鉢尾

 キスの合間に、嘘を吐く。
 ねえ、天体望遠鏡を買ったんだ。お前のために。
「……え?」
「だから。星、見るの好きだろう」
 鉢屋の手は今まさに俺をまさぐろうとしていたところで、俺は大人しくさえしていればソレを受け入れることとなっていた。けれどなんだか、この行為自体がインスタントな愛の消費に思えてしまって、つい嘘を吐いてしまう。
「配送に時間がかかるって。日付指定できなかった」
 鉢屋は先日、俺に地球儀を買ってくれた。小さなプラスチックのやつ。なんで? と聞いたら、寝言で「海賊になりたい」と言っていたからだそうだ。真に受けるなそんなもの。真に受けたとて、応援するな。犯罪だぞ、賊なんだから。
 鉢屋は何かを逡巡したのち、俺の上唇をぺろりと舐め上げて、「それじゃあさ」と言った。
「今夜、肉眼で星を見よう。望遠鏡が届いたら、もう肉眼で星を見ることもなくなるから」
 それもそうだ、と思った。視界に収まりきらない程広がる夜空よりも、切り取った小さな枠の中のクリアさを取るだなんて、人間らしい行為だ。俺は「賛成」と返して、鉢屋の頬に唇を寄せる。鉢屋は溜息を吐いて、俺の頭をぽんぽんと撫でた。嘘を吐いたせいで、行き先を失ってしまった手のひらだ。
「鉢屋、渋い顔してる」
「そりゃ、今から夜までたっぷり時間があるのに、お前がそんなこと言うからだろ」
 何か飲むか? と立ち上がった鉢屋の背中に、ごめんね、と唱えた。インスタントな愛の代わりに、インスタントコーヒーを飲もう。

 夜。一緒に風呂に入ったが、洗いっこはしなかった。それぞれの髪はそれぞれで洗ったし、背中も自分で泡立てた。
「Gメールの容量がいっぱいになっちゃって、新しいメアド作んなきゃなんだよね」
 という話題を振ったら、
「私はいったいいくつのアカウントを持っているんだろう」
 と返って来た。知るか。鉢屋の家のリンスは良い匂いがする。
 風呂を上がり、髪を乾かす前に牛乳を一杯。お互いの口の周りのヒゲを笑って、ドライヤーを交互に使った。
「勘右衛門、まだ濡れてる」
「ほとんど乾いた」
 鉢屋がやれやれと言って、俺の髪をタオルでわしゃわしゃと撫でた。心地よくて目を瞑っていると、今日何度目かのキスが降ってくる。
「……星、見るんでしょ?」
「見えるだろうか」
 ココアの代わりにミロを用意して――SNSでバズっていた時にうっかり買ってしまったらしい――、ベランダに出た。夏の始まりの季節でも、夜風はまだ少し肌寒い。
「夏の大三角ってもう見えるのかな」
「オリオン座って夏だったか、冬だったか」
 星を見ると意気込んでいたくせに、二人ともあやふやすぎた。かすかに瞬く星を指さしながら笑い合う。望遠鏡が届いたら、もう星座に迷うことはなくなるのだろう。月がどこに隠れているのか探す鉢屋に、俺はまた「ごめん」と言った。
「望遠鏡、嘘なんだ。まだ買ってない」
「そんなこったろうと思った。怒ってないよ」
「買う。買うよ。一緒に見ようよ。ここから」
「いつでもおいで。何なら住んだっていい」
 鉢屋に頭をこすりつけた。まだほんのり毛先の濡れている髪。鉢屋は嫌がりもせず、俺の背中に手を寄せる。
「いっそさ、山とか行って、ちゃんと星を見ようか? 望遠鏡なんかいらない、満点の星空」
「……いいの?」
「なにが?」
「俺なんかに時間を使って、本当にいいの?」
 俺はどうしようもない寂しさと焦燥感に襲われて、鉢屋から頭を離した。何をこんなに弱気になっているのだろう。俺らしくない。俺が俺らしくないことなんか、俺が一番よくわかっている。
