鉢尾

「保湿ティッシュが甘いことくらい、お前も知っているだろう」
 さも当たり前のように言うものだから、私はびっくりして勘右衛門を見た。そんな常識は知らない。
「うっかり口に入ってしまったことはない?」
「記憶の限り、ないな。鼻をかむためのものを、どうして舐める必要があるんだ」
「だから、うっかり。うっかりだよ」
 免罪符の様にそう唱える勘右衛門は、ティッシュを一枚箱から引き抜き、思いっきり鼻をかんだ。彼の鼻の頭は赤くなっていた。
「鉢屋の家のティッシュは、おいしくない」
「おいしくてたまるか。そこまで貧乏じゃない」
 にひひ、と笑い、勘右衛門は丸めたティッシュを放る。それは綺麗な放射線を描き、見事にゴミ箱の中へ吸い込まれて行った。
「ナイッシュー」
 万物には、重力がある。それにささやかな抵抗をするのが、生き物というものだ。ダンスをしたり、テニスをしたり。足を上に伸ばして、ボールを上に弾いて。全て、いずれは下に落ちるのに。
「鉢屋、なに笑ってんの?」
「勘右衛門はいつも、上を向いているな、と思って」
 快活な彼は、下を向かない。それがどれほど私にとって、救いになっているかわからない。未来を語る時、夢を見る時、彼は空を仰いで笑う。
「だって、楽しいことって、上から降ってくるじゃん」
 それもまた、重力のなせるわざだろうか。勘右衛門は、その降ってくる楽しいことを、ひとつ残らず見つめていたいのだろう。そして時にはキャッチして、私に投げるのだ。ゴミ箱にティッシュを放るように。
「鉢屋は、よく影を見ている。歩いている時に」
「……雷蔵に、どこまで寄せられているか、気になるんだ。影がそっくりならば、成功だろう?」
「あのね、だから、鉢屋は、零れていった楽しいことを、掬い上げられるんだよ。人が見逃してしまった楽しいことに、気付けるんだ」
 天を見る彼と、地を見る私が、それぞれに見つけるもの。角度を変えて光にあてれば、同じように輝くだろうか。
「保湿ティッシュが甘いことに気付くのが俺。その話を聞いて笑ったくせに、あとで複数の保湿ティッシュを買って、味を比べて研究しだすのが鉢屋」
「私にどんなイメージを持っているんだ」
 ティッシュはティッシュだ。食材ではない。そう言うと勘右衛門は、またにひひと笑って、ティッシュを一枚引き抜く。
「ハウスダストかなあ。掃除した?」
「お前が急に遊びに来ると言うから、急いで掃除したんじゃないか」
「そいつぁ失敬。嬉しいな」
 鼻を赤くして笑う彼のために、次は保湿ティッシュを買ってやろうと、つい考えてしまう。そうして私は、こっそり舐めるのだろう。甘さを確認して、ひとりで笑って、ゴミ箱に放るのだ。
 重力が、私たちを地球に引き留める。綺麗な放射線は、いずれ下を向く。私は、掬い上げられるだろうか。影に隠れた、楽しいことの欠片たちを。
「鉢屋が下を向いている時に見えるまつ毛、俺だいすきだよ」
 お前が上を向いている時の鼻筋を、私が好いていることは、いつ言ってやろう。勘右衛門の真っ赤な鼻が、ずび、と音を立てた。
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