本当に何も覚えてないんですか」
こくりと頷くと手首を掴まれはがされた。覗き込んできた顔は傷ついたようにゆがんでいて、もしかしたらと気づく。自惚れかもしれないけどよく目が合うのは、もしかしたら。わたしの中の好意も昨晩のうちに、もしかしたら。
それを覚えていないから意味はなかったけど。
「……うん、ごめん、本当に覚えてないの。お店で二人で話してたのは覚えてるよ、内容も覚えてる。でもどうやって帰ったかとかその後のことがまったく……」
「その前のことも? 全部?」
「その前って……?」
前のめりで確かめてくる表情はたった一晩を指すにはやけに真剣だった。どこか興奮したように速い呼吸が顔に当たる。何度も上下する喉仏が緊張を伝えていた。目の前の淡い紫色の瞳に胸がざわつきはじめる。
「……俺は覚えてます」
「え……?」
ふいにその奥でかすかに瞬く何かを見た。
太陽が沈んだ後、数秒だけ見える魔法で作ったような紫の空。かじかんで動かない手。それから――。
「……っ!」
――それ以上は追いかけたくない。
急激に湧き上がった感情だけは昔から覚えのあるものだった。
掴んでいる手を振り解こうとすると市川くんはその前に離れていく。そして戸惑うわたしの視線をそっと受け止め、繰り返す。
「俺は、ずっと覚えてました」
――これは、覚えているレノくんと覚えていないわたしのリスタートの話。
《続》
市川レノくんのことは割と知っている方だと思う。
生年月日に簡単な経歴、身長体重体組成。それから入隊後の解放戦力の推移に体力測定の結果などなど。データ上のことのみだけど、オペレーション部隊のわたしが最前線に出る小隊の一員の彼をサポートするにはとりあえず充分な範囲だ。
今年の新人はやれ討伐大首席卒だのやれ飛び級の長官の娘だのととんでもない子が多くて、その中で市川くんは突出しているわけじゃないのになぜか気になる子だった。
入隊してほんの数日、それでも伸び率のいい子だと分析値が示してわくわくしているせいなのはある。選別二次試験の時の日比野さんとのコンビぶりを保科副隊長がやけに気にいっていたせいなのももちろんある。けれど一番の理由は、よく目が合うからだ。
「この時期は隊が明るく感じるよねぇ」
「ですねぇ」
食堂で、休憩室で、トレーニングルームで。何かと目立つ件の彼らを、小此木先輩と微笑ましく見ているとき、市川くんはふいに顔をあげこちらを振り返る。合った視線はドキリとするくらいに逸らされなくて、会釈をしてまた輪の中に戻っていくまで少しだけ緊張してしまう。確かにジロジロ見すぎたかもしれない。同期と屈託なく笑っている新人達の姿は少しの痛みを伴いながらも眩しかったから。
訓練では無線で何度もやり取りを交わしているけれど、実際に市川くんと会話をしたのは一度きりだ。
「きゃっ」
「すみません!」
倉庫の自動ドアが開いたとき、真正面からの西日に一瞬目が眩んだ。そのせいでそこにいたらしい市川くんにぶつかってしまう。抱えていた端末が床に落ちる寸前、わたしよりも先に掴む反応の早さはさすがだった。
「何か用事? 急ぎ?」
ありがとう、と受け取りながらそう尋ねたのは、ここが広大な立川基地内でも奥まった場所にある倉庫でオペレーターや通信班分析班など支援部隊に所属する人間か神出鬼没の保科副隊長くらいしか来ない場所だったからだ。
「……いえ、あの」
「あ、わかった、サボりだ」
「違います」
上昇志向の高い市川くんがさぼるとはもちろん思ってない。休憩中に基地内の探索でもしてたんだろう。歯切れの悪さをからかったわたしに向ける慌てた顔は訓練中に見るよりも幼くて、当たり前とはいえ普段はかなり気張ってるのかもなと思えば自然と笑みがこぼれた。
