夢短編
かなめ
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八月ともなれば日差しも容赦ない。駅からジョナサンまでの道を歩く間に、私はすっかり汗だくになってしまった。店内での冷房が汗を冷やしていくのを待ち切れず、制汗シートでこっそりと服の下を拭く。
「ご注文がお決まりになりましたらタブレットからご注文ください」
店員が水とお手拭きを置いて背中を向けたその先に、彼の姿を見つける。いま店に到着したようだ。アッシュグレイのふわふわした髪と大きな瞳が、ひょっこりと私の前に現れる。
「お待たせ」
「五分遅刻。もう席通されちゃったよ」
「ラッキー」
綾部がゆっくりした動作で私の向かいの席に座り、店員が追加の水とお手拭きを置いて去っていく。二人でタブレットを隅から隅まで見て、季節限定の桃のパフェをまとめて頼んだ。
「同じもの頼むの? 違うの頼んだ方がシェアできたのに」
「でも僕らは自分が食べたいもの譲れないタチでしょう」
「ご名答」
桃が食べたいとお互いに思ったのだから、それぞれ桃を食べればそれでいいのだ。いつだって事はシンプルだ。
隣のテーブルにパスタが運ばれてくるのが見えて、その匂いを嗅いだ途端にしょっぱいものが欲しくなるのは、我ながら単純である。汗をかいたから塩分を欲しているのかもしれない。もう少し早くそのことに気付ければ、ポテトでも頼んだものを。
綾部の顔をじっと見た。半年ぶりに会えたのだからもっと感慨深い再会をすればいいものの、私たちらしいそっけない再会だ。海外の水は彼の身体に合っているのだろうか。肌質は荒れて見えないけれど、少し日に焼けたような気がする。
「久しぶりだねえ」
「ねえ。ろくにラインも返さないんだもの」
「たまには返してるじゃん」
「まあ綾部にそこは期待してないからいいんだけど」
パフェが運ばれてくる。どっしりとしたガラスの器に、白いクリームが花束のように咲いている。桃がふんだんに散りばめられていて、なんて贅沢なパフェだろう。
「わあ、おいしそう。いただきます」
「ファミレスでパフェだなんて、いつぶりだろう」
感慨深そうに目を細めて、銀の細長いスプーンを手に取った綾部は嬉しそうだ。私も桃を一口食べて、その甘さとジューシーさに舌鼓ををうった。
「あまくておいしい」
「ごちそうだよ」
「海外では食べないの?」
「食べようという気にならないから、あるのかもわからない」
「そっかあ」
ミントの葉を避けながら生クリームを掬い、頬いっぱいに甘さを広げた。チープなしあわせだが、こんなくらいのしあわせが日常には必要だと思う。
「今回はどこに行ってきたの?」
「ブログで見ているでしょう。かなめにつっこまれないよう、ちゃんと書いてるんだよ」
「知ってるよ、毎日見てるもん。それが生存確認になってるし」
ちゃんと本人の口からききたいんだよ、と言って、コーンフレークを噛みしめた。がりがりと砕かれていく食感を生クリームで流しながら、綾部の言葉を待つ。
「ウズベキスタンだよ。 アフガニスタンの近く」
「危なくないの?」
「比較的安全め。どちらかというと親日国だし」
「……どうだった?」
こういうときに、ありきたりな言葉でしか会話ができない己を呪う。もう一体、何年この暮らしをしているんだ。そろそろ会話のレパートリーが増えてもいいだろうに。私にとっての非日常を日常として暮らしている綾部に、どんな風に会話を切り出せばいいのか、いつも迷ってしまう。
「青の宮殿が、やっぱり綺麗だったよ。どこまでも溶けていきそうな青」
綾部がたまらなくおいしそうにパフェを食べながら遠くを見る。私はその様子を見ながら、「いいなあ」と思わずぽつりと漏らしていた。
「羨ましい」
「一緒に行こうよ」
「だから無理だって。私はちゃんと働いてるんだから」
「もう」
「あんたが変人なだけだからね。私が普通なの」
