鉢尾
小さい頃、眠れない夜、母親は魔法の飲み物をくれた。ホットミルクとは違う、深い深い、深紅の飲み物。子供は一口しか飲んじゃだめなのよ、と言いながら、残りを飲み干す母親の唇も深紅に染まっていた。少し甘くて少し渋くて、少しスパイスの香り。その魔法の飲み物を飲むと、身体があっという間にほかほかと温まって、安心して眠りにつくことができた。あれがグリューワインだったと知ったのは、中学生になってからだった。
「子供にワイン飲ますなよなあ」
「え、今のっていい話じゃないの?」
勘右衛門はジンジャーエールを飲みながら、すっとんきょうな声を出した。私はやれやれとため息をつく。高校生とかならまだしも、ワインなど幼児にあげるものではない。
「でもさ、それって存在した魔法なわけじゃん。すごいね鉢屋、魔法を見たことあるんだ」
緑色の空瓶を振る勘右衛門の言葉はきらきらと光っていて、魔法ならいつでもお前がくれるのに、と思った。調子に乗るから言ってやらない。アンチョビのなんたらをつつきながら、私は「勘右衛門は」と話題を逸らした。
「見たことあるのか。魔法」
「そうだなあ。小さい頃、夜空を見上げていたら、流れ星を見つけてさ。もう大興奮」
「おお。願い事は叶ったか」
「ふふふ。俺ね、ウインク出来るようになりたいって願ったんだ。それがご覧の通り」
勘右衛門は俺を見つめながらぱちぱちとウインクをした。ご丁寧に右目も左目も両方。皆んなで写真を撮る時、決まってウインクをするこいつも、昔はできない時代があったのだ。
「祈り終わった瞬間に出来るようになって。あれは魔法だと思ったなあ。でもそれなら、もっとでっかい願い事をすればよかったなあってちょっと後悔もした」
「ははは、勘右衛門らしい」
私はスプリッツァーの残りを飲み干して、チェイサーに手を伸ばす。私も勘右衛門も、まだ酒にあまり慣れていなかった。ここから飲む機会が増えて、そのうち飲み慣れるのだろう。
「じゃあさ、今度」
「うん?」
「一緒に、お互いの魔法を体験しに行こうよ。満点の星空の下で、ワイン飲まない?」
「……ナイスアイデア」
私は勘右衛門の頭をわしわしと撫でた。こいつはたまに、とんでもないことを閃く。その輝きに、私は振り回されてばかりだ。
「その時、きっとなにか、奇跡が起きるよ」
「……起こせるかな。奇跡」
「私とお前なら、起こせる」
空っぽになったグラスを指で撫でて、私たちは店を出た。顔が火照っていて、夜風が気持ちいい。
「このあとどうする、私の家に来るか」
「うん! そのつもり」
歯ブラシ持ってきたんだ〜と笑った勘右衛門に、今度は私が閃いた。ドン・キホーテに寄ろう、と言うと、勘右衛門は気軽にいいねと答えてくれる。
「何買うの?」
「内緒、別行動、15分後に集合」
私は賑やかな店舗の中に風のように舞い込んで、目当ての商品を素早く見つけた。ここのドン・キホーテには高校生の時通い詰めた。どこに何があるか覚えている。
騒音に頭をぴよぴよとさせた勘右衛門と集合して、私の家へと急いだ。道中、野良猫がいて、勘右衛門はひらひらと手を振った。
「ねこー」
「野良猫に名前をつけるのはよくないよ」
「ねこって呼んだだけだもん」
袋をガサガサ言わせながらアパートの階段を登る。勘右衛門は勝手知ったるように「ただいま」と言いながら部屋に入った。俺は「おかえり」と返す、いつかそんな未来が本当に来ればいいのにと思いつつ。
「で? で? 何買ったの?」
「……あのさ」
勘右衛門に、座れ、とジェスチャーをして、私も向かいに座った。袋の中身を並べていく。コンドームと、潤滑油。
「……え」
「嫌だったらいい。絶対に無理強いしない。それから、もうひとつ。こっちが本命」
