ご都合血鬼術で猫になった女の子が水柱様といる時に元に戻っちゃう話
詳細な経緯は省くけど、今わたしは水柱様の膝の上にいる。猫の姿で。
昼頃に目を覚ますと、蝶屋敷のベッドの中で自分が一匹の猫に変わっているのを発見した。
多分あれだ、いわゆるご都合ナントカとかいうやつ。心当たりは昨晩の任務。
すったもんだあった末にみんなの勘違いが重なり『怪我をして腹ペコで弱りきった迷い猫』認定されたわたしの世話を、たまたま訪れた水柱様が押し付けられ、今こうして縁側でひなたぼっこ――もとい、日光浴をしている状況だとわかってもらえればいい。
あ、あとひとつ、ベッドからわたしが消えたことには気づいてもこれがわたしだということには誰も気づいてくれていないということも。
当たり前だけど水柱様はとても迷惑そうだった。というより困っているように見えた。
わたしがちょっと動くだけでびくりと体をこわばらせ、体勢を変えてまた寝るとほっと息を吐く。
さっき胡蝶様と話している時に犬が苦手だと聞こえてきたけどもしかして猫も苦手なんだろうか。
最近の心地よい気候も猫になった今は少し寒くて、温もりを求めて乗ってしまったけど、だったら申し訳ないことをしてしまった。
……とは思うものの、まぁ乗っちゃったんだしもういいか、と恐れ多くもそこで毛づくろいを始めたのは猫だからかもしれない。
ザーリザーリザーリザーリ。
猫のとげのある舌は毛づくろいをするのに最適だ。手、顔、お腹、背中。順番に舐めながら昨晩怪我を負った右脚へ差し掛かると、あごをぐいっと掴まれた。
「そこは我慢しろ。悪化する」
がぶ。
その手を軽く噛んで抗議するけど水柱様は驚きもせずじっと動かさないまま。しばらく見合っていたけれどわたしの方が根負けした。
ごめんなさいの気持ちを込めて噛んでしまった場所を舐めていく。ザーリザーリ。
噛むよりも舐めるほうが痛いのか引っ込めようとする手を抱え込み、指や手の甲、それから手首の方へと上がっていく。
なんだろう、人の手は舐めるものではないとわかっているのにやめられない。産毛が舌に絡んでくるのも面白い。ザーリザーリ。
水柱様からはいい匂いがした。
土ぼこりと澄んだ水と、お出汁と醤油とちょっと魚の匂い。きっとお昼は魚の煮物だ。それにしょっぱい汗の匂い。
その奥に感じるもっと根本的なものを味わうように吸い込むと口が勝手にぽかーんと開いていって、それを見た水柱様が少し笑った。
笑って、持ち上げたもう片方の手でそっと背中に触れてきた。存外優しい手つきにヒゲがぴくんと動いてしまう。
見上げたおでこに指を伸ばされると、もっととねだるように耳が両脇に倒れていった。
「……これがいいのか」
「にゃ」
自分では舐めることができない場所は気持ちがいい。でも弱い、もっと強く。ぐりぐりと押し付けると強張っていた指が一本から二本に増やされた。三本、四本と。
初めは遠慮がちに、それからわしわしと。顔周りをかいてもらう心地よさに自分の喉のあたりからごろごろと音が鳴り始める。
「……お前は柔らかいな」
そう言った水柱様の声こそ柔らかくて、もう少しこのままでいたいかも、なんて思った。きっとこの人は苦手なんじゃなくて関わり方がわからないだけなんだろう。
秋晴れの澄み切った空にとんぼが飛んでいた。
庭にはたくさんの蝶が舞い、時々現れるハチや地面を小さな虫が闊歩する音がする。誰かの鎹鴉か、カァカァ、ぽっぽーというのんきな声も。――ぽっぽー? ――鳩? 鳩だ!!