綾部と私は中高の同級生だ。中学二年の時、やけにうまがあって距離が縮まり、まあ、なんとなくそういうことになり、はっきりと恋人だと明言しないまま恋人のような気分でいた。
高校三年生になって、私は受験勉強に明け暮れていた。いい大学に行っていい会社に入ることがキマリゴトでアタリマエなんだと本気で信じていた。なのに、綾部はまったく焦る様子もなく、毎日をのんびりとすごしていた。それを見かねて、ある日私は切れ散らかした。自他境界があいまいな年頃だった。
「綾部は進学する気あるの? それとも就職? 何も考えてないんじゃないの?」
イライラしていた。自分はこんなに頑張っているのに、一緒に頑張ってくれないことに。今思えば一方的に押し付けていた感情にすぎないが、その傲慢な若々しさを、綾部はひょいと退けた。
「ちゃんと考えてるよ」
「はあ? 実家でも継ぐの?」
「僕は進学も就職もしない。継ぐような家業もないよ」
「じゃあ……」
「僕は旅に出る」
あまりにもあっけらかんと言うものだから、私は面食らってしまった。口をあけたまま固まってしまったのを覚えている。
「旅?」
「うん。世界中を」
「……現実逃避?」
「違うよ。本気。僕は何をやりたいんだろうって、本気で自分と向き合った結果」
ふざけているのではないことは、口調から伝わった。だからこそ動揺した。そんな夢物語を本気で叶えようとするやつだとは露ほども思っていなかった。彼はマイペースでくらげみたいなやつだけれども、世間に流されながらもしっかりと自分の意思を持って暮らしていくもんだとばかり思っていた。
世間に流されているのは、私だけだったのだ。彼は自分の足で、しっかりと立っていた。
「人生って一度しかないだろう。生きているうちに、世界中を見てみたいと思ったんだ」
「……ずっと、帰ってこないの」
「たまに日本には戻ってくるよ。稼ぎに」
「親は、何て言ってるの」
「大反対だったけど、諦めたみたい。はじめて説得というものをしてみた」
「……まあ、諦めるほかないか。私はいま、呆れてるけど」
「ちゃんと戻ってくるよ。かなめに会いに」
そうして彼は本当に、卒業式の次の日に旅立ってしまったのだった。何人かのクラスメイトで見送りに駅に行ったら、「どうも」と言っただけで、彼はごく普通の旅行かのような身軽さで、電車に揺られて消えていった。
私はせっかく受かった第一希望の大学でも、彼のいない孤独感を味わい続けることになる。頻繁にラインを送るが、返ってくる回数は徐々に減っていった。
綾部の最初の帰国で再会した際、私はとうとう寂しさを爆発させた。
「ラインを返さないなら、せめてブログ書いてよ」
「ええ。書いたことない」
「どうして旅を続けているか、その目的とか。どんな国のどんな地域に行っていて、どんな景色が広がっているのかとか。今日は何を食べたのかとか。綾部の見ているものを教えてよ。一緒に見たいよ、私も」
「……考えとく」
目をくりんと光らせた彼に、私はどうせ嘘だと思ったのだが、なんと綾部は次の旅から実際にブログ執筆をはじめることとなる。
はじめは拙かったが、そのうち執筆に慣れてきたのか魅力的な記事を書くようになった。現地の子供たちと触れ合っただとか、仲良くなった飲み屋のおじさんに成り行きで髪の毛を切ってもらったらとんでもないことになってしまっただとか。日本でも、彼の旅ブログは注目を集めるようになっていった。
綾部は様々な国に行っては、現地での仕事を見つけて生活費を賄っている。ホテルのベッドメイキングや厨房の皿洗いが主だ。単純そうな仕事だけれど、その日々の出来事どれもが面白く、安いホステルで出会った人々とのハートフルな会話も記事で読むたび笑ってしまう。
ラインの返事が返ってこなくなっても、私はそのブログ越しに、綾部を感じていた。
今日は半年ぶりの再会である。綾部は半年に一度、がっつりと金を稼ぐために帰国をして、短期間のバイトをぐわっとしてはまた海の向こうへ飛び立っていくサイクルだ。八月中は稼ぎ時だ、と彼は言う。
「今日もこのあとバイトなんでしょう?」
「うん。工事現場」
