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昼過ぎに目を覚まして何か飲もうと台所で水屋箪笥を開けたら、湯呑みが一つもなかった。湯呑みどころか茶碗も丼も、見渡せば鍋もヤカンも見当たらない。
さらに明け方に任務から戻った時には寝息を立てていた彼女の姿も消えていて、家の中には自分と雨音の気配しかない。
とりあえず水を柄杓ですくって喉を潤してからどうしたことかと玄関へ向かい、彼女の紫色の洋傘までも姿を消していることに眉の間が寄っていく。けれどもう一つ消えていたのは普段の彼女の履物ではなく、二人暮らしには広すぎるこの敷地内を歩くための突っかけ。もしやと蛇の目を広げて併設している道場へと足を向けた。
開いていた戸から中を覗けば、床中に置かれた盥やバケツや花器の隙間に割烹着姿の彼女が四つん這いになっていた。湯呑みを置く場所を慎重に確かめながら。
「雨漏りか。ひどいな」
「あ、おはようございます。……そうなんです、今朝来てみたら水浸しで」
振り向いたその頭に巻いた手拭いからはみ出ている髪が汗で湿っていた。俺が寝ている間にこの広い床を一人で掃除していたようだ。
「後で見てみる。こういう時は起こしてくれ」
「いえ、大丈夫です。ちょうどそろそろ床拭きしたいなと思ってたので。それに頑張ったわたしにはちゃんとご褒美を用意してあります」
そう言うと割烹着の衣嚢から出した赤い缶の蓋を開け、半分ほどに減っている飴玉を一つつまんで口に入れた。
「今日は二つ食べていいことにしました」
ならば今日は味見も二回か、とその口元に唇を寄せるとされるのを待っていたくせに上気した頬は耳までさらに赤く染まっていった。
衿元をくつろげ手のひらで風を送る彼女の隣に座り天井を見上げる。屋根を叩く雨は今日も止まず、雨垂れに混じって時折隣から飴玉を転がし歯にあたる音が聞こえてくる。
「……れみ、み、れみ、み、れみそれ、ら」
不意に聞こえてきたまじないのような言葉の意味がわからず顔を覗き込んでいると、
「雨の音、音楽のように聞こえませんか」
そう言われ、ようやくそれが金盥の底を打つ音や水の溜まった器に落ちる雨滴が跳ねる音を指しているのだと気がついた。
「なんだか雨音の楽器みたい」
速さと高さの違う不規則で単調な音がいくつ重なってもとても何かを奏でているようには聞こえず、返す頷きは曖昧になる。けれどそれを特に気にする素振りも見せず、きれい、と呟き口を閉じた彼女にならって耳を澄ましているうちに段々と拍子のようなものを拾い上げはじめた。
──トン、タタタン、トトン、ピシャン、トン、タタタン、トトーン
「……まっくろけーのけ オーヤ まっくろけーのけー」
ああ、これはあれだな、と思っていたところに隣からまさにその拍子に合わせたまっくろけ節に、込み上げた笑いを噛み殺しきれず喉がおかしな音で鳴った。勢いよくこちらを振り向いた目はやけに嬉しそうだ。
「ね、ね、今そう聞こえましたよねっ」
「……そう、だな」
箱根山、と出だしから機嫌良く歌いなおすのを二番まで聞いてから腰を上げる。
本人は気づいていないが彼女はあまり歌が上手くない。これ以上いたら本当に堪えきれそうになかった。
「そろそろ昼飯にするか」
「はい、お腹空きましたね。お昼どうしましょうか」
後に続いて立ちあがり何気ない様子で辺りを見渡していたその目がみるみるうちに見開かれた。
「どうしましょうか本当に! お鍋全部使ってしまいました!」
口元を押さえると余っていた一番小さな湯呑みを手に取った。それと交換するつもりなんだろう、鍋を置いたところへ急ごうとする腕を掴んで引き止める。
「釜に飯があっただろう。あれで握り飯を作る。お前は海苔を切ってくれ」
その提案に何度か目を瞬かせると、離したばかりの俺の手を取り指を広げる。
「義勇さんが握ってくれるなら今日は大きなお握りが食べられますね」
それからその手のひらの中に自分の小さなこぶしを入れ、
「梅干しは大きいのを入れてくださいね」
ちゃっかりと好物の名を挙げて笑った。
母家へのわずかな距離を彼女を蛇の目に入れて戻りながら再び聞こえてきた三番に、今度は緩む口元をそのままにした。
……知らないんだろうな。今この屋敷で一番大きく鳴る音に。
雨音を歌に変えるように、たくさんのものを取りこぼしてしまう不甲斐ないこの手を温かいものに変えてくれる。
そんな彼女が奏でる世界で俺は今日も、心臓を高鳴らせている。