鉢尾

 世界五分前仮説、というものがある。この世界は、記憶も込みの状態で、全て五分前に生まれた、という仮説だ。
「これをロマンティックと考えるか、恐ろしいと考えるかなんだけど」
「ロマンティックか?」
 鉢屋はレジュメをファイリングしながら、片手間に俺の話を聞いていた。俺はこんなにも真剣に話しているというのに。
「だって、すごくない? 建造物とか科学とかも全部今の状態で、突然スタートしたっていうのが」
 食堂のうどんは低価格なのにおいしい。学生の味方だ。食堂と言えば、高校の頃はフライドポテトが名物だった。揚げたてになるかどうか、タイミングを見計らって買いに走った。雨の日なんかは受け取りカウンターに行列が出来てたっけ。
「鉢屋はどう思う? 世界五分前仮説」
 ファイルをカバンに仕舞いながら逡巡する鉢屋を見つつ、俺は汁を啜る。しょっぱい。このしょっぱさも、五分前から決まっていたしょっぱさなのかもしれない。
 世界五分前仮説について聞いた時、俺は、毛糸のマフラーを思った。ああいうのは、指南書と照らし合わせながら、えっちらおっちら一から編みはじめて段を重ねていくのが醍醐味だというのに、ある程度編み上げた途中でハイと放り投げられたら、きっとつまらない。一からの積み上げが楽しいのだ。四苦八苦しながら挑戦していって、うまくなっていくのが楽しいのだ。なのに、他人の編み途中を与えられてしまっても、なんの楽しさも味わえない。
 だから、もったいないな、と思った。せっかく楽しい瞬間を築き上げられたはずの過去を、奪われてしまったような感覚。でも、それ込みで、「すごい」とも思った。そういう瞬間を、すでにあったものとして共通の記憶を摺り込まれているだなんて。
「……私は」
 鉢屋は少し冷めたオムライスにスプーンを刺し、言い淀んだ。俺はもう食べ終わってしまったから手持無沙汰で、彼の手元を見るほかない。ケチャップがどろりとかかっている卵。
「私は、寂しいなと感じる」
「寂しい?」
 オムライスを口に運んで少し咀嚼し、うん、と頷く鉢屋。すっぱい、しょっぱい、少し甘い、ケチャップの香りが鼻に届く。食堂の喧騒は忙しなくて、みんなの雑談が寄せては引いていく波のようだった。
「体験するはずだった喜びや悲しみが、体験出来ていないんだろ。どうせなら、自分で経験したかった」
「でも、記憶としては体験していることになっているんだよ」
「そうだな。この仮説って、本当だとしたら、誰か気付くことってあるのだろうか」
「……確かに」
 世界が本当に五分前に作られていたとして、俺たちはそれに気づくことが出来るのだろうか。わかりっこない、だってすべての記憶はあるのだから。
「……神様って、いじわるだな」
「ああ。悪趣味だ」
 オムライスを食べ終えた鉢屋が、さりげなく俺の分の皿まで返却口に持って行ってくれた。かっこつけられたので、あとで俺もかっこつけ返さないといけない。
 編み途中のマフラー、オムライスになる予定の卵。すっぱくて甘いケチャップ、しょっぱいうどんの汁。五分前からそこにある姿。俺たちの、かけがえのない記憶たち。
 誰にも操られたくはない。たとえ神様相手でも。
「これからも、たくさん思い出つくっていこうな」
「どうした急に」
「だって、もし過去が偽りなのだとしたら、これから未来を作り上げていくほかないじゃん」
「……きみのそういうところ、好きだよ」
 鉢屋が少し微笑んで、俺はその笑顔を好きだと思って、喧騒の中、それだけが真実だった。たとえ世界が五分前につくられたのだとしても、今この瞬間の真実だけは、絶対に揺るがない。
 このあとも講義は続くし、サークルもバイトもある。隙間時間を縫って、鉢屋と会話をする。マフラーを一段ずつ編んでいくように。
 五分というマヤカシになんか、負けてなるものか。机の下で、そっと鉢屋の足を蹴った。
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