「暑いでしょう」
「慣れるよ。それに、穴掘るの好きなんだ」
「知ってる」
綾部は中高ずっと園芸部だった。土いじりが何よりも心が落ち着くと言っていたのを覚えている。
「八月中はずっといるの?」
「そのつもり。夏休み期間だから、どこ行っても旅行客で溢れてて、異国感ないしね」
「異国感」
なんだか語感が面白くて、私はくすくすと笑っていた。生クリームはだいぶ溶けて、コーンフレークといい具合に混ざり合っている。
「次はどこに行くの?」
「寒くなる前に北欧に寄りたいなあ。エストニアとか行きたい、戦火を潜り抜けた街並み」
「あんたってそんなに世界史得意だったっけ?」
「からっきしだよ? 僕のテストの点数が散々だったの覚えているでしょう」
好きなものへのあくなき探求心。彼のように生きられたらなあ、とやはり羨ましく思ってしまう。
「かなめはどうなの? 毎日」
冷房がすっかり肌を冷やして、すこし寒くなってしまった。私はこんな時のために、真夏でもカーディガンを持ち歩いている。だからカバンが大きくなるのだ。なんでそんなに荷物が多いのかとよく友人に揶揄されるが、夏はペットボトルも日焼け止めも虫よけも日傘も持ち歩かなければならないのだから、多くなるに決まっているじゃないか。
「ふつうだよ」
「ふつうじゃわからないよ。かなめはブログをやってないんだから、僕にはわからない。教えて」
じゃあもっとラインの返事をよこしたり、電話に出てくれたっていいじゃない、と言いそうになるのをぐっとこらえる。彼には彼のペースがあって、心情があって、私はそれを邪魔したいわけでは決してない。
「……灰色だよ。灰色の毎日」
「……おやまあ」
ガラスの器の底をスプーンで引っ掻きながら、私の声は暗かった。彼の前で弱音を吐いたって、何にもなりはしないのに。
「毎朝、起きるとまず絶望するの。ああ今日がやってきてしまったって。別になにがあるわけでもないけど……。第一志望の企業に就職した時は、よし頑張ろう、きらきらの毎日だって意気込んでたんだけど。そのはずだったんだけど。なんだか、先が……果てしなくて」
綾部が最後の桃を咀嚼している。ああ、桃になりたい。瑞々しくて栄養満点。綾部の腹を満たせる幸福の果物。
「残業もよくあるから、疲れちゃって……。それで帰宅して、やっとの思いでご飯食べてお風呂入ってさ。真っ暗な部屋で……アンタのブログを読むの」
「そのタイミングで見るの?」
「そう。綾部のブログを読んでると、私もその国に旅立ってるような感覚になれる。書いてって言ったのは私だけど、なんか、このブログを見ている誰のことも、どこへでも連れて行ってくれる、どこでもドアみたいな記事だなって思う。異世界の空気を一杯吸って、ああ世界はこんなにも広いんだ、って思ってから、寝てる。寝る前が一番幸福なんだ、私」
しゃべりすぎて喉が渇いた。タブレットからホットコーヒーを追加注文する。綾部に向けるとコーラを注文していた。パフェ後なのに身体は冷えないのだろうか。
「かなめは行きたい国とかないの?」
「ええ? なに急に。連れてってくれるの? 無理だよ、休めないもん」
「いいから。言うだけタダじゃん」
「そうだなあ……ベルギーとか行ってみたいなあ。友達がウエディングフォト撮りに行ってたんだ」
「いいね。世界一美しい広場とかあるよ。ノートルダム大聖堂とか」
「行きたいなあ。あとはありきたりだけど、ウユニ塩湖とか、オーロラとか」
「環境としては過酷だね、そこいらは」
「言うだけタダなんでしょう?」
私は力なく言った。だって、実際に行けないのだ。そんなに有給を使えない。ホットコーヒーが運ばれてくる。口をつけると、苦みが私を包む。
綾部はコーヒーを飲む私をじっと見つめてから、不意に私の手を取った。
「ね、それ、全部叶えようよ」
「ええ? だから、休めない……」
「仕事、辛いんでしょう。無理しているでしょう、顔に出ているよ」
綾部の透き通った瞳が、まっすぐに私を貫いた。いま温かい飲みものを飲んだばかりだというのに、うっすらと背中が冷えていく。
