笛を鳴らそう
「わたし、昔リコーダー舐められたことあるって話ってしたっけ」
週末泊まりに来た恋人の部屋でそう話しかけると、お風呂から上がってきたばかりの義勇は、
「してない」
と目を丸くして真正面に座り込んだ。
濡れた髪からぽたぽたと落ちている水滴に、タイミングを間違えちゃったなと思いながらも先を促すような視線に口を開く。
「放課後にね、忘れ物しちゃって教室に戻ったらその子がわたしのロッカーの前にいてね」
ぱっと背後に隠そうとして慌てたのかその手からすっぽ抜けた何かは教室の真ん中まで綺麗な弧を描いて飛んでいった。なにごとかと立ち止まったわたしを突き飛ばすようにして出て行ってからそれを拾いに行き、椅子の足にぶつかって止まっていたリコーダーの先端がしっかり濡れているのをオレンジ色の日差しが強調して怖気がたったのを覚えている。
「……それでどうしたんだ」
「どうもしないよ。先生には言ったんだけど、なんていうか、揉み消されちゃった」
生徒会長で頭も良くて友達も沢山いる人気者だった。対してわたしは全部が平均値。接点なんて一度委員会が同じになったことがあるだけだ。その子の言い訳によほど説得力があったのか他の理由か、先生が大して問題にしてなかったのは薄々わかった。落ちてたから拾っただけで舐めてないと本人は言ってるから、もうすぐ卒業だから、周りの生徒への影響もあるから、な。
ショックでうまく気持ちを話すこともできず頷くだけだった当時の自分を思い出していると、背中にまわった手に引き寄せられた。
「そうか」
抱き締めてくる腕は普段よりも力強いのに声音がいつも以上に小さいから少しだけ笑ってしまった。わたしと同じくらい不器用で言葉足らずな義勇が教師なんていう大変な仕事をよくやってるなと思う時もあるけど、義勇はこうしてわからなくても一生懸命に想像して寄り添おうとしてくれる。
「ね、別に大丈夫だよ、全然」
思い返せば恥ずかしさも情けなさも悔しさもあるけれどそれは全部幼い自分に対するもので、行為自体は正直もうどうでもいい。ついさっきまで忘れていたくらいだ。それでもあの頃にもこの人が傍に、せめて一人でもこんな先生がいたら良かったなぁと義勇の生徒達を羨ましく思った。
「……あのね、それで、お願いがあるんだけど」
「大丈夫だ。わかってる。そういうときは双方の話を聞くようにする。問い詰めずに」
「うん、うん、そうだね、そうして。でもそうじゃなくて、……それなんだけど」
押し返して腕から抜け出し、指さしたのは、畳に置かれている通勤リュック、――正確に言えばその上に乗っている黄色いホイッスルだ。普段学校で着ているという水色のジャージと一緒にもちかえってきてしまったそうだ。ちなみにジャージは洗濯機の上。
「それ、学校で使ってるの?」
「使ってる」
「吹く?」
「笛だからな」
ですよね、と一度唾を呑み込み、本題に入る。
「吹いてみても、いい?」
「……なんで?」
なんで。そんなのそこに笛があるからとしか言えない。家具の少ない部屋に突然黄色、それも蛍光イエローのホイッスルは目立ってしょうがないからとしか。でも訝しげな顔に、絶対に言うのは今じゃなかったしそもそもする必要のない話をしてしまったと悟った。
「わかってる! なんでこんな話をした後に言うんだって感じだよね!」
ごめんね! きもいよね! を三回ほど繰り返しようやく「きもくはないが」と言いながらも戸惑いの消えない義勇にさらに説明を追加する。
「あのね、ちがうの! さっき普通に吹いちゃおうかなと思ったんだけど、義勇がお風呂でいない隙にそんなことするのってこそこそしてるみたいで嫌だなと思って、そしたら思い出しちゃったの! それにほら義勇はわたしが納豆食べるとキス嫌がるじゃない? だから口に咥えるものを他人に使われるのも嫌かなぁと思って一応確認を!」
「他人じゃないだろう」
早口で捲し立てていると左頬が包まれた。お風呂上がりのせいかその手のひらはやけに熱い。首をかしげ軽く触れるだけのキスをしてきた義勇は、より深くなる寸前の熱を帯びた青い瞳で覗き込んでくる。
「それにそんなのは今更だ」
「あ、今そういうのいいから」
どうして今更なのかを教えてこようとするのをすんでのところで手を差し込み防ぐと、義勇はその指先にむにっと形の良い唇を押し付けたまま固まってしまった。けれど数秒後には小さな溜息を吐きながらも立ち上がる。
「……ほら」
手渡してきた黄色のホイッスルにはくわえる部分に少し傷がついていた。噛んでいる跡だ。なんだろうこの緊張感は。今そこにいる本人よりもなぜか生々しく、なんというか……非常にけしからん代物だ。
「あまり強く鳴らすな。隣に聞こえる」
「うん。じゃあ、すみませんが、いただきます」
いただきますってなんだ、と少し笑った義勇を横目に持ち直し口を近づける。そうかここは壁が薄いんだっけ、といつものように気をつけながらほんの少しだけ息を吸い込んだ。
