鉢尾

 今この場にいることって、もしかして地球上で、重大なことなのかもしれない。
「ねえ、海に行きたい」
 そうやって甘えると、鉢屋はすぐにスマホで近場の海を検索する。俺が気まぐれに言っているだけなこともわかっている上で。
「電車? レンタカー?」
「初心者二人で車は怖くない?」
「でも、挑戦って、人生において必要だから」
 ソファに寝転がっていた俺は上半身を起こし、もたれかかっていた鉢屋の肩にあごを乗せた。
「なあ、心ってどこにあると思う?」
「胸じゃなくて?」
「それは心臓。こころの話」
 鉢屋のスマホには、江の島が映っている。江の島なら確かに、気軽に遊びに行ける距離だ。
 すっかり冷めてしまったカフェオレ――インスタントのコーヒーに、牛乳をまぜただけのものでも、俺たちはカフェオレと呼ぶ。それだけで立派な飲み物に思えるから――が入っているマグカップを、鉢屋はご丁寧に、俺の分まで取ってくれた。スリーコインズで買ったにしては、ちょっとだけおしゃれに見えるやつ。
「俺は、手のひらにあると思うよ」
 手のひらで、マグカップをつつむ。こうして、「受け取る」ことができる。「支える」ことができる。それって、それだけで、充分に「愛」だ。
 鉢屋が俺のあたまに手を置いた。撫でるでもなく掴むでもなく、わしわしと髪を揉まれ、けれどそれはとても気持ちよかった。
「どうして急に?」
「家に帰る時さ、鍵を手に取るだろ。ああ、二人の家に帰って来たんだなって、毎回しみじみするんだ。俺だけ?」
「わかるよ」
 鉢屋は笑った。返答の早さに、まばたきを返した。
「わかるよ。ただいまって、アイラブユーだよな」
「……ラブだね」
「ラブだよ」
 地球をぐるりと取り囲む、古今東西、すべての愛よ。いつでもただいまが、言えますように。
 いや、もしかして、地球に居るという時点で、それって「ただいま」なのではないか? それならいつでも、愛に包まれているわけだ。
「帰る家があるって、肯定されてるって意味だからな」
「……いろんなこと思っちゃった」
「勘右衛門は、優しすぎ」
 頭をわしわしと揉むのをやめた鉢屋が、俺の頬をつついた。やめろ、最近太ったんだから。
「海には、いつ行く?」
「明日にでも」
「オーケー」
 思い立ったが吉日なんだ、こういうのは。それで、海に向かって「ただいま」と言おう。鉢屋は立ち上がって、キッチンに立つ。ケトルに水を入れ、振り返った。
「カフェオレ、冷めちゃっただろう。もう一杯いかが」
「その手で淹れてくれるなら、なんだっていいよ」
 海にも、カフェオレを持って行こう。魔法瓶の水筒に入れて。くしゃみをひとつしてから、俺は冷えたマグカップを二つ、シンクに持って行った。スリーコインズで買ったマグカップは、まだあと二つある。
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