鉢尾
もういい、ばか、知らない、と叫んで、家を飛び出してきた。
喧嘩のきっかけなんて、どうせ些細なことだ。今回は録画を消してしまったとかそんなところだった気がする。同棲をはじめて三ヶ月、積もり積もった不満は一度零れだすと止まらなくて、俺と鉢屋は交互に文句を垂れた。蛇口はきっちり閉めろとか、換気扇つけろとか、鍋の蓋までちゃんと洗えとか、靴下を脱ぎ散らかすなとか。そうして一通り憎しみあったあと、鉢屋はおもむろにカバンから赤い箱を取り出して、俺に見せつけてきたのである。
「……なにそれ」
「同じ講義の子に貰ったんだよ。かわいい子だったなあ~」
そこで、俺の堪忍袋の緒が切れた。そんなにその子のほうがかわいいなら、そっちにいけばいいじゃん。着の身着のまま飛び出して、コンビニまでひとっ走り。夜は一段と寒く、風が身体を冷やしていった。ついでに頭も冷えてくる。
「……俺だってチョコ、用意してたのになあ……」
渡しそびれていただけなのだ。一緒に夕飯を食べたら、そのあとにでも出せば、デザートになると思って、タイミングを見計らっていたにすぎない。授業が違うから、鉢屋がモテているなんてことも知らなかった。
「さむ……」
白い息を吐きながら自分の肩を抱いた。さすがに上着くらい羽織ってくるべきだった。仕方なく店内をぐるっと一周するも、特に食べたいものもなく、溜息とともに退店した。俺はいったい何をしているのだろう。
店頭の明かりの中で空を見上げていた。月がかろうじて見える。星は町の明るさに霞んで見えない。女は星の数だけいるけれど、なんで鉢屋は俺なんだろう。バレンタインにチョコも渡せていない俺なんか。
しばらくそうやって立っていると、駐車場に停まった車から、黒いパーカーの男が降りてきた。てっきりそのままコンビニに入るものだと思っていたら、その男は俺に近付いてくる。
「おねえさん、寒そうだね」
「……いえべつに」
「俺の上着着る? つか家くる? あったかいよ」
「は? 行くわけないじゃん」
「送ってあげるよ。家どこ?」
「やめろってば!」
強引に腕を取られ、恐怖を感じた。このままと車に連れ込まれる。身体じゅう冷え切っていて力が入らず、反抗らしい反抗が出来ない。
「おねえさん何かつらそうじゃん、話なら聞けるし」
「彼氏いるから! 離せ!」
「そんなヤツより俺にしときなって」
にやにやと気持ちが悪い笑みを浮かべながら、男は俺の腕を離さない。無理やり車に連れて行かれそうになっても、震えて大声が出せない。いつもならこんなやつワンパンなのに、寒くさえなければ、心が弱っていなければ。泣きそうになった瞬間、聞きなれた声が耳に飛び込んでくる。
「すんません、こいつ、私のなんで」
鉢屋は息を切らしていた。俺から男を引きはがすと、ぎろりと男を睨む。
「けっ、男連れかよ」
男は舌打ちをしながらすんなりと腕を離し、車に帰っていった。 あまりのあっけなさに呆然としながら鉢屋を見上げる。男と取っ組み合いになったらどうするつもりだったのだ。鉢屋は車のナンバーを写真に収めると、俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「ごめん」
「……へ」
「どんなに喧嘩してても、深夜に女の子一人で外に行かせるんじゃなかった。怖い思いさせてごめん」
鉢屋はジャンパーを脱いで俺に着せてくれた。これじゃあ鉢屋が寒くなってしまう。もこもこになった俺をジャンパーの上から抱きしめた鉢屋は、鼻の頭を赤くしながら言った。
「……バレンタイン、欲しかっただけなんだ」
「……欲しかったの?」
「欲しいさ。彼女からの本命チョコ」
「俺よりかわいい子から貰ったのに?」
「誰が、より、なんて言った。勘右衛門の方がかわいい」
ぎゅ、と体重をかけられて、恥ずかしさから逃げられない。俺も観念して、鉢屋を抱きしめ返した。
「俺もごめん。チョコ、あるから」
「あるの?」
「あるよ。彼氏への本命チョコ」
「……嬉しい」
鉢屋は本当に嬉しそうに笑った。俺も釣られて笑って、喧嘩はこれでおしまい、と言った。これ以上薄着で外に居たら風邪を引いてしまう。手を繋いで足早に家に帰った。
「一緒に帰る家があるって嬉しいな」
「そうだな。デートの帰りにばいばいするの、寂しいもんな」
「このままずっと、一緒の家に帰りたい」
「それは双方の努力次第というか」
「だからさ。勘右衛門」
鉢屋は家のカギをポケットから取り出しながら、俺の目を見て言った。
「私のこと、名前で呼んで欲しいなあ」
「……へ」
「いずれ同じ名字になるならね」
月がまんまるだった。さっきは気が付かなかった。カギはチャリンと音を奏でてドアを開き、俺たちを歓迎する。俺は心臓をばくばくさせながら靴を脱ぎ、隠してあったチョコレートを探す。
まずは今、呼んでみようかな。本命チョコを背中に隠し持ちながら、俺は大きく息を吸った。
