その日




 ――朝食はお部屋のテラスにお持ちいたしましょうか。

 チェックインのフロントでされたその提案に、隣にいる彼女と少し目を見合わせた。
 この高原は何度来てもこの季節が一番好きで、美しい景色の中で二人きりで食べるのはさぞかし気持ちがいいんだろうとかなり惹かれたけれど、結局当初から決めていた通りホテル敷地内にあるレストランのまま変えなかった。試食がうまかったそこの朝食バイキングは人気でいつか来たいと話していたし、起き上がる用事を作らないと特別な日にいつまでもベッドから出られない気がしたから。


 ◆


 翌朝、案の定離れがたくてパジャマ代わりの薄いベビードール――と言ったらこれはスリップだと訂正が入ったけれど俺にはいまだに違いがよくわからない――の上から引き寄せると、額を軽く叩かれた。

「ふふっ、……こら。そろそろ起きよう?」

 いつもの休日も旅行に行った時ですらもう少しとぐずる寝起きの悪い彼女にしては珍しく、するりと腕の中から抜け出していく。もう何度目かのスマホのアラームを止めて起き上がれば彼女によって開けられたカーテンの向こうの日差しの柔らかさとひんやりとした空気が伝わってくるようで、眩しさに目を細めた。
 先に洗面所を使って出てきた彼女はよく見れば化粧をしていなかった。『当日はノーメイクでお越し下さい』と言われたからだろうその顔を両手で包み持ち上げる。

「あんまりじっくり見ちゃだめ」
「今さらだろう」
「夜と朝じゃ気持ちが違うの。家じゃないし」
「でも綺麗だ」

 ありがとう、と心持ち赤くなった頬を隠すようにつばの広い帽子を深くかぶった彼女は、いつもよりもなんだか幼く見えた。


 客室はすべて本館とは別、木立に囲まれたヴィラだかコテージだかいう戸建ての建物から外に出ると、湿った土と緑の匂いに包まれた。レストランへと続く小径の両脇には夜露に濡れた小さな花が色鮮やかに咲いている。
 歩き始めてすぐ、白樺の隙間にこじんまりとした三角屋根の建物が見え隠れしていた。入り口の扉の真上に掲げられている大きな十字架を見てそっと親指を握ってきた彼女と手を繋ぎ、どちらからともなく息を吐き出す。

「ついに今日が来ちゃったね」
「来たな」
「良かったね、降らなそう」

 その建物から後で写真を撮る予定の四阿まで続く道に屋根はない。ここ数日降り続いていた雨は明後日までは続く予報だったが一昨日から少しずつずれ出し、夜中にはあがっていた。薄曇りにまで回復した今朝はすでに雲間に薄い水色がのぞいている。

「義勇くんて晴れ男なんじゃない?」
「どっちかというと雨が多い気がする」

 産まれた日は雪が降っていたらしいし、と続けると、じゃあ雪男だ、と笑う声が小鳥のさえずりに優しく重なっていった。


 バイキング形式の朝食は地場野菜や果物はもちろん近くの高原牧場の牛乳やバターを使ったパンも売りらしい。
 スモークサーモンのサラダ、チーズやオリーブの入ったちょっと名前がわからないビン、オムレツ、クロワッサン、温玉の乗ったそば粉のクレープ、もものジュース。
 席に戻りテーブルに皿を置くと、先に座って待っていた彼女が小さな笑いをこぼした。

「明日から毎日同じなのにね」

 つられて笑ってしまう。まったく同じ料理が量だけ変えて彼女の目の前に置かれていたから。
 それでもデザートだけは絞りきれなかったようだ。ひとつひとつは小さいとはいえ今そんなに食べて大丈夫かと思いつつバリスタが淹れてくれたカフェラテを飲んでから立ち上がった時、やはりというか彼女はワンピースの上から腹をそっと押さえた。

「……食べすぎちゃったかも。ウエストきつかったらどうしよう」
「それはない」

 今日のためにとさらにしぼった体はどこからどう見ても細い。少し散歩してから戻るか、と庭へと誘った俺を見てレストラン出口の店員が、いってらっしゃいませ、と微笑んだ。


 ◆


 部屋で丁寧に歯を磨いていると、インターフォンが鳴った。サービスだというドリンクが運ばれてきたようだった。

「すごい。至れり尽くせりだね」

 彼女によりテラスのテーブルへと運ばれたピッチャーには、レモンやキウイの入った水とオレンジジュース、それに焼き菓子。
 さすが食べないんだなと思いつつ隣へ腰掛けるとテーブルの上に置かれていた彼女のスマホが待ち構えていたかのようなタイミングで鳴った。