私は袋の中から、最後の中身を取り出した。家庭用の小さなプラネタリウムの箱。まばゆい夜空が印刷されているそれを見て、勘右衛門は赤く染まった頬のまま、きょとんとした。
「……なんで?」
「家の中でも、星空は見える。もっと気軽に、奇跡を起こせたらいいと思って」
「……奇跡がセックスってこと?」
「そうじゃないけど、そこまでいったら、たぶん、見える景色は違うよ」
勘右衛門は一度に浴びた情報量の多さに混乱したのか、黙ってしまった。私はそれを横目で見つつ、小さなプラネタリウムの機械を箱から取り出した。無言の空間の中、がちゃがちゃと音が鳴る。
「……俺さあ」
「うん」
「はじめては満点の星空の下でって思ってたんだぁ……」
「ははは。オモチャだけど」
勘右衛門は私の背中に抱きついた。動悸が背中から伝わってくる。私の手に指を絡めて邪魔をしてくるのをいなしながら、私は簡素な夜空作成機の準備をこなした。
「……鉢屋はさ」
「うん」
「俺のこと好き?」
「……大好き」
私は振り返って、勘右衛門にキスをした。勘右衛門の唇はほんのりジンジャーエールの香りがして、甘くて、柔らかい。私は電気を消し、プラネタリウムのスイッチを入れて、部屋の中をあっという間に宇宙にさせた。
そのまま暗闇で、お互いの体をまさぐりあった。布団は船だったし、私たちは海にいた。必死に呼吸を交わしながら、お互いの深く深くまでを愛した。今だけは地球の重力なんて関係なかった。勘右衛門の噛み殺しきれていない掠れた甘い声を食べながら、勘右衛門とひとつになる。長い長い時間の果て、お互いがぴったりと重なった時、勘右衛門は宙に手を伸ばした。
「……ねえ」
「……どうした」
「ながれぼし」
私は勘右衛門の首を舐めた。塩辛い、海の味。グリューワインのような甘さはなくても、身体が熱くなる。勘右衛門は私の濡れた背中を撫でながら呟いた。
「鉢屋とずっと、一緒にいられますように」
こんなチープな夜空でも、奇跡は起こせる。私たちはどこまでも溶けていきながら、星の一つになった。魔法なんかなくても、確かな愛が、そこにあった。
「子供にワイン飲ますなよなあ」
「え、今のっていい話じゃないの?」
勘右衛門はジンジャーエールを飲みながら、すっとんきょうな声を出した。私はやれやれとため息をつく。高校生とかならまだしも、ワインなど幼児にあげるものではない。
「でもさ、それって存在した魔法なわけじゃん。すごいね鉢屋、魔法を見たことあるんだ」
緑色の空瓶を振る勘右衛門の言葉はきらきらと光っていて、魔法ならいつでもお前がくれるのに、と思った。調子に乗るから言ってやらない。アンチョビのなんたらをつつきながら、私は「勘右衛門は」と話題を逸らした。
「見たことあるのか。魔法」
「そうだなあ。小さい頃、夜空を見上げていたら、流れ星を見つけてさ。もう大興奮」
「おお。願い事は叶ったか」
「ふふふ。俺ね、ウインク出来るようになりたいって願ったんだ。それがご覧の通り」
勘右衛門は俺を見つめながらぱちぱちとウインクをした。ご丁寧に右目も左目も両方。皆んなで写真を撮る時、決まってウインクをするこいつも、昔はできない時代があったのだ。
「祈り終わった瞬間に出来るようになって。あれは魔法だと思ったなあ。でもそれなら、もっとでっかい願い事をすればよかったなあってちょっと後悔もした」
「ははは、勘右衛門らしい」
私はスプリッツァーの残りを飲み干して、チェイサーに手を伸ばす。私も勘右衛門も、まだ酒にあまり慣れていなかった。ここから飲む機会が増えて、そのうち飲み慣れるのだろう。
「じゃあさ、今度」
「うん?」
「一緒に、お互いの魔法を体験しに行こうよ。満点の星空の下で、ワイン飲まない?」
「……ナイスアイデア」
