お月見をしよう





 月明かりで白く光るベランダの床に、物干し竿の影がくっきりと残っていた。
 雲ひとつない夜空には、中秋の名月。
 俺は両手にしていたマグカップの紅茶が溢れないよう気をつけながら、外へと出た。
 
「あ、やっと来た。ありがとう」
 
 ベランダの手すりに掴まって夜空を見上げていた彼女が振り返り、嬉しそうに笑う。月の光がその頬を明るく染めていて、胸の奥が温かくゆるんだ。
 
「待たせた」
「お月様見てたから平気。いただきます。……あれ? もしかしてミルクティーに蜂蜜も入れてくれたの? すごい、こんなに凝ったものを義勇が作れるなんて感動した」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
 
 軽口に軽い溜息をつきながら隣に立つと、彼女は今度は肩を揺らして笑う。それから、また月を見上げた。
 マグカップを両手で持つ体が普段よりも小さい。この二週間ほどですっかり秋めいた最近では珍しく、半袖のTシャツ姿で少し縮こまっている。真夜中のベランダには夜風も吹き、気温は昼間よりもぐんと低い。
 
「寒くないか」
「ちょっとね。でも、あえてだからいいの」
「……あえて?」
 
 尋ねるも、意味ありげに目を細めただけで答えない。月光が浮かび上がらせている肩や袖から出ている腕を見ている間に、彼女は視線を空へと戻した。
 
「お月様、綺麗だね。すごく眩しい」
「そうだな」
「ねぇ、満月の夜って気持ちが昂って盛り上がっちゃうみたいだよ」
「そうなのか」
「うん。だからね、もし今わたしのこと口説きたいならチャンスだよ? 今なら何を言っても、『あ、義勇かっこいい……好き……』ってメロメロになるかも」
「さっきから人をからかってるお前がなるのか、メロメロに」
「なるなる」
 
 からかわれているのに不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 むしろ、その無邪気さにいつもほっとさせられる。静かな夜に軽やかな笑い声が響くだけで、柔らかくなる気がする。心が解けていく。
 ちょうど、紅茶に蜂蜜をひと匙入れたように。
 
「月よりもお前のほうが、綺麗だ」
 
 顔を覗き込むと、一拍置いて空気が止まった。
 彼女は月から俺にゆっくりと視線を移して、何度か瞬きをする。そして、ふっと息を吐き出しながら口元を大きくゆるめた。
 
「……わぁ、ロマンチック。義勇、かっこいい。わたしとってもメロメロになっちゃった!」
 
 声は弾み、言葉はやっぱり茶化すようで。
 けれど俺は、再びマグカップに口をつけようとする彼女の頬に手を伸ばした。顔にかかる髪を指先に引っ掛け、耳にかける。
 
「……赤くなってる」
「……な、なってない」
「なってる。月明かりでよくわかる」
 
 耳朶を撫でると彼女の肩が小さく跳ねた。あえて半袖を着ているという、彼女の肩が。……ああ、そういうことか。
 夜風に紅茶の香りが混ざり、甘く温かな空気が漂う。
 俺は彼女の手からマグカップを取り上げて自分のものとともに室外機の上に置くと、後ろから両腕を回した。
 
「っ、近いよ……ベランダとはいえ外だよ……」
「こうして欲しくて薄着でいたんじゃないのか」
「……こ、ここまでは……思ってなかったもん……」
 
 耳元で囁くと、かすれた声が夜に溶ける。
 俺は微かに笑いながら首元に顔を埋めた。
 
「来年も、その次も、ずっとお前と月を見たい」
 
 彼女の照れ隠しを溶かしたものは月明かりだっただろうか。やがて、腕の中で首まで真っ赤にした彼女が「……わたしも」と小さく頷く。俺は抱き締める腕に、そっと力を込めた。


 
 
 
 
 
 
 




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