鉢尾
三郎の家に行くと、とりあえずでコーヒーが出てくる。おしゃれぶっているのかと思うのだが、本人的には「とりあえず」で出すものという価値観らしい。我が家なら麦茶のポジションだ。
「他にとりあえずのものってある?」
「毎朝の雷蔵に似せるためのメイク」
「とりあえずで他人になるなよ」
俺は台所から勝手にはちみつを拝借して、コーヒーの入ったグラスににょろりと垂らした。砂糖を混ぜるより、この方がなんだかリッチな気分になれるのだ。
「人の家でリッチな気分になるな」
「でもこれ、最初にやってくれたの三郎じゃん」
「そうだったか?」
俺がはじめて三郎の家に来た時に、特別な、と言って出してくれたのだ。そうだ、あのときは「とりあえず」ではなく、「とくべつ」だった。それが嬉しくてずっと、俺は三郎の家でのはちみつ入りコーヒーを楽しみにしているのに。
「勘右衛門は? とりあえずのもの」
「んー。ぜんぶ」
「適当だなあ」
「朝はさあ、とりあえず起きて、とりあえず歯磨いて顔洗って朝食食べて。昼はとりあえず大学行って講義受けて、とりあえずレポート書いて。夜はとりあえずバイトするじゃん。ぜんぶ、とりあえず」
「そんなこと言い出したらキリがない」
夏まっただなかの世の中で、冷房をきかせはじめたこの部屋の中はサンクチュアリだ。手に持った冷たいグラス、甘味がとろりと喉をとおり、身体から火照りが抜けていく。
三郎はうなじにかいた汗をタオルで拭いていた。その仕草が妙に色っぽくてドキっとしてしまう。襟足のなかのほう、手首より色が薄い。少しだけ日焼けしているんだ。黄色の薄手のシャツをばさばさと仰ぎながら、三郎は俺の目線に気付く。
「なーに見てんだ」
「とりあえず……」
「嘘つけ。えっち」
暑さで茹った頭で、いい返しが思いつかずに黙ってしまった。このままだと俺がむっつりだと思われてしまう。とりあえずコーヒーを飲む。とりあえず。
「……三郎さあ」
「なんだ」
「愛してるよ」
「とりあえずで言うな」
「ばれた?」
付き合っていたら、愛しているという言葉も「とくべつ」から「とりあえず」になっていくのかもしれない。冷房の風を浴びながら、汗が冷えていくのを感じて身震いをする。
「地球も、夏だからとりあえず暑くなっているのだとしたら解せない。ちゃんと必要に駆られて暑くなっていてほしい」
三郎がとんちんかんなことを言うので、俺はメイク崩れを指摘してやった。見事なまでに雷蔵に似せてるメイクは、ちょっとしたバランスの崩れでだいぶちぐはぐな印象になってしまう。
「夏は雷蔵も溶けるさ」
適当な返事をされ、まあそれもそうかと頷いた。いつか、俺たちはおしなべて溶けてしまうんだ。そうしたら、誰かが上からはちみつをかけてくれるだろうか。とろりと甘くなって消えてしまいたい。
「勘右衛門」
「なんだ」
「愛してる」
「とりあえず?」
「特別だ」
口の中が甘くて苦くて、肌は火照ってるのに表面は冷たくなってて、雷蔵のメイクが溶けた三郎。すべてがちぐはぐなサンクチュアリで、俺たちはとろりと笑い合う。愛していると伝えるのに、緊張やきまずさがなくなったのはいつからだろう。去年の今頃にはもうそうなっていたっけ。暑くて思い出せない。
「冬になったら、勘右衛門の家でココアが飲みたい」
「どうして?」
「勘右衛門はココアにマシュマロを入れてくれるだろう。特別に」
「とりあえずかもよ?」
くすくすと笑いながら、俺はソファの三郎の隣に腰を下ろした。ふかりと腰が沈み、三郎の身体が少しだけ揺れた。
「蝉って暑すぎると鳴かないよな」
「蚊も暑すぎると死ぬよ」
「私たちはいつまで生きているんだろう」
「溶けちゃう前にさ、愛し合おうよ」
唇は、コーヒーに落とした氷のおかげで、お互いに冷たかった。これからまぐわうのに、はじまりが冷たいキスだなんてへんなの。こんなに暑い日は、なにもかもがちぐはぐだ。
「愛してるよ。特別に」
「とりあえずだっていいよ。とりあえずになるほど、当たり前の日常ってことだろう」
「そうかもしれない」
おてんとうさまに見られないようにカーテンを閉めたかったのに、間に合わなかった。冷たい部屋で熱を生み出す作業。なんてへんてこな生き物、人間。