「この辺でぼんやりしてると危ないよ、大型の武器の搬入とかもあるから」
「わかりました。失礼します」
会釈ではなく敬礼をして急ぎ足で去っていく後ろ姿にぽかんと口が開いてしまう。戻るのは同じ方向なのにと声を上げて笑った。
真面目さ、努力家、ポテンシャル。ゆくゆくは小隊長にもなるかもしれない。市川くんに対する評価も感情も概ね良好で、本当にそれだけで、決してそれ以上のものはなかったはずだ。
なのに、――一体全体これはどういうことなんだろう。
◇
「おはようございます、先輩」
日差しが眩しくて布団に顔を埋めると、誰かの声が聞こえた。
片方だけ瞼を開けるとすぐそこに市川くんがいた。銀色の髪は光を受けて白く輝いていて、寝乱れたのかぼさぼさしている。つるりとした肌の無垢さといいはにかんだ顔といいなんだかひよこみたいに見えた。
「……おはよう」
発した声はやけに掠れていた。おはようということは朝みたいだ。でも起床のラッパ音はまだ聞いてない。それに気づかないほど寮生活は短くはなかったので、もう少しだけ、と瞼を閉じる。朝日はやわらかいのに眩しさがやけにつらい。頭も割れそうに痛かった。んんっ、と咳払いしていると布団が少しもちあがった。市川くんが体を起こしたみたいだ。
……ちょっと待って、どうして市川くんがいるの。
今度はうすく両目を開け、ヘッドボードへと手を伸ばしているその姿に一気に目が覚めた。
市川くんは上半身裸だった。
他の隊員と比べればやや細身だけれど鍛えられた筋肉をまとっていてとても逞しい。その体に引っ掻かれたらしい赤い痕が残されていた。明らかに誰かが縋り付いて爪を立てたらしきそれは市川くん自身では成し得ないそんな方向に、いくつも。
うそ、と唇だけで呟いて慌てて自分の体をまさぐり青ざめる。いや、青じゃなく真っ赤だったかもしれない。かろうじてスリップを着ている、着ているけどブラはしていないしあろうことかパンツを履いていない。お尻が丸出しだ。
あまりに心許なくて布団に潜り裾を伸ばそうと動くと、市川くんの下半身が目に入ってしまった。市川くんはちゃんと下着を履いていた。履いていたけどついその盛り上がりを見てしまう。ボクサーブリーフだけの市川くんとスリップだけのわたし。
どっちだ、したのか、してないのか。
「良かったら水飲んでください。ぬるいですけど」
頭上から落ちてくる声に恐る恐ると顔を出す。すぐ目の前にある胸元や首筋に小さな内出血まで確認してしまいついに飛び起きた。
布団を胸元にかき寄せながらできるだけベッドの端へと寄る。ペットボトルを差し出した体勢の市川くんはきょとんと目を瞬いた。
「……先輩、急にどうしました?」
「えっと、え……、え……?」
慌てて状況を確認するも見慣れた景色だ。同室だった先輩が先月引っ越して今は一人で使っている防衛隊の寮の女子部屋。窓際のベッド、ロッカーに貼っている写真、枕元にはお守りのぬいぐるみ。
普段と唯一違うのが目の前の男の子だ。しかも半裸。なんで、どうして。必死に考えを巡らせる頭がズキンズキンと脈打つように締め付けられる。完全に二日酔いだ、とおでこを押さえたその痛みがようやく思い出させた。
昨晩は、この春入隊した新人の歓迎会だった。
基地近くの居酒屋は『ザ・居酒屋!』な雰囲気のお酒も料理も美味しい店だ。
歓迎会といっても斑鳩小隊の面々とこの小隊のサポートにまわることが多いわたしも含めてのこじんまりしたものだったけれど、全員で遠慮なく飲み食いすればあっという間に大騒ぎ。
くだらない話から侃侃諤諤とした議論まで交わされているテーブルの端で、わたしは時々相槌を打ったり意見を言いながらも基本的にはおとなしくグラスを傾けていた。中に入るよりもこうしてみんなを見ているのが好きなのと、円滑にサポートできるように性格や人間関係を把握しておきたかったからだ。