喧嘩のきっかけなんて、どうせ些細なことだ。今回は録画を消してしまったとかそんなところだった気がする。同棲をはじめて三ヶ月、積もり積もった不満は一度零れだすと止まらなくて、俺と鉢屋は交互に文句を垂れた。蛇口はきっちり閉めろとか、換気扇つけろとか、鍋の蓋までちゃんと洗えとか、靴下を脱ぎ散らかすなとか。そうして一通り憎しみあったあと、鉢屋はおもむろにカバンから赤い箱を取り出して、俺に見せつけてきたのである。
「……なにそれ」
「同じ講義の子に貰ったんだよ。かわいい子だったなあ~」
そこで、俺の堪忍袋の緒が切れた。そんなにその子のほうがかわいいなら、そっちにいけばいいじゃん。着の身着のまま飛び出して、コンビニまでひとっ走り。夜は一段と寒く、風が身体を冷やしていった。ついでに頭も冷えてくる。
「……俺だってチョコ、用意してたのになあ……」
渡しそびれていただけなのだ。一緒に夕飯を食べたら、そのあとにでも出せば、デザートになると思って、タイミングを見計らっていたにすぎない。授業が違うから、鉢屋がモテているなんてことも知らなかった。
「さむ……」
白い息を吐きながら自分の肩を抱いた。さすがに上着くらい羽織ってくるべきだった。仕方なく店内をぐるっと一周するも、特に食べたいものもなく、溜息とともに退店した。俺はいったい何をしているのだろう。
店頭の明かりの中で空を見上げていた。月がかろうじて見える。星は町の明るさに霞んで見えない。女は星の数だけいるけれど、なんで鉢屋は俺なんだろう。バレンタインにチョコも渡せていない俺なんか。
しばらくそうやって立っていると、駐車場に停まった車から、黒いパーカーの男が降りてきた。てっきりそのままコンビニに入るものだと思っていたら、その男は俺に近付いてくる。
「おねえさん、寒そうだね」
「……いえべつに」
「俺の上着着る? つか家くる? あったかいよ」
「は? 行くわけないじゃん」
「送ってあげるよ。家どこ?」
「やめろってば!」
強引に腕を取られ、恐怖を感じた。このままと車に連れ込まれる。身体じゅう冷え切っていて力が入らず、反抗らしい反抗が出来ない。
「おねえさん何かつらそうじゃん、話なら聞けるし」
「彼氏いるから! 離せ!」
「そんなヤツより俺にしときなって」
にやにやと気持ちが悪い笑みを浮かべながら、男は俺の腕を離さない。無理やり車に連れて行かれそうになっても、震えて大声が出せない。いつもならこんなやつワンパンなのに、寒くさえなければ、心が弱っていなければ。泣きそうになった瞬間、聞きなれた声が耳に飛び込んでくる。
「すんません、こいつ、私のなんで」
鉢屋は息を切らしていた。俺から男を引きはがすと、ぎろりと男を睨む。
「けっ、男連れかよ」
男は舌打ちをしながらすんなりと腕を離し、車に帰っていった。 あまりのあっけなさに呆然としながら鉢屋を見上げる。男と取っ組み合いになったらどうするつもりだったのだ。鉢屋は車のナンバーを写真に収めると、俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「ごめん」
「……へ」
「どんなに喧嘩してても、深夜に女の子一人で外に行かせるんじゃなかった。怖い思いさせてごめん」
鉢屋はジャンパーを脱いで俺に着せてくれた。これじゃあ鉢屋が寒くなってしまう。もこもこになった俺をジャンパーの上から抱きしめた鉢屋は、鼻の頭を赤くしながら言った。
「……バレンタイン、欲しかっただけなんだ」
「……欲しかったの?」
「欲しいさ。彼女からの本命チョコ」
「俺よりかわいい子から貰ったのに?」
「誰が、より、なんて言った。勘右衛門の方がかわいい」
ぎゅ、と体重をかけられて、恥ずかしさから逃げられない。俺も観念して、鉢屋を抱きしめ返した。
「俺もごめん。チョコ、あるから」
「あるの?」
「あるよ。彼氏への本命チョコ」
「……嬉しい」
鉢屋は本当に嬉しそうに笑った。俺も釣られて笑って、喧嘩はこれでおしまい、と言った。これ以上薄着で外に居たら風邪を引いてしまう。手を繋いで足早に家に帰った。
「一緒に帰る家があるって嬉しいな」
「そうだな。デートの帰りにばいばいするの、寂しいもんな」
「このままずっと、一緒の家に帰りたい」
「それは双方の努力次第というか」
「だからさ。勘右衛門」
鉢屋は家のカギをポケットから取り出しながら、俺の目を見て言った。
「私のこと、名前で呼んで欲しいなあ」
「……へ」
「いずれ同じ名字になるならね」
月がまんまるだった。さっきは気が付かなかった。カギはチャリンと音を奏でてドアを開き、俺たちを歓迎する。俺は心臓をばくばくさせながら靴を脱ぎ、隠してあったチョコレートを探す。
まずは今、呼んでみようかな。本命チョコを背中に隠し持ちながら、俺は大きく息を吸った。