「他にとりあえずのものってある?」
「毎朝の雷蔵に似せるためのメイク」
「とりあえずで他人になるなよ」
俺は台所から勝手にはちみつを拝借して、コーヒーの入ったグラスににょろりと垂らした。砂糖を混ぜるより、この方がなんだかリッチな気分になれるのだ。
「人の家でリッチな気分になるな」
「でもこれ、最初にやってくれたの三郎じゃん」
「そうだったか?」
俺がはじめて三郎の家に来た時に、特別な、と言って出してくれたのだ。そうだ、あのときは「とりあえず」ではなく、「とくべつ」だった。それが嬉しくてずっと、俺は三郎の家でのはちみつ入りコーヒーを楽しみにしているのに。
「勘右衛門は? とりあえずのもの」
「んー。ぜんぶ」
「適当だなあ」
「朝はさあ、とりあえず起きて、とりあえず歯磨いて顔洗って朝食食べて。昼はとりあえず大学行って講義受けて、とりあえずレポート書いて。夜はとりあえずバイトするじゃん。ぜんぶ、とりあえず」
「そんなこと言い出したらキリがない」
夏まっただなかの世の中で、冷房をきかせはじめたこの部屋の中はサンクチュアリだ。手に持った冷たいグラス、甘味がとろりと喉をとおり、身体から火照りが抜けていく。
三郎はうなじにかいた汗をタオルで拭いていた。その仕草が妙に色っぽくてドキっとしてしまう。襟足のなかのほう、手首より色が薄い。少しだけ日焼けしているんだ。黄色の薄手のシャツをばさばさと仰ぎながら、三郎は俺の目線に気付く。
「なーに見てんだ」
「とりあえず……」
「嘘つけ。えっち」
暑さで茹った頭で、いい返しが思いつかずに黙ってしまった。このままだと俺がむっつりだと思われてしまう。とりあえずコーヒーを飲む。とりあえず。
「……三郎さあ」
「なんだ」
「愛してるよ」
「とりあえずで言うな」
「ばれた?」
付き合っていたら、愛しているという言葉も「とくべつ」から「とりあえず」になっていくのかもしれない。冷房の風を浴びながら、汗が冷えていくのを感じて身震いをする。
「地球も、夏だからとりあえず暑くなっているのだとしたら解せない。ちゃんと必要に駆られて暑くなっていてほしい」
三郎がとんちんかんなことを言うので、俺はメイク崩れを指摘してやった。見事なまでに雷蔵に似せてるメイクは、ちょっとしたバランスの崩れでだいぶちぐはぐな印象になってしまう。
「夏は雷蔵も溶けるさ」
適当な返事をされ、まあそれもそうかと頷いた。いつか、俺たちはおしなべて溶けてしまうんだ。そうしたら、誰かが上からはちみつをかけてくれるだろうか。とろりと甘くなって消えてしまいたい。
「勘右衛門」
「なんだ」
「愛してる」
「とりあえず?」
「特別だ」
口の中が甘くて苦くて、肌は火照ってるのに表面は冷たくなってて、雷蔵のメイクが溶けた三郎。すべてがちぐはぐなサンクチュアリで、俺たちはとろりと笑い合う。愛していると伝えるのに、緊張やきまずさがなくなったのはいつからだろう。去年の今頃にはもうそうなっていたっけ。暑くて思い出せない。
「冬になったら、勘右衛門の家でココアが飲みたい」
「どうして?」
「勘右衛門はココアにマシュマロを入れてくれるだろう。特別に」
「とりあえずかもよ?」
くすくすと笑いながら、俺はソファの三郎の隣に腰を下ろした。ふかりと腰が沈み、三郎の身体が少しだけ揺れた。
「蝉って暑すぎると鳴かないよな」
「蚊も暑すぎると死ぬよ」
「私たちはいつまで生きているんだろう」
「溶けちゃう前にさ、愛し合おうよ」
唇は、コーヒーに落とした氷のおかげで、お互いに冷たかった。これからまぐわうのに、はじまりが冷たいキスだなんてへんなの。こんなに暑い日は、なにもかもがちぐはぐだ。
「愛してるよ。特別に」
「とりあえずだっていいよ。とりあえずになるほど、当たり前の日常ってことだろう」
「そうかもしれない」
おてんとうさまに見られないようにカーテンを閉めたかったのに、間に合わなかった。冷たい部屋で熱を生み出す作業。なんてへんてこな生き物、人間。
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