「おばさんか」
「えーっとね、……あ、蔦子ちゃん。もうすぐ着くって」

 向けられたスマホの画面には姉さんのアイコンが表示されていた。見ている間にも次々とメッセージが送られてくる。どうやら義兄さんの運転する車で父さんや母さんも一緒に向かっているらしい。
 実の弟ではなく親友の方に連絡してくるあたり、姉さんは俺のことをわかっている。目覚ましのアラームに使ったきりの自分のスマホはレストランにも持って行くことも忘れたままベッド脇のサイドボードの上に置きっぱなしだ。

「もうお前の姉さんでもあるな」
「でも蔦子ちゃんて呼ぶもん。ねぇ、やっぱりエントランスまで迎えにいこっか。せっかくこんなとこまで来てくれるんだし」
「今日は身内だけだからそんなに気にしなくていいと思う」
「身内だから余計にちゃんとしたいんだよ」

 素早くメッセージを返しスマホを置いた手がピッチャーへと伸ばされた。指先を彩る綺麗な爪が折れてしまいそうな気がして代わると、義勇くん優しいね、とグラスを手にしながら笑って丸くなった頬が白く眩しかった。
 必要ないと言ったのにエステにも通っていた彼女は綺麗で、とても綺麗で。
 けれど、一口飲んだ後の血色の良い唇からこぼれ出た小さな溜息が、水面を渡る風のように胸の奥にさざなみを立てていった。

『おめでとう。今が一番幸せな時だな』

 ……今が一番? 俺はずっと幸せだったしこれからもそのつもりだ。
 数ヶ月前、職場に報告した時の祝いの言葉のひとつにどこかでムキになってしまったのはずっとどこかで自分でも気にしていたからかもしれない。
 今が幸せの頂点なら、これからは下がる一方なのか?
 出会った頃の彼女が怯えていた通りに?


「……義勇くん? どうしたの?」

 それは俺の台詞だった。昨日、最後の打ち合わせで今日の段取りを聞いている途中で初めて見せたどこか不安気な表情。それが綺麗であればあるほど胸のどこかが波立った。

「なにかあるなら今のうちに言ってほしい」
「えー? なんにもないよ? ちょっと緊張はしてるかな」

 そう笑って装われれば思い出してしまう。あの頃の彼女自身が見ないふりをしていたその強がりを。
 朝食の好みが似てしまうほどの時を傍で重ねてきたのにこういうときに俺が誤魔化されてやるとでも思っているんだろうか。まるで逃げるように立ち上がり部屋の中へと戻るのを追いかけ、捕まえて両頬を軽くつねると、案の定怒るよりもむしろ困ったように眉が下がっていった。

「……いひゃい」
「気になるだろう」

 そのまま包んで覗き込み、揺れたのは彼女の瞳とそれから俺自身。もしかしたら今怯えているのは彼女よりも俺の方なのかもしれなかった。
 気持ちはあの頃と変わらない。愛おしさが深くなるばかりだ。それでも、いつかもし、彼女のことがわからなくなったら。言葉足らずの自分が不安にさせて小さなそれが重なりいつか取り返しのつかないくらいにずれてしまったら。

「気になる」

 腹に力を込めて繰り返した俺の声は、震えてはいなかっただろうか。


 ――なんだかお姫様みたいな子ねぇ。
 蔦子姉さんのクラスメイトの彼女が初めて家に来た日、そう評したのは母だ。何をもってそう言ったのかはわからない。物語の挿絵に出てきそうなくらい綺麗だったからかもしれないし差し出される好意を受け取り慣れていたからかもしれない。
「お姫様」という響きに俺は、当時流行っていたゲームに出てくるピンクのドレスの姫を思い浮かべた。巨大な亀の大魔王にさらわれヒゲとオーバーオールの配管工の兄弟にいつも救出されているあの姫だ。さらわれたら大変だと思った。だから目を逸らしてはだめだと思った。ちゃんと見ていたのに何度も他の男にさらわれてしまったけれど。
 でも見ていたから知っていた。彼女は確かにお姫様だった。月へ帰った姫のように言えない何かを飲み込んだような顔をしていた。ガラスの靴の姫のように近づこうとするとはぐらかしていた。

『わたしを愛して』

 真実を告げる魔法の鏡に怯え、茨の城に本心を隠した臆病な姫だった。本当は配管工と並んで戦えるのに。


 それでも一番か特別かはさておいても節目のひとつではある今日になにも思わないはずがなかった。すべて知りたいと思うのが傲慢でもすべて支えられるようなヒーローではなくてもさらけ出してほしかった。