「勘右衛門と一緒に行きたい。同じものを見たい」
 鉢屋は負けない。俺らしくない俺にくってかかる。ミロがまだ半分くらい残ってる。これがインスタントコーヒーじゃなくてよかった。夜に飲んでいたら、寂しさで喉が詰まっていただろう。
「海でも、花でも、なんならそこらへんの野良猫でもいいよ。一緒に一緒のものが見たいんだ」
「ここより満点の星空を見たら、もう望遠鏡っていらないかなあ」
「いる。勘右衛門が私の家にくる理由になるのなら、欲しい」
 いいね、その理由。「今日、星を見たいから、お前んちに行ってもいい?」なんてさ。俺は今、うまく笑えているだろうか。
「勘右衛門。何が不安なの」
「……俺は海賊にはならないよ」
「知ってる」
 風がベランダを駆けていく。くしゃみをひとつしたら、鉢屋は部屋からタオルケットを持ってきてかぶせてくれた。彼氏力が高い。
 プラスチックの海に見える小さな島に、鉢屋と暮らそうと思う。そこでも一緒に星を見上げるんだ。住人はテディベアで、アニメの歌にあるように、仕事も学校もない世界。インスタントコーヒーと、インスタントなキスの禁止令が出ている。
「私はさ」
 人間の目で捉えられる星は、六等星までらしい。今俺の視界を泳ぐ星は、何等星なのだろう。目は良い方だけれど、やっぱり小さい頃の方が今よりぐんと視力がよかった。
「勘右衛門が迷っていたら、背中を押したいと思うし、不安なことがあるなら、抱きしめたいと思う」
「うん」
「嫌なことがあるなら言ってほしいし、離れたいなら尊重する」
「うん」
「でも、違うんだろう?」
 鉢屋の広げた両手に飛び込んだ。泣きたい気もするのに、泣けない。鉢屋の鼓動の音がする。
 愛、愛とはなにか。近頃そんなことばかり考えるようになってしまって、だから、キスの合間に嘘を吐いてしまったのだった。セックスさえしてしまえばそれが愛の形だと言われるのが嫌で、断る代わりに、望遠鏡を買っただなんて言ってしまったのだ。
「嘘を吐く俺は嫌い?」
「どんな勘右衛門でも、好きだよ」
 ベランダ、二人だけの王国。風が冷たいのは、抱きしめ合うための口実。鉢屋の耳にまたピアスが増えている。俺のあげたピアスがぶら下がっている。
「ねえ。キスしたい」
 鉢屋の手が俺の頬に添えられる。指先が少し冷たい、夜風に冷えたか。俺は鉢屋の首に腕を回した。唇と唇が触れ合う。ほんのりミロの匂い。
「……流れ星って、見た事ある?」
「ある。六歳の時。ちゃんと三回願えたのが、私の武勇伝」
 鉢屋はそう言って、にんまりと口に弧を描いた。へえ、どんな願い? 俺は鉢屋の腕の中で、小さい頃の鉢屋を想像した。ピアスはいつ開けたんだろう。
「愛、愛、愛」
「……ませたガキ!」
 俺は夜空を睨んだ。俺より先に愛を囁かれた夜空め、今に見てろ、流れ星が流れたらただじゃおかない。
「勘右衛門は何を願う?」
「愛、愛、愛」
 望遠鏡が届いたら、名前を付けようと思う。なんにしよう、エリザベスか、イボンナか。大学で鉢屋に聞くんだ、「彼女、元気?」って。そして鉢屋は言う、「確かめに来いよ」って。
「俺たち、でたらめだな」
「でたらめでも、愛だよ」
 鉢屋のキスが降ってくる。愛だ、愛が降ってきた。俺はやっと安心して、鉢屋の言葉を信じられた。きっと頭上には、見えていない大量の流れ星。
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