「かなめのことだから、ずっと我慢してきたんだろう。僕はこの通りだから、なかなか察してやれなかったけれど。かなめからめずらしく「会いたい」ってラインがきて、めったにそんなこと言わないから、これはSOSだと思って、飛んで帰ってきたんだよ」
「……旅の邪魔しちゃった」
「違うよ。あのね、僕の中には、ずっとかなめがいるの。どんな世界に飛んで立って、僕の心の中心には、ずっとかなめがいるんだ」
いい大学を出て、いい会社に入って。それで終わりだと思っていた。その先にまだ、人生が続くと思っていなかった。起きて、働いて、寝ることの繰り返しの日々。いったいなんのために働いているのかと問うのもやめた、答えがみつからないからだ。
「青の宮殿を見ている時に思ったんだ。ああ、一緒に見たいなあ。いま隣にいてくれたらなあって」
「……私だって、それができたらどんなにか」
「だから、一緒に旅をしようって」
「でも」
「これってプロポーズのつもりなんだけど」
「……え?」
何を言われたか一瞬、わからなかった。言葉が遅れて耳に届きだす。
「結婚しよう。それで、僕と一緒に旅をしてください」
綾部の手が、しっかりと私の手を握った。途端、私は動揺で動悸が激しくなる。
「な、なに」
「出版社から連絡がきたんだ。ブログを本にしませんかって。だから今度、本が出る」
「は?」
「けっこう大々的に広報してくれるみたいでさ。印税、しっかり入ってくる予想なんだよね」
「ちょっと待って、知らないんだけど」
「だからさ、少しはかなめのこと支えられると思うんだ。養えるほどかはわからないけど」
綾部の声は真剣だった。高三のあの時の声と一緒だ。未来をまっすぐに見据えている時の声。
「僕にブログを書けって言ってくれたのはかなめだよ。かなめが僕の人生の道を照らしてくれたんだよ」
「そんな大それたことは」
「ね、僕の隣を歩いてよ。世界中を見に行こう。驚くと思うよ、目も足りなければ時間も足りなくて。どこの国でも、朝日と夕日って美しいんだ。そういうのを、かなめと一緒に見ていたい。……結婚してください」
私の喉は驚きすぎて、何の声も発することができなかった。綾部に手を握られているせいで、頬を伝う雫を拭くことができず、煩わしかった。感動なのか、衝撃なのかもわからないまま、頷いた。心の中に湧いた嬉しいという気持ちに、素直に身体が動いた結果だった。
「ね、かなめ。どこに行きたい?」
「……ノイシュバンシュタイン城」
「ドイツか。どうして?」
「……ディズニープリンセスが、ずっと憧れだったの。いつか王子様が迎えにきてくれるって……」
「ここにいるよ。お待たせ」
視界が一気に滲んだ。綾部が手を解放してくれたので、大判のハンカチタオルで顔を拭った。こういうのを持ち歩いているからカバンが大きくなるというのに。
「私が綾部の隣にいて、いいの?」
「いいよ」
「会社、やめてもいいの?」
「いいよ。寿退社してやろうよ」
親は何と言うだろう。友人は何と言うだろう。大反対するかな。呆れるかな。普通というものに背を背ける人生に。私も説得というものをしてみよう。一度しかない人生で、朝日と夕日を見られる回数は有限なのだ。
「……世界中で、綾部と付き合い続けられる稀有な人って、私だけだと思ってたけど」
「極めちゃったね」
八年も経っちゃったよと皮肉交じりに言うと、綾部は少しだけ照れた様に、カバンをごそごそと漁り、小さな箱を取り出した。
「結婚指輪はまたちゃんと買うから」
ラピスラズリのついた指輪がちょこんと台座に座っていた。彼にしてはしっかりとしたプロポーズだ、思わず笑いながら私はそれを薬指にはめてもらって、新たな道が開けていくことを確信した。
灰色の毎日に、光が差した。いつだってその光は、ずっと私の隣に居てくれたのだ。そしてそれはこれからも、ずっと。やっぱり、いつだって事はシンプルなのだ。
「まずは溜まってる有給を全部消化しなきゃ」
「その意気だよ」