何気なく店内を見渡しながら、ふと、入り口近くにある暗がりの壁際に寄りかかっている誰かが動かないことに気がついた。仮配属されている市川くんだ。わたしの視線はそんなにあからさまなんだろうか、市川くんはすぐに顔をあげた。けれどいつものようにぺこりと頭を下げて戻ってこないので席を立った。今日の主役は君たちだ。
「お疲れ様です」
「お疲れさま。どうした、疲れちゃった?」
「いえ、食べ過ぎたんで休憩してました」
市川くんは、ふう、と大きく息を吐きながら隊支給のジャージの上からお腹に手を当ててみせる。苦しそうにさすっているけれど鍛えて引き締まっている体はとてもそんな風には見えなかった。
「なら良かった。楽しんでる?」
「はい。防衛隊にもこういうのがあるんですね」
「うん。一緒にご飯食べてお酒飲むと手っ取り早く距離が縮まるからじゃないかな。それにいつも張り詰めてたらいざという時に切れちゃうから」
そういうわたしは気が緩みすぎだった。ふわぁ、とあくびが出たばかりか手で隠すことも忘れているのに気づかない。はふぅ、と声まで漏らすと市川くんが少しだけ笑った。
「先輩は酔うと眠くなるタイプですか」
「……今のはお酒のせいじゃなくて寝不足。……あ」
体調管理も仕事のうちなのにいたらないところを新人に見せてしまった。保科副隊長には内緒ね、と立てた人差し指を口元に当てながら隣に寄りかかる。
レジ脇のカレンダーを何気なく見れば、お店の定休日なのか◯で囲ってあるのは8日の日付だ。『8』という数字にキリリと胃が締め付けられる気がした。
ここ最近のわたしの仕事は、通常のオペレーションの他に新人のサポート、それから――例の怪獣8号だった。防衛隊発足以来初の未討伐事件だ。いまだ把握しきれていない出現時の数値分析や発生場所予測は急がれていて、モニタールームや資料室にこもることが増えた。今日が歓迎会で明日の非番は用事があった。できるうちに少しでも進めたくて昨晩はだいぶ根をつめてしまった。そろそろ切り上げようかと小此木先輩に声をかけられたのは日付を大幅にまたいだ頃だった。
……あれ?
ふと、隣の市川くんの顔を見上げる。
昨晩からついさっきまで、モニタールームで見ていたデジタル表示の日付は4/12。
……四月十二日といえば。
「……もしかして、今日って市川くんの誕生日じゃない?」
「覚えててくれたんですか」
「データ見てるからね。――あのっ、みなさんすみません! 今日はなんと……」
誕生日の人がここにいまーす、と手を引いて戻ろうとすると反対に引っ張られた。よろめいたところを壁によりかからせるようにして目の前に立ち塞いだ市川くんは、首を横に振る。
「いいですよ、そんな、言わなくて」
ここは暗くて向こうからは見えづらいし、酔っ払いたちには聞こえなかったみたいだ。変わらない賑やかさと斑鳩小隊長のよく通る声が届いてくる。
「せっかくみんないるんだもん、お祝いさせてよ」
「柄じゃないです」
柄とかは知らないし誕生日を祝うのは大事だ。
防衛隊に所属してひとつ年を重ねるというのは、この一年命を落とさずに任務を遂行したということ。新人の初任務はまだだけど、今年の選別試験で起きたことを考えれば文字通り命懸けの仕事で同期や先輩や自分が殉職するのも珍しくないのだと、入隊前から身に染みているはずなのに。
懸命に説明するわたしが面倒くさかったのかもしれない。市川くんは目元に苦笑いのようなものをわずかに含ませた。
「じゃあ先輩が祝ってください。それで充分です」
いい子だなぁって思ったんだ。
斑鳩小隊長に断りを入れて移った別のテーブル、実戦での無線のコツやオペレーターがどんな仕事をしているかの説明やお互いの趣味や他愛もない話をいくつも重ねながら。
