夕凪
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昨夜の任務は過酷だった。なんとか鬼の頚は斬ったものの疲労と緊張で体が熱い。一晩中小雨の中を駆けていたせいなのか、帰り道に悪寒をおぼえて、わたしは自宅ではなく蝶屋敷へと重たい足を向けた。
ベッドで一眠りして目を覚ますと夕暮れ時だった。流れる雲がわずかに途切れた向こうは水色と淡い藍色で、西へ向かって茜色に染まっている。わたしは縁側に腰掛けて空の色の移ろいを眺めていた。
張り詰めていた心が少しずつほどけてくる。けれどまだ体は癒えないみたいだ。
「……くしゅんっ」
悪寒に肩がすくみ、小さなくしゃみがこぼれ出た、その時だった。
両肩になにかが触れてわずかに首を動かせば、葡萄色の布地と、大きくて無骨な手。とくんと心臓が跳ねた。
「あ……、ありがとうございます……」
冨岡さんは自分の羽織をわたしの肩にそっとかけると、何も言わずに隣に腰掛けた。答えはない。頷きもしない。ただ少しあごを上げて、いつもの静かな瞳で遠くの空を見上げているだけだ。
わたしは羽織を掴んで引き寄せ、ゆっくりと顔を埋めた。冨岡さんの匂いがした。いつも冨岡さんを守っているその羽織からは、汗と、使い込まれた布のほんの少しの埃っぽさと、澄み切った水の匂いがした。
「……あったかい……」
脱いだばかりの羽織から伝わる冨岡さんの体温が、命懸けの毎日で冷え切ったわたしの体を包み、強張っていた心を溶かすように優しく温めてくれていた。
ふいに、冨岡さんが息を呑む気配がした。
羽織に埋めていた顔をのろのろと上げてその視線の先を追うと、真っ黒な影が飛んできていた。冨岡さんが立ち上がって庭の方へと歩き鎹鴉を出迎えたその背中が、すぐに強張ったのがわかった。もしかしたら、厳しい内容だったのかもしれない。
冨岡さんが小さく息を吐いて、足の向きを変え、わたしを振り返る。もう出立するなら、たった今わたしに貸してくれている羽織を返さなければならない。
わたしは立ち上がって、まだ温もりののこる冨岡さんの羽織を脱いだ。両手で軽く畳み、名残惜しさを振り払うように一歩踏み出し、差し出す。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
気にしないでください、と伝わるように少しだけ笑ってみせると、冨岡さんの目がわずかに見開かれた。視線をわたしの手にしている羽織へと落とし、再びわたしの顔へ戻ってくる。
「……。……ああ」
いつもよりも長い沈黙はわたしと同じ気持ちでいてくれてるんだろうか。そんなわずかな期待を抱かせる間はおかずに紡がれた、いつもと変わらない短い一言。
けれど、伸びてきた手が羽織を持っているわたしの指先に触れた。
その瞬間、世界から音が消えた。
風の音も、虫の声も、蝶屋敷の奥から聞こえていた喧騒も、なにもかもが遠い。目の前にある青い瞳に全部吸い込まれてしまったのかと思った。
音の消えた世界でわたしは、冨岡さんの瞳が揺れているのを見ていた。表情に出さない、言葉にもしない。けれど、この場を離れがたいとでも言いたげに、切なく甘く揺れていた。
冨岡さんは、すぐにわたしから視線を逸らせた。羽織を掴み取ると踵を返し、普段と変わらない迷いのない足取りで去っていく。
逢瀬なんて呼べる間柄じゃない。それでもたしかに温もりは残っていて、もしいつか本当に風が止んだら、と夢見ることを止められない。
きっとその日までわたしは、この短い時間を抱きしめながら刀を振るい続けるんだろう。