鉢尾

 世界が終わるかもしれない朝だった。
 カーテンの隙間から零れ出る光の雫の中には、夏の残骸がつぶだっている。熱気が隙間風からあふれていた。冷房をつけっぱなしで寝ていたせいで、喉がカラカラだ。
 隣に寝る男の肩をなぞる。めずらしく、素顔。メイクの乗っていない、ウィッグも被っていない、素顔のかたち。本当は俺より早く目覚めて、いつもの彼の形式に戻りたかっただろうに。お寝坊さんなのは、昨日励みすぎたからだろう。先に起きてしまえるほどに俺に体力があるのがいけない。腰が怠い。
 深い眠りだった。睦みあった後というのは大概そうで、沼に足を掬われるように、深い眠りに襲われる。シャワーも浴びずに寝てしまった。彼を起こさないよう静かにベッドから出ようとして、いや、一緒にシャワーを浴びるべきだと、再び彼の肩をなぞった。
「三郎。世界最後の朝だよ」
「ん、そんな時間か……」
 ゆっくり起き上がり、大きな欠伸をひとつした三郎は、乱暴に俺の頭を撫でた。
「世界の終わりって何? 隕石でもふるのか?」
 やわらかな声で——彼の喉もやはり冷房でやられていそうだった——俺に問いながら、三郎は俺と一緒にシャワールームへ向かった。蛇口を捻るといったん水が出てくるので、シャワーヘッドを壁に向ける。
「ううん。平穏な、ただの日曜だよ」
「じゃあ、どうして?」
「今日、死んじゃえたら素敵だなあって。なんとなく」
 どしゃぶりのお湯のなか、むすりとした顔をした三郎が覆いかぶさってきた。滅多に見ることのできない彼の黒髪を撫でる。
「言っとくけど、俺べつに鬱とかじゃないよ」
「知ってるさ。それに、人間だれしもにそんな朝があることも知っている」
 満たされないだとか、満たされすぎてだとか、からっぽだからだとか、理由は様々だけれども。死にたい夜があるように、死にたくなる朝だってくる。けれどそれは決して悲観的なものばかりではない。それを三郎は知っている。
 俺たちの心には、深い傷がある。生まれつき。
 どうやって自分が死んだのかの記憶を持っている。前世の。
 消えない痣のように、それはずっと、心の片隅に置いてある。取繕う必要もないと思っている。ただ時折、それが毒になってしまい、我々の身体を蝕むのだ。
 そんな時は、ベッドの上でお互いの身体を貪り合うように吸い尽くして、ようやっと俺たちは眠ることができる。自分が生きていることを肯定して貰えないと、息が出来ない。
 そうして深く息継ぎをして、ああよく眠ったと起き上がり、ふと、ああ今なら死んじゃえるなあ、と思うのである。
「朝陽が眩しすぎるせいだよ」
「すべてのはじまりな気がして、だから、踏み出してしまいたくなるんだよな……」
 三郎は、すみからすみまで丁寧に、俺の身体を洗ってくれた。宝物を慈しむように。父親みたいだと茶化そうとして、泣きそうになってしまった。俺はずっとこうされたかったんだ。
 愛されたくて仕方がない獣なのだ。
「人間みんなそうだ」
 今度は三郎の背中を流してやる。三郎は足の裏を触られるのを嫌がるので、そこだけは自分で洗ってもらった。彼の耳の先にキスをする。
 シャワーで全てを洗い流し、風呂から出れば、三郎の素顔とはもうお別れだ。次に素顔に会えるのはいつだろう。彼にとっては雷蔵の顔でいることが当たり前のことなので、当たり前の顔だってもちろん愛している。
 トーストを二枚焼く。バターの用意をする。心中するか持ち掛けたくなる。三郎はアイラインを引いている最中だ。俺は口を噤んで、窓の外を見る。
 快晴だ。地方では土砂災害が発生していて、洪水や浸水の被害が出ているらしいのに。世界ってどうして、こう、不均等なのだろう。不平等というより、不均等。
「なあ、勘右衛門」
「なあに、ダーリン」
「愛している」
 知ってるよ、と返そうとして、涙が一粒おちた。トーストが焼ける音でごまかせただろうか。
 世界の終りの朝ごはん。きっとおいしいに違いないんだ。
「俺だって愛してるよ」
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