週末泊まりに来た恋人の部屋でそう話しかけると、お風呂から上がってきたばかりの義勇は、
「してない」
と目を丸くして真正面に座り込んだ。
濡れた髪からぽたぽたと落ちている水滴に、タイミングを間違えちゃったなと思いながらも先を促すような視線に口を開く。
「放課後にね、忘れ物しちゃって教室に戻ったらその子がわたしのロッカーの前にいてね」
ぱっと背後に隠そうとして慌てたのかその手からすっぽ抜けた何かは教室の真ん中まで綺麗な弧を描いて飛んでいった。なにごとかと立ち止まったわたしを突き飛ばすようにして出て行ってからそれを拾いに行き、椅子の足にぶつかって止まっていたリコーダーの先端がしっかり濡れているのをオレンジ色の日差しが強調して怖気がたったのを覚えている。
「……それでどうしたんだ」
「どうもしないよ。先生には言ったんだけど、なんていうか、揉み消されちゃった」
生徒会長で頭も良くて友達も沢山いる人気者だった。対してわたしは全部が平均値。接点なんて一度委員会が同じになったことがあるだけだ。その子の言い訳によほど説得力があったのか他の理由か、先生が大して問題にしてなかったのは薄々わかった。落ちてたから拾っただけで舐めてないと本人は言ってるから、もうすぐ卒業だから、周りの生徒への影響もあるから、な。
ショックでうまく気持ちを話すこともできず頷くだけだった当時の自分を思い出していると、背中にまわった手に引き寄せられた。
「そうか」
抱き締めてくる腕は普段よりも力強いのに声音がいつも以上に小さいから少しだけ笑ってしまった。わたしと同じくらい不器用で言葉足らずな義勇が教師なんていう大変な仕事をよくやってるなと思う時もあるけど、義勇はこうしてわからなくても一生懸命に想像して寄り添おうとしてくれる。
「ね、別に大丈夫だよ、全然」
思い返せば恥ずかしさも情けなさも悔しさもあるけれどそれは全部幼い自分に対するもので、行為自体は正直もうどうでもいい。ついさっきまで忘れていたくらいだ。それでもあの頃にもこの人が傍に、せめて一人でもこんな先生がいたら良かったなぁと義勇の生徒達を羨ましく思った。
「……あのね、それで、お願いがあるんだけど」
「大丈夫だ。わかってる。そういうときは双方の話を聞くようにする。問い詰めずに」
「うん、うん、そうだね、そうして。でもそうじゃなくて、……それなんだけど」
押し返して腕から抜け出し、指さしたのは、畳に置かれている通勤リュック、――正確に言えばその上に乗っている黄色いホイッスルだ。普段学校で着ているという水色のジャージと一緒にもちかえってきてしまったそうだ。ちなみにジャージは洗濯機の上。
「それ、学校で使ってるの?」
「使ってる」
「吹く?」
「笛だからな」
ですよね、と一度唾を呑み込み、本題に入る。
「吹いてみても、いい?」
「……なんで?」
なんで。そんなのそこに笛があるからとしか言えない。家具の少ない部屋に突然黄色、それも蛍光イエローのホイッスルは目立ってしょうがないからとしか。でも訝しげな顔に、絶対に言うのは今じゃなかったしそもそもする必要のない話をしてしまったと悟った。
「わかってる! なんでこんな話をした後に言うんだって感じだよね!」
ごめんね! きもいよね! を三回ほど繰り返しようやく「きもくはないが」と言いながらも戸惑いの消えない義勇にさらに説明を追加する。
「あのね、ちがうの! さっき普通に吹いちゃおうかなと思ったんだけど、義勇がお風呂でいない隙にそんなことするのってこそこそしてるみたいで嫌だなと思って、そしたら思い出しちゃったの! それにほら義勇はわたしが納豆食べるとキス嫌がるじゃない? だから口に咥えるものを他人に使われるのも嫌かなぁと思って一応確認を!」
「他人じゃないだろう」
早口で捲し立てていると左頬が包まれた。お風呂上がりのせいかその手のひらはやけに熱い。首をかしげ軽く触れるだけのキスをしてきた義勇は、より深くなる寸前の熱を帯びた青い瞳で覗き込んでくる。
「それにそんなのは今更だ」
「あ、今そういうのいいから」
どうして今更なのかを教えてこようとするのをすんでのところで手を差し込み防ぐと、義勇はその指先にむにっと形の良い唇を押し付けたまま固まってしまった。けれど数秒後には小さな溜息を吐きながらも立ち上がる。
「……ほら」
手渡してきた黄色のホイッスルにはくわえる部分に少し傷がついていた。噛んでいる跡だ。なんだろうこの緊張感は。今そこにいる本人よりもなぜか生々しく、なんというか……非常にけしからん代物だ。
「あまり強く鳴らすな。隣に聞こえる」
「うん。じゃあ、すみませんが、いただきます」
いただきますってなんだ、と少し笑った義勇を横目に持ち直し口を近づける。そうかここは壁が薄いんだっけ、といつものように気をつけながらほんの少しだけ息を吸い込んだ。