もう一度お月見をしよう
「た、ただいまっ」
玄関のドアを開けたのは午後10時を過ぎていた。
靴を脱ぎ捨ててリビングに飛び込むと、ソファに座っている義勇が振り返る。わたしの勢いに驚いたのか、きょとんとした顔で瞬きをしていた。
「……慌ててどうした」
「だって今日、一緒にお月見するって言ったのに遅くなっちゃったから! ごめん!」
わたしがそれを思い出したのはつい一時間前だ。先月、ベランダで十五夜を見ながら交わした約束。
『来年も、その次も、ずっとお前と月を見たい』
『……わたしも。あと、今度の十三夜も。片方しか見ないのは片見月っていって縁起が悪いんだって』
義勇の温かい声と、そうねだった自分の声。
それなのにすっかり忘れて残業して、同僚が『今日は十三夜だってニュースで言ってた』と言わなければきっとまだ気づかなかった。帰り道に見上げた月は薄雲の向こうで綺麗に輝いていたのに。
「仕事なんだろう。大丈夫だ」
「そう……かもしれないけど……」
問題なのはわたしが約束を忘れていたことだ。
ごめんね、ともう一度言うと義勇は小さく息を吐いて立ち上がり、わたしの頭に手を置いた。撫でるでもなく、ただそっと置いただけ。
「心配しなくてもまだ月は出てる。晩飯の後で見ればいい。食べよう」
「……え、晩ごはん、食べてないの……?」
義勇はわたしに手を洗ってくるように促してキッチンに立った。覗き込むと、義勇が作ったお味噌汁とお惣菜のパック。
「……栗ごはんだ。珍しいね」
「栗名月だって言ってたから」
……言った。それも一ヶ月前にわたしが。『十三夜は栗名月とか豆名月って言うんだって』って。自分で言ったくせにそれも忘れてる。
「……うう、ありがとう。ちょっと泣きそう」
栗ごはんをレンジで温めてる義勇に後ろから抱きつくと、背中が揺れた。多分笑ってる。いつもみたいに目元を少しだけ柔らかくして。
「いい。……おかえり」
◇
「お月様、綺麗だねぇ……」
栗ごはんを半分こしてから、十五夜の時と同じように紅茶を淹れてベランダに出る。
今度はちゃんと厚着をして義勇の隣に立つと、ふっくらとした栗みたいな月はやや西に傾きつつもまだ高いところに浮かんでいた。
「バタバタしてごめんね。わたしから言い出したのに全部やってもらっちゃった」
「お前らしい」
「わぁ、それ、言っちゃう? ……でも、本当。なんかわたしって至らない。ちょっと欠けてるあの月みたい。なんて言ったら怒られちゃうか」
ふぅ、と小さく溜息をつくと、義勇がマグカップから口を離してこっちを見た。そして頬に月明かりを受けながらなにかを少し考えて、静かな声で言った。
「今夜はそういう月を愛でる日だろう」
「……え?」
「そう言ってた」
欠けた月、未完成の美しさ、侘び寂び。これから満ちていく月。
なにかで見聞きしたそんなことを話すのをじっと見上げていると、義勇の睫毛が少し揺れた。
「綺麗だ」
じわじわと耳朶が熱くなっていく。青い瞳に月が入り込んでいて、でも一心に映しているのはわたしだった。きゅっとした胸を押さえるように、マグカップを両手で包み込む。
「……ずるいなぁ。義勇はかっこよくて優しくて、約束を覚えてて栗ごはんまで用意してくれて、なんか今日はすごく完璧」
「そんなことない」
ちょっとだけすくめた肩を大きな手のひらが包み込んだ。頭のてっぺんに義勇がコツンと顔を寄せる。
「だが、お前にそう思われるのは悪くない」
それから、一拍置いて、
「両方見れて良かった」
ふわっと、紅茶よりも甘くて湯気よりもあったかい声が落ちてきた。
触れているところから伝わるものが胸の奥まで溶けてきて、そっと体を寄せる。
満ちてるところも欠けたところもどっちも愛おしい。
そう教えてくれる義勇と十五夜も十三夜も一緒に見ていられるわたしは、多分、今。
世界で一番満たされている。
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