コーラが弾けて、コーヒーが冷めて、それを挟んで笑い合う。桃のパフェの残り香が、鼻をくすぐった。瑞々しい甘い香りが、私たちを祝福してくれているようだった。
「ご注文がお決まりになりましたらタブレットからご注文ください」
店員が水とお手拭きを置いて背中を向けたその先に、彼の姿を見つける。いま店に到着したようだ。アッシュグレイのふわふわした髪と大きな瞳が、ひょっこりと私の前に現れる。
「お待たせ」
「五分遅刻。もう席通されちゃったよ」
「ラッキー」
綾部がゆっくりした動作で私の向かいの席に座り、店員が追加の水とお手拭きを置いて去っていく。二人でタブレットを隅から隅まで見て、季節限定の桃のパフェをまとめて頼んだ。
「同じもの頼むの? 違うの頼んだ方がシェアできたのに」
「でも僕らは自分が食べたいもの譲れないタチでしょう」
「ご名答」
桃が食べたいとお互いに思ったのだから、それぞれ桃を食べればそれでいいのだ。いつだって事はシンプルだ。
隣のテーブルにパスタが運ばれてくるのが見えて、その匂いを嗅いだ途端にしょっぱいものが欲しくなるのは、我ながら単純である。汗をかいたから塩分を欲しているのかもしれない。もう少し早くそのことに気付ければ、ポテトでも頼んだものを。
綾部の顔をじっと見た。半年ぶりに会えたのだからもっと感慨深い再会をすればいいものの、私たちらしいそっけない再会だ。海外の水は彼の身体に合っているのだろうか。肌質は荒れて見えないけれど、少し日に焼けたような気がする。
「久しぶりだねえ」
「ねえ。ろくにラインも返さないんだもの」
「たまには返してるじゃん」
「まあ綾部にそこは期待してないからいいんだけど」
パフェが運ばれてくる。どっしりとしたガラスの器に、白いクリームが花束のように咲いている。桃がふんだんに散りばめられていて、なんて贅沢なパフェだろう。
「わあ、おいしそう。いただきます」
「ファミレスでパフェだなんて、いつぶりだろう」
感慨深そうに目を細めて、銀の細長いスプーンを手に取った綾部は嬉しそうだ。私も桃を一口食べて、その甘さとジューシーさに舌鼓ををうった。
「あまくておいしい」
「ごちそうだよ」
「海外では食べないの?」
「食べようという気にならないから、あるのかもわからない」
「そっかあ」
ミントの葉を避けながら生クリームを掬い、頬いっぱいに甘さを広げた。チープなしあわせだが、こんなくらいのしあわせが日常には必要だと思う。
「今回はどこに行ってきたの?」
「ブログで見ているでしょう。かなめにつっこまれないよう、ちゃんと書いてるんだよ」
「知ってるよ、毎日見てるもん。それが生存確認になってるし」
ちゃんと本人の口からききたいんだよ、と言って、コーンフレークを噛みしめた。がりがりと砕かれていく食感を生クリームで流しながら、綾部の言葉を待つ。
「ウズベキスタンだよ。 アフガニスタンの近く」
「危なくないの?」
「比較的安全め。どちらかというと親日国だし」
「……どうだった?」
こういうときに、ありきたりな言葉でしか会話ができない己を呪う。もう一体、何年この暮らしをしているんだ。そろそろ会話のレパートリーが増えてもいいだろうに。私にとっての非日常を日常として暮らしている綾部に、どんな風に会話を切り出せばいいのか、いつも迷ってしまう。
「青の宮殿が、やっぱり綺麗だったよ。どこまでも溶けていきそうな青」
綾部がたまらなくおいしそうにパフェを食べながら遠くを見る。私はその様子を見ながら、「いいなあ」と思わずぽつりと漏らしていた。
「羨ましい」
「一緒に行こうよ」
「だから無理だって。私はちゃんと働いてるんだから」
「もう」
「あんたが変人なだけだからね。私が普通なの」
綾部と私は中高の同級生だ。中学二年の時、やけにうまがあって距離が縮まり、まあ、なんとなくそういうことになり、はっきりと恋人だと明言しないまま恋人のような気分でいた。