私は勘右衛門の頭をわしわしと撫でた。こいつはたまに、とんでもないことを閃く。その輝きに、私は振り回されてばかりだ。
「その時、きっとなにか、奇跡が起きるよ」
「……起こせるかな。奇跡」
「私とお前なら、起こせる」
空っぽになったグラスを指で撫でて、私たちは店を出た。顔が火照っていて、夜風が気持ちいい。
「このあとどうする、私の家に来るか」
「うん! そのつもり」
歯ブラシ持ってきたんだ〜と笑った勘右衛門に、今度は私が閃いた。ドン・キホーテに寄ろう、と言うと、勘右衛門は気軽にいいねと答えてくれる。
「何買うの?」
「内緒、別行動、15分後に集合」
私は賑やかな店舗の中に風のように舞い込んで、目当ての商品を素早く見つけた。ここのドン・キホーテには高校生の時通い詰めた。どこに何があるか覚えている。
騒音に頭をぴよぴよとさせた勘右衛門と集合して、私の家へと急いだ。道中、野良猫がいて、勘右衛門はひらひらと手を振った。
「ねこー」
「野良猫に名前をつけるのはよくないよ」
「ねこって呼んだだけだもん」
袋をガサガサ言わせながらアパートの階段を登る。勘右衛門は勝手知ったるように「ただいま」と言いながら部屋に入った。俺は「おかえり」と返す、いつかそんな未来が本当に来ればいいのにと思いつつ。
「で? で? 何買ったの?」
「……あのさ」
勘右衛門に、座れ、とジェスチャーをして、私も向かいに座った。袋の中身を並べていく。コンドームと、潤滑油。
「……え」
「嫌だったらいい。絶対に無理強いしない。それから、もうひとつ。こっちが本命」
私は袋の中から、最後の中身を取り出した。家庭用の小さなプラネタリウムの箱。まばゆい夜空が印刷されているそれを見て、勘右衛門は赤く染まった頬のまま、きょとんとした。
「……なんで?」
「家の中でも、星空は見える。もっと気軽に、奇跡を起こせたらいいと思って」
「……奇跡がセックスってこと?」
「そうじゃないけど、そこまでいったら、たぶん、見える景色は違うよ」
勘右衛門は一度に浴びた情報量の多さに混乱したのか、黙ってしまった。私はそれを横目で見つつ、小さなプラネタリウムの機械を箱から取り出した。無言の空間の中、がちゃがちゃと音が鳴る。
「……俺さあ」
「うん」
「はじめては満点の星空の下でって思ってたんだぁ……」
「ははは。オモチャだけど」
勘右衛門は私の背中に抱きついた。動悸が背中から伝わってくる。私の手に指を絡めて邪魔をしてくるのをいなしながら、私は簡素な夜空作成機の準備をこなした。
「……鉢屋はさ」
「うん」
「俺のこと好き?」
「……大好き」
私は振り返って、勘右衛門にキスをした。勘右衛門の唇はほんのりジンジャーエールの香りがして、甘くて、柔らかい。私は電気を消し、プラネタリウムのスイッチを入れて、部屋の中をあっという間に宇宙にさせた。
そのまま暗闇で、お互いの体をまさぐりあった。布団は船だったし、私たちは海にいた。必死に呼吸を交わしながら、お互いの深く深くまでを愛した。今だけは地球の重力なんて関係なかった。勘右衛門の噛み殺しきれていない掠れた甘い声を食べながら、勘右衛門とひとつになる。長い長い時間の果て、お互いがぴったりと重なった時、勘右衛門は宙に手を伸ばした。
「……ねえ」
「……どうした」
「ながれぼし」
私は勘右衛門の首を舐めた。塩辛い、海の味。グリューワインのような甘さはなくても、身体が熱くなる。勘右衛門は私の濡れた背中を撫でながら呟いた。
「鉢屋とずっと、一緒にいられますように」
こんなチープな夜空でも、奇跡は起こせる。私たちはどこまでも溶けていきながら、星の一つになった。魔法なんかなくても、確かな愛が、そこにあった。
1/10ページ