――そう、いい子なのだ、市川くんは。
酔い潰れた女に手を出すような男の子じゃないのだ。
「えっと……、ごめんね?」
「何がですか」
「迷惑かけたでしょう。……たぶん」
この状況はきっとあれだ、漫画とかで見たことあるやつ。お酒に強くないのにきっと飲みすぎてしまったんだろう。寝不足も重なりべろんべろんになった挙句お気に入りの新人に早速絡んでは寮まで送らせて、部屋にあがったところでぶちまけてしまって仕方なく汚れた服を脱がせたとかそんなところ。
いくつもの違和感を無理やり納得させて、だけど市川くんはそんなわたしを見て怪訝そうに眉根を寄せた。
「もしかして覚えてないんですか」
「お、覚えてない……かな……」
布団を握り締めると、市川くんは小さなため息をついた。髪に指を差し込んでぽりぽりと掻く、そのわずかな仕草でベッドが二人分の重さでぎしりと軋む。いつもは気にならないその音を聞きながら本当にしたのかと下腹に意識を集中させてみるけれどよくわからなかった。
オペレーション部隊といえど災害現場で動けなければ話にならない、訓練はそれなりにしている。頑丈で健康なわたしの身体は多少の負担は負担にならないし回復も早い。たとえベッドが軋むような行為を市川くんとしても翌朝違和感を残さないほどに。
それでも「したんだっけ?」と確認する度胸も経験値もなかった。乾いた喉にかき集めた唾液を送り込むと不自然なほど大袈裟に鳴って、ペットボトルが無言で差し出される。
受け取った水は常温でもほてった体にはひんやりと冷たい。それでほんの少し冷静になってみれば、別に大したことでもあるまいと思い直した。市川くんも呆れてる様子だけど動揺はあまりしてないみたいだ、意外とよくあることなのかもしれない。
「そ、そっか、まぁ、でも、うん、お互いにいい大人だもんね、酔った勢いってことで」
「酔ってたのは先輩だけです。俺はまだ酒飲めないんで」
そうだった……と、小さく呻いて顔を覆う。市川くんは誕生日を迎えてもまだ十代。成人してるとはいえお酒も飲めない彼をこんな酔っ払いに付き合わせてしまうなんて。
「本当に何も覚えてないんですか」
こくりと頷くと手首を掴まれはがされた。覗き込んできた顔は傷ついたようにゆがんでいて、もしかしたらと気づく。自惚れかもしれないけどよく目が合うのは、もしかしたら。わたしの中の好意も昨晩のうちに、もしかしたら。
それを覚えていないから意味はなかったけど。
「……うん、ごめん、本当に覚えてないの。お店で二人で話してたのは覚えてるよ、内容も覚えてる。でもどうやって帰ったかとかその後のことがまったく……」
「その前のことも? 全部?」
「その前って……?」
前のめりで確かめてくる表情はたった一晩を指すにはやけに真剣だった。どこか興奮したように速い呼吸が顔に当たる。何度も上下する喉仏が緊張を伝えていた。目の前の淡い紫色の瞳に胸がざわつきはじめる。
「……俺は覚えてます」
「え……?」
ふいにその奥でかすかに瞬く何かを見た。
太陽が沈んだ後、数秒だけ見える魔法で作ったような紫の空。かじかんで動かない手。それから――。
「……っ!」
――それ以上は追いかけたくない。
急激に湧き上がった感情だけは昔から覚えのあるものだった。
掴んでいる手を振り解こうとすると市川くんはその前に離れていく。そして戸惑うわたしの視線をそっと受け止め、繰り返す。
「俺は、ずっと覚えてました」
――これは、覚えているレノくんと覚えていないわたしのリスタートの話。
《続》
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