高校三年生になって、私は受験勉強に明け暮れていた。いい大学に行っていい会社に入ることがキマリゴトでアタリマエなんだと本気で信じていた。なのに、綾部はまったく焦る様子もなく、毎日をのんびりとすごしていた。それを見かねて、ある日私は切れ散らかした。自他境界があいまいな年頃だった。
「綾部は進学する気あるの? それとも就職? 何も考えてないんじゃないの?」
イライラしていた。自分はこんなに頑張っているのに、一緒に頑張ってくれないことに。今思えば一方的に押し付けていた感情にすぎないが、その傲慢な若々しさを、綾部はひょいと退けた。
「ちゃんと考えてるよ」
「はあ? 実家でも継ぐの?」
「僕は進学も就職もしない。継ぐような家業もないよ」
「じゃあ……」
「僕は旅に出る」
あまりにもあっけらかんと言うものだから、私は面食らってしまった。口をあけたまま固まってしまったのを覚えている。
「旅?」
「うん。世界中を」
「……現実逃避?」
「違うよ。本気。僕は何をやりたいんだろうって、本気で自分と向き合った結果」
ふざけているのではないことは、口調から伝わった。だからこそ動揺した。そんな夢物語を本気で叶えようとするやつだとは露ほども思っていなかった。彼はマイペースでくらげみたいなやつだけれども、世間に流されながらもしっかりと自分の意思を持って暮らしていくもんだとばかり思っていた。
世間に流されているのは、私だけだったのだ。彼は自分の足で、しっかりと立っていた。
「人生って一度しかないだろう。生きているうちに、世界中を見てみたいと思ったんだ」
「……ずっと、帰ってこないの」
「たまに日本には戻ってくるよ。稼ぎに」
「親は、何て言ってるの」
「大反対だったけど、諦めたみたい。はじめて説得というものをしてみた」
「……まあ、諦めるほかないか。私はいま、呆れてるけど」
「ちゃんと戻ってくるよ。かなめに会いに」
そうして彼は本当に、卒業式の次の日に旅立ってしまったのだった。何人かのクラスメイトで見送りに駅に行ったら、「どうも」と言っただけで、彼はごく普通の旅行かのような身軽さで、電車に揺られて消えていった。
私はせっかく受かった第一希望の大学でも、彼のいない孤独感を味わい続けることになる。頻繁にラインを送るが、返ってくる回数は徐々に減っていった。
綾部の最初の帰国で再会した際、私はとうとう寂しさを爆発させた。
「ラインを返さないなら、せめてブログ書いてよ」
「ええ。書いたことない」
「どうして旅を続けているか、その目的とか。どんな国のどんな地域に行っていて、どんな景色が広がっているのかとか。今日は何を食べたのかとか。綾部の見ているものを教えてよ。一緒に見たいよ、私も」
「……考えとく」
目をくりんと光らせた彼に、私はどうせ嘘だと思ったのだが、なんと綾部は次の旅から実際にブログ執筆をはじめることとなる。
はじめは拙かったが、そのうち執筆に慣れてきたのか魅力的な記事を書くようになった。現地の子供たちと触れ合っただとか、仲良くなった飲み屋のおじさんに成り行きで髪の毛を切ってもらったらとんでもないことになってしまっただとか。日本でも、彼の旅ブログは注目を集めるようになっていった。
綾部は様々な国に行っては、現地での仕事を見つけて生活費を賄っている。ホテルのベッドメイキングや厨房の皿洗いが主だ。単純そうな仕事だけれど、その日々の出来事どれもが面白く、安いホステルで出会った人々とのハートフルな会話も記事で読むたび笑ってしまう。
ラインの返事が返ってこなくなっても、私はそのブログ越しに、綾部を感じていた。
今日は半年ぶりの再会である。綾部は半年に一度、がっつりと金を稼ぐために帰国をして、短期間のバイトをぐわっとしてはまた海の向こうへ飛び立っていくサイクルだ。八月中は稼ぎ時だ、と彼は言う。
「今日もこのあとバイトなんでしょう?」
「うん。工事現場」
「暑いでしょう」
「慣れるよ。それに、穴掘るの好きなんだ」
「知ってる」
綾部は中高ずっと園芸部だった。土いじりが何よりも心が落ち着くと言っていたのを覚えている。