「……あの、ね」
「うん」

 そうしてやればいつも安心して素顔をみせてくれるように頭を撫でると、彼女は唇を一度結んでから、意を決したように顔を上げ一息に言った。

「義勇くんのキス顔、他の人に見られるのいやだなぁって」

 せっかくわたしだけのものなのに。そう続けてふくれたやけにわがままな頬に咄嗟に返事ができない。無言のままの俺が話の続きを待っていると思ったのか、一度言ってしまえばつかえが取れたのか、彼女の口から次々と言葉が溢れ出す。

「みんなの前でキスするの、いやなの。わかってるんだよ、ちゃんとした儀式のひとつなんだって。でもね、なんか……もちろん恥ずかしいのもあるんだけどそうじゃなくて。だって義勇くん、ファーストキスもわたしが初めてって言ってたでしょ。なのに儀式とはいえなんでわざわざ誰かに見せなきゃならないの……、って、ねぇ、ちょっと」

 湧き出た笑いは一度口から飛び出るとなかなか止まらなかった。なにが『いつかずれてしまったら』だ。最初からこんなに噛み合ってないのに。お見通しだなんてとんだ思いあがりだ。

「……義勇くんが聞いてきたくせに笑わないでよ」
「幸せにする」

 気づけばこぼれ出ていた。少し下でにらむように細められていた彼女の目が驚いたように大きく見開かれた。

「ずっと前に永遠は誓えないって言ったこと、覚えてるか。取り消す。絶対に幸せにする」

 瞬きもしない瞳を覗き込むとみるみるうちに顔が歪んでいった。
 ……あ、泣く。
 そう思った時には腕の中から抜け出していた。こちらに背を向ける寸前、涙が膨らんでいくのが見えた。

「……どうしてそういうこと今言うの」
「まずかったか」
「まずいよ。ぜんぜんまずい。いま泣いたら顔腫れちゃうじゃない」

 目元をこするのではなく手で風を送って懸命に乾かす姿にそれでも謝るのは違う気がして、そうか、と言うと不満だったのか振り返って少し拗ねたように唇を尖らせる。

「それに、それじゃだめ。足りない」

 それからバッグの傍まで歩いていくと中からポーチを取り出した。小さく折り畳まれている紙を抜き取り戻ってきて、俺を真正面に見る。ゆっくりと開き差し出されたものに目を見張った。まだ持っていたとは思ってもいなかった。

「わたしはずっと幸せだしこれからもそのつもりだし、わたしも義勇くんを幸せにする。だから」

 それはまだ高校生の頃、掴まえておきたくて必死で申し込んだにも関わらず振られたことにどこかで安堵もした未熟な自分の証。それでも、そんな俺のことも大切にしてくれていた彼女が紡ぐ。

「100年先もわたしと一緒に幸せでいてください」

 ……ああ、本当に今日は特別だ。一番いい日かもしれない。
 これから先の見えない未来で彼女のことが理解できないときやしてもらえないときが何度も訪れるんだろう。だからこそ今日がある。荒波に飲み込まれそうになる度に、凪いだ日々に忘れそうになる度に、きっと思い出す。写真を残し、慣れない服を着て、見守ってくれていた大切な人達の前でその言葉を口にしたこと。
 交わした約束ごとその手を取る。
 裸の心を隠して怯えていたあの頃の女の子はもういない。でも形を変えてちゃんとここにあった。変わらないものを愛し変わっていくものを受け入れていく。この先のあらゆる選択肢で違うものを選んでもいい。同じ物語を語っていこうとするなら。愛されることをとっくに覚えた彼女との未来は、百年先もきっと素敵だ。

「誓う」

 今のこの思いもまた変わっていくのかもしれない。それすらも楽しみで仕方がなかった。


 ◆


「それでどうする。しなくてもいいか聞いてみるか」
「……変顔でキスして」
「…………本気か」

 そんなのしたことがない。試しに練習してみせるとけらけらと笑い転げるので途中でふさいでしまう。軽やかな声はすぐにくぐもった甘い吐息に変わった。
 とても人前では見せられないようなキスを交わしながらベッドに倒れ込むと我に返ったように押し返されようやく唇を離す。

「そ、んなにしたら、腫れちゃ……」

 結局また涙を滲ませた彼女をもう一度抱き締めると、今度邪魔をしてきたのは部屋に響き渡る内線電話の音。

 いや、邪魔と言っては差し支えがある。
 いつしか約束の時間が過ぎていたらしい。
 時間に律儀なコンシェルジュが、なにかの始まりを告げるように呼んでいる。

『ご新郎様、ご新婦様、そろそろご準備をお願いいたします』



 




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