鉢尾

 たぶん、あれを信じたほうがよかったのだと思う。「触れるな」という走り書き。
 講義終わり、私はトイレに駆け込む。腹を壊したのではない。えずくためだ。さらに言うと、体調を壊したのでもない。
 花を、吐くようになったのだ。

「なあ、今日もだめなのか?」
 八左ヱ門が大きな声を出したせいで、なんだなんだとみんなが集まってきてしまった。
「どうした?」
「三郎が、近頃全然遊んでくれないんだよ」
「ああそれ、僕もだよ」
「雷蔵も?」
 雷蔵は、うん、と頷いて、意味ありげに私に目配せをした。ちゃんと説明をしろ、と言っているのが視線でわかった。けれど、一体何と説明すればいいのだろうか。花を吐くようになっただなんて。
「なになに、なんの集まり?」
 勘右衛門も寄ってきたところで、私は席を立つ。兵助に睨まれるが仕方がない。皆の前で吐きたくない。
 どうしてこんな体質になってしまったのか。二週間前からこの症状は出るようになった。
 「触れるな」という走り書きのあるメモが、ひらりと足元に落ちてきたのだ。次いで、風に舞った花びらが。その鮮やかな黄色を捕まえたのが、きっといけなかったのだ。「触れるな」、すなわち、「触れたら、お前も花を吐くようになるぞ」。とんだ呪いだ。
 腹の奥が熱くなって、胃から食道へ、異物感がせり上がってくる。口内いっぱいにブワッと花が広がって、その息苦しさに涙が出る。
 トイレに赤青黄色の花びらを吐瀉し流すと、頭がくらくらする。以前より、吐く頻度が増えている気がする。
 このままではいけない。けれど、治療法がわからない。
 分かることと言えば、ひとつだけ。
 勘右衛門のことを考えたり、見たりすると、この症状は酷くなる。

「どうしたんだ」
「うわ」
 生協で声をかけられ、振り返ると兵助だった。私はエコバッグを見ていた。レジ横に雑に置いてある、ぺらぺらの素材のエコバッグ。折りたためるから持ち運びによさそうだった。値段も手ごろだ。
「エコバッグを買うの?」
「ああ」
「エコに目覚めた?」
「そういうわけでは」
 私がエコバッグを買うのを、兵助はくっついて見守っていた。ランチパックを買うでもなく、コーヒーを買うでもなく、ただエコバッグを買うだけの私を、どうやら不審に思ったらしかった。
「……三郎、最近なんか変だよ」
「……そうか?」
「勘右衛門のこと、避けてるだろ」
 私はエコバッグをカバンに仕舞う。なんのためにこれを買ったかって、そんなの、道端で吐き気に襲われた時、この中に花を吐けるようにだった。
「なあ。勘右衛門を傷つけたら、許さないぞ」
「……わかってるよ」
 兵助はそれだけ言うと、わかってるならいいんだ、と頷いて、豆乳を買いに行った。私はその隙に生協から出る。お説教はこりごりだった。

 五限の講義が終わると、あたりはすっかり暗くなっていた。夕飯は何にしようか、と考えながら帰路に着く。
 なんだか静かな帰り道だった。級友に会うことも、先輩とすれ違うこともなく、車の往来も少なかった。月を探したが、今夜は留守のようだ。暗がりに私の足音だけが響く。
 静寂、孤独、そんなもののなかに放り出されては、青少年が考えることはやはり、未来や、不安といったものだろう。しかし、今の私にとっては、花をどうしよう、と考えるので精いっぱいだった。この花吐き病は、いったいいつになったら治るのか。
「あれ、鉢屋?」
 後ろから、ぱたぱたと足音が近づいてくる。私は振り返らずに走った。冷や汗が全身を襲う。
「待てよ! なんで逃げるんだよ!」
 頼む。頼むから、今の私を見ないでくれ。お前の顔もまともに見れない、私のことなんか。
 勘右衛門の顔を見ると、腹の奥が熱くなって、胃から食道へ異物感がせり上がってくるようになったのは、いったいいつからだったか。その異物が、心臓なのだと知ったのは、いったいいつからだったか。
 心臓は、呪いによって、花に変わってしまった。
 お前にだけは見られたくない。
 それでもやはり彼の足は速くて、私は腕を取られてしまう。
「なあ、俺なんかした?」
「……ちが、う……」
「……鉢屋?」
 吐き気が私を襲う。カバンの中から、ぺらぺらのエコバッグを取り出す。口に付ける。
 おえ。私は口から、花を吐瀉する。
「……え……?」
 言葉を失った勘右衛門はしばらく呆然としていたが、やがて私の隣にしゃがみ込み、背中をさすってくれた。少し震えた、あたたかな手のひらだった。