「八月中はずっといるの?」
「そのつもり。夏休み期間だから、どこ行っても旅行客で溢れてて、異国感ないしね」
「異国感」
なんだか語感が面白くて、私はくすくすと笑っていた。生クリームはだいぶ溶けて、コーンフレークといい具合に混ざり合っている。
「次はどこに行くの?」
「寒くなる前に北欧に寄りたいなあ。エストニアとか行きたい、戦火を潜り抜けた街並み」
「あんたってそんなに世界史得意だったっけ?」
「からっきしだよ? 僕のテストの点数が散々だったの覚えているでしょう」
好きなものへのあくなき探求心。彼のように生きられたらなあ、とやはり羨ましく思ってしまう。
「かなめはどうなの? 毎日」
冷房がすっかり肌を冷やして、すこし寒くなってしまった。私はこんな時のために、真夏でもカーディガンを持ち歩いている。だからカバンが大きくなるのだ。なんでそんなに荷物が多いのかとよく友人に揶揄されるが、夏はペットボトルも日焼け止めも虫よけも日傘も持ち歩かなければならないのだから、多くなるに決まっているじゃないか。
「ふつうだよ」
「ふつうじゃわからないよ。かなめはブログをやってないんだから、僕にはわからない。教えて」
じゃあもっとラインの返事をよこしたり、電話に出てくれたっていいじゃない、と言いそうになるのをぐっとこらえる。彼には彼のペースがあって、心情があって、私はそれを邪魔したいわけでは決してない。
「……灰色だよ。灰色の毎日」
「……おやまあ」
ガラスの器の底をスプーンで引っ掻きながら、私の声は暗かった。彼の前で弱音を吐いたって、何にもなりはしないのに。
「毎朝、起きるとまず絶望するの。ああ今日がやってきてしまったって。別になにがあるわけでもないけど……。第一志望の企業に就職した時は、よし頑張ろう、きらきらの毎日だって意気込んでたんだけど。そのはずだったんだけど。なんだか、先が……果てしなくて」
綾部が最後の桃を咀嚼している。ああ、桃になりたい。瑞々しくて栄養満点。綾部の腹を満たせる幸福の果物。
「残業もよくあるから、疲れちゃって……。それで帰宅して、やっとの思いでご飯食べてお風呂入ってさ。真っ暗な部屋で……アンタのブログを読むの」
「そのタイミングで見るの?」
「そう。綾部のブログを読んでると、私もその国に旅立ってるような感覚になれる。書いてって言ったのは私だけど、なんか、このブログを見ている誰のことも、どこへでも連れて行ってくれる、どこでもドアみたいな記事だなって思う。異世界の空気を一杯吸って、ああ世界はこんなにも広いんだ、って思ってから、寝てる。寝る前が一番幸福なんだ、私」
しゃべりすぎて喉が渇いた。タブレットからホットコーヒーを追加注文する。綾部に向けるとコーラを注文していた。パフェ後なのに身体は冷えないのだろうか。
「かなめは行きたい国とかないの?」
「ええ? なに急に。連れてってくれるの? 無理だよ、休めないもん」
「いいから。言うだけタダじゃん」
「そうだなあ……ベルギーとか行ってみたいなあ。友達がウエディングフォト撮りに行ってたんだ」
「いいね。世界一美しい広場とかあるよ。ノートルダム大聖堂とか」
「行きたいなあ。あとはありきたりだけど、ウユニ塩湖とか、オーロラとか」
「環境としては過酷だね、そこいらは」
「言うだけタダなんでしょう?」
私は力なく言った。だって、実際に行けないのだ。そんなに有給を使えない。ホットコーヒーが運ばれてくる。口をつけると、苦みが私を包む。
綾部はコーヒーを飲む私をじっと見つめてから、不意に私の手を取った。
「ね、それ、全部叶えようよ」
「ええ? だから、休めない……」
「仕事、辛いんでしょう。無理しているでしょう、顔に出ているよ」
綾部の透き通った瞳が、まっすぐに私を貫いた。いま温かい飲みものを飲んだばかりだというのに、うっすらと背中が冷えていく。