臨戦態勢に入るまでは一瞬だった。膝からおりて床へ、沓脱石の脇へと忍び寄る。
ぽぽっ、と鳴いて落ちている何かを啄みながら後ろを向いた瞬間、瞳孔が一番大きく開いて地面を強く蹴った。
爪の先に引っ掛けた柔らかな感触に、届いた、と思ったのに、引き寄せようと伸ばしたもう片足は空をきった。大きく開いた翼に耳を叩かれ、上空から落ちてきた何枚もの羽を見てようやく我に返る。
――ああっ、ごめんね、わざとじゃないの! 本能なの!
……いや、本能ってなに。わたしは人間でしょ。
頭ではわかっているのに猫の体が悔しがっている。屋根の上まで逃げた鳩に、カカカカカッという可愛くない音が喉から漏れた。
もどかしい。あの鴉のせいだ。板塀に止まっている黒い影へと視線を移す。
飛びかかる寸前であの鴉が、カァァ、なんて鳴いたから。ずいぶんとおじいちゃんに見えるけど寝ぼけたふりして逃すなんてなかなかの策士だ。
ふすーっと息荒く吐いた鼻先で、ふいに羽根がふわふわと揺れた。
「あれは俺の大事な友だ。襲うな」
言われなくても仲間を襲ったりはしない。それに今のわたしの大きさでは鴉はさすがにこわい。
そのせいじゃないけど、目の前で誘ってくる鳩の羽根に水柱様の思惑通りあっという間に夢中になった。きっと水柱様の遊び方が上手だからだ。
前足でつつくと逃げるように動かされて、じゃれつけば本当に飛んでいるようにかわされる。時々からかうように顔をくすぐられ本気で慌てては、またすぐにはしゃいでしまう。
疲れるだろうに背の高い体をわたしが届くくらいにかがめて鳩の羽根を振っているのが泣く子も黙る柱の一人なんだよなぁと思ったら急におかしくなってきて油断した時、ふわふわの毛が鼻に入った。一瞬で奥がむずむずとしてきて。
「ふぁ……っ、は、は、っくしょーーーん!!」
ぶるぶるっと首を横に振りながら大きなくしゃみが飛び出た。
あ、猫もくしゃみをするんだ。新鮮な気持ちで鼻をこすった手が、手だった。わたしの。人間の。
「……あっ、戻った! よかった! ありがとうございます!」
視線を上げると正面の水柱様の目が見開かれていた。
――想像してみてほしい。いや、しないでほしい。
晴れた空の下、広々とした庭のまん真ん中、ほとんど話したこともない男性の上官の目の前で自分が晒している生まれたままの姿なんて。
「きゃぁぁぁーーーっ!!」
悲鳴とともに利き腕が動いていた。
後にも先にもわたしが水柱様に一撃を入れたのはこれきりだ。平手で見事に頬を打ち抜いてから建物の中へとかけこむ。背中もお尻も丸見えだけど正面よりはよっぽどいい。
外廊下を進んだ奥に物置があるのは知ってる。アオイちゃんが予備の布団やシーツを片付けているのを見た。だけどなんとか体を隠すものを得ようと角を曲がろうとした瞬間、とんでもない強さで腕を引かれた。
「ちょ、やだっ、離してくださいーーーっ!! いやーーーっ!!」
「騒ぐな!」
口を手でふさがれ、全身を何かで拘束されたまま抱き締められては半狂乱にもなるというものだ。
襲われる! 水柱様に襲われる!
まだそこまで好きじゃなーい!
わたし達の攻防は約一分後に終結した。
悲鳴を聞きつけたアオイちゃんが、全力で逃げようと抵抗する裸のわたしと「誰か来る前にこれで隠せ!」とわたしに巻き付けた自分の羽織がはだけないよう必死で押さえつける水柱様の姿に、わたしと同じ誤解をして青ざめさらなる悲鳴をあげたからだ。
それでやってきた胡蝶様が青筋を立てた時、弁明すればいいのに黙りこくってしまった水柱様の後ろで部屋の掛時計が何度か鳴った。ぽっぽー。