「落ち着いた?」
 コンビニで水を買ってきた勘右衛門は、吐き気がおさまっているにも関わらず、ずっと私の背中をさすっていた。私は小さく抵抗したが、彼は頑なに私の介抱をしたがった。
 落ち着きを取り戻した私は、勘右衛門に「ごめん」と呟く。どこからか梟の声が聞こえる。梟、オオカミ、夜の動物たちに、俺たち人間はどれほど滑稽に映っているのだろうか。ばかばかしくなって、私は力なく笑った。
「呪い?」
「そう。呪いにかかった。お前の顔を見ると、私は花を吐くんだ」
「……なんで俺?」
「知らない。好きだからじゃないか」
 ぶっきらぼうにそう言い放つ。言ってから気付く。なかなか言い得て妙な解答なんじゃないか? 私は彼のことが好きだ。とっとと認めてしまえばよかったんだ。心臓の代わりに花を吐くくらい、恋心が募っていたのだ。なんて簡単な話なんだ。
 勘右衛門は黙り込んだ。たまに小首をかしげては、連動する影を見つめている。私が彼の頭に指を翳して影にツノを作ったところで、うん、と陽気な声が返ってきた。
「そうなんじゃない?」
「え? なにが?」
「たぶんね、俺も鉢屋のことが好き。だから俺たち、両思いだよ」
 ずいぶんと、あっけらかんとした声だった。私は拍子抜けして、ぽかんと口を開ける。
 腹の奥が熱くなって、胃から食道へ、異物感がせり上がってくる。私はエコバッグを開く。中には山盛りの花が入っている。その中に、おえ、とえずいた。
 今までで一番苦しかった。
 喉奥に何かが詰まっている。脂汗が出る。舌を何度も突き出して、から咳をし、なんとか吐き出そうとするも苦しいばかり。肩で息をしていると、横から手が伸びてきた。
 勘右衛門が私の口に指を突っ込む。
 更なる異物感が私を襲う。おえ、おえ、と何度もえずいているうち、勘右衛門は芯を掴んだのか、私の肩を押しながらゆっくりとそれを引き抜いた。
 ごぼ、と口から零れたのは、大きな百合だった。
「は、え……」
「……これ、呪いを解くアイテムなんじゃない?」
 涙と涎と鼻水でぼろぼろの私の前で、勘右衛門は満面の笑みを見せた。百合をエコバッグの中に落とすと、おめでとう、と私に声をかける。
「よかったね、これでもう大丈夫だよ」
「……なにが?」
「鉢屋はもう花を吐かないし、俺とも両思い。めでたしめでたし!」
 この花どうしよう、と言うので、とりあえず誰も触れないように我が家のトイレで流すつもりだと伝えたら、俺も行っていい? と聞かれた。断る理由はなかった。
 家に帰るまでの間、勘右衛門はずっと私と手を繋いでいた。なんだか泣きたくなったが、涙はすでに見せているのだった。

「花瓶ある?」
「ない」
「コップでいいか」
 私の家に着いて、さっそく山盛りの花びらをトイレに流していると、百合を掴んだ勘右衛門は、台所の食器棚をうろうろと物色しだした。
「仮にも吐瀉物だぞ。飾るなんて嫌だ」
「呪いを解くアイテムなんだから、宝だよ。飾らなきゃ」
 エコバッグを空にしたところで、フローラルな香りで満たされた部屋に、百合は飾られた。勘右衛門は勝手にレトルトカレーをあたためだし、冷凍のご飯をチンする。
「あのね、鉢屋」
「なんだ」
「俺ね、お前にずっと言っていなかったことがあるんだ」
 このエコバッグ、さすがに洗った方がいいよな。けれど、次に使う時、ためらってしまう気もする。花を吐くために買ったのだから、花でも買って入れようか。兵助に笑われるかもしれない。それでもいいと思った。呪いから解放されたのだから。
「ずっと、鉢屋とキスしたいと思ってたんだ」
 チン、と電子レンジの音がする。私は目を白黒させ、そうか、それじゃあ歯磨きをしないと、仮にも嘔吐したのだから、と考える。
「鉢屋、歯磨きするならカレー食べたあとにしなよ」
 洗面所に向かおうとした私を引き留めた勘右衛門は、照れた様に笑い、まずは一緒にごはんを食べよう、と言った。椅子に私を座らせ、カレーを皿に盛る。
「呪いからの解放、おめでとう。呪いを解く秘訣は?」
「……エコバッグを買う事」
「なるほどためになる。乾杯!」
 本当は、恋に素直になること、と言えればよかったのだけど。私はどこまでもひねくれものだ。
 そしてそんな私を好きだなんて、勘右衛門もきっとひねくれものなのだろう。花を吐いている口に指をつっこめる、勇敢で優しいひねくれもの。
 乾杯したコップと、百合の活けられているコップを見比べる。どちらの気泡も、美しいと思った。
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