「かなめのことだから、ずっと我慢してきたんだろう。僕はこの通りだから、なかなか察してやれなかったけれど。かなめからめずらしく「会いたい」ってラインがきて、めったにそんなこと言わないから、これはSOSだと思って、飛んで帰ってきたんだよ」
「……旅の邪魔しちゃった」
「違うよ。あのね、僕の中には、ずっとかなめがいるの。どんな世界に飛んで立って、僕の心の中心には、ずっとかなめがいるんだ」
いい大学を出て、いい会社に入って。それで終わりだと思っていた。その先にまだ、人生が続くと思っていなかった。起きて、働いて、寝ることの繰り返しの日々。いったいなんのために働いているのかと問うのもやめた、答えがみつからないからだ。
「青の宮殿を見ている時に思ったんだ。ああ、一緒に見たいなあ。いま隣にいてくれたらなあって」
「……私だって、それができたらどんなにか」
「だから、一緒に旅をしようって」
「でも」
「これってプロポーズのつもりなんだけど」
「……え?」
何を言われたか一瞬、わからなかった。言葉が遅れて耳に届きだす。
「結婚しよう。それで、僕と一緒に旅をしてください」
綾部の手が、しっかりと私の手を握った。途端、私は動揺で動悸が激しくなる。
「な、なに」
「出版社から連絡がきたんだ。ブログを本にしませんかって。だから今度、本が出る」
「は?」
「けっこう大々的に広報してくれるみたいでさ。印税、しっかり入ってくる予想なんだよね」
「ちょっと待って、知らないんだけど」
「だからさ、少しはかなめのこと支えられると思うんだ。養えるほどかはわからないけど」
綾部の声は真剣だった。高三のあの時の声と一緒だ。未来をまっすぐに見据えている時の声。
「僕にブログを書けって言ってくれたのはかなめだよ。かなめが僕の人生の道を照らしてくれたんだよ」
「そんな大それたことは」
「ね、僕の隣を歩いてよ。世界中を見に行こう。驚くと思うよ、目も足りなければ時間も足りなくて。どこの国でも、朝日と夕日って美しいんだ。そういうのを、かなめと一緒に見ていたい。……結婚してください」
私の喉は驚きすぎて、何の声も発することができなかった。綾部に手を握られているせいで、頬を伝う雫を拭くことができず、煩わしかった。感動なのか、衝撃なのかもわからないまま、頷いた。心の中に湧いた嬉しいという気持ちに、素直に身体が動いた結果だった。
「ね、かなめ。どこに行きたい?」
「……ノイシュバンシュタイン城」
「ドイツか。どうして?」
「……ディズニープリンセスが、ずっと憧れだったの。いつか王子様が迎えにきてくれるって……」
「ここにいるよ。お待たせ」
視界が一気に滲んだ。綾部が手を解放してくれたので、大判のハンカチタオルで顔を拭った。こういうのを持ち歩いているからカバンが大きくなるというのに。
「私が綾部の隣にいて、いいの?」
「いいよ」
「会社、やめてもいいの?」
「いいよ。寿退社してやろうよ」
親は何と言うだろう。友人は何と言うだろう。大反対するかな。呆れるかな。普通というものに背を背ける人生に。私も説得というものをしてみよう。一度しかない人生で、朝日と夕日を見られる回数は有限なのだ。
「……世界中で、綾部と付き合い続けられる稀有な人って、私だけだと思ってたけど」
「極めちゃったね」
八年も経っちゃったよと皮肉交じりに言うと、綾部は少しだけ照れた様に、カバンをごそごそと漁り、小さな箱を取り出した。
「結婚指輪はまたちゃんと買うから」
ラピスラズリのついた指輪がちょこんと台座に座っていた。彼にしてはしっかりとしたプロポーズだ、思わず笑いながら私はそれを薬指にはめてもらって、新たな道が開けていくことを確信した。
灰色の毎日に、光が差した。いつだってその光は、ずっと私の隣に居てくれたのだ。そしてそれはこれからも、ずっと。やっぱり、いつだって事はシンプルなのだ。
「まずは溜まってる有給を全部消化しなきゃ」
「その意気だよ」
コーラが弾けて、コーヒーが冷めて、それを挟んで笑い合う。桃のパフェの残り香が、鼻をくすぐった。瑞々しい甘い香りが、私たちを祝福してくれているようだった。