夢短編
かなめ
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耐えきれなかった。このままこの地獄にいては、私が擦り切れてしまうと思った。
旦那は酷い酒呑みで、昨日の夜も私のことを殴っては、愚妻が、使えないやつめ、お前は俺がいなければ何の価値もない、と罵った。それらの言葉の刃は私の存在価値をぐさぐさと刺していって、流れる血に笑って輝く。
朝になると、旦那は私の顔の痣をなぞりながら、すまなかった、もうこんなことはしない、と泣くのだ。そうすれば私がこの人から逃げられなくなるとわかった上で。私は取繕った笑顔で、わかったわ、と答える。わかったわ、もうしないでね、と。
しかし、もう我慢の限界だった。組紐の内職で得た売上金をこっそり隠していたのを、全て掴む。旦那が帰ってくる前に家を飛び出した。ただ逃げるだけではしあわせになんてなれないことを知りながら。
あの旦那を消さねばならない。足を血まみれにしながら町をふたつ走り抜け、私はその結論に至った。陽はもうとっぷりと暮れ、どの店も閉まっている。町を抜けた山道にいるのなんて、私くらいだ。殺意を持った女が一人。
「ここにいると、危ないですよ」
突然の声に驚いて振り向くと、背の高い若者がいた。釣り目で凛々しい顔立ちなのが、暗闇でもわかる。
「たまに、山賊がこのあたりまで下りてくることがあります。女性一人では危険だ」
「……家に居る方が危険です」
「なにか事情がおありなのですね」
若者はうなずくと、道の脇の大石へ私を導いた。座ってみてはじめて、足がくたびれていることに気付く。
「長い距離を走って来たのですね」
「……ねえ、あなた。つかぬことをお伺いすることを許してね。もしかして忍者じゃないかしら」
跪いて私の足を診ていた若者は、驚いたように私を見上げ少し黙った後、観念したように立ち上がった。
「そりゃあバレますよね。音もなくあなたに近寄ってしまった」
「こんな夜中に出歩くなんておかしいもの。私もそのおかしい一人だけれど」
「……何が、あったのですか。私の秘密は打ち明けました。あなたの番です」
私は包み隠さず話した。どうせ顔の痣で察されている。旦那が酔うと私を殴ること、このままでは殺されることを打ち明けた。
「……これから、どうするのです」
「わかりません。名前を変えて、商売でもしようかしら。いつか、どうせバレるのでしょうけれど」
おてんとうさまは見ている。どんなに他人に成りすましても、私が私であることを。それならば、おてんとうさまがあの男を殺してくれればいいのに。
そこまで考えて、私は閃いた。全財産を包みから取り出し、若者に見せる。
「ねえ、忍者って、どんな依頼でも引き受けてくださるの」
「……内容によります」
「あの人を消して。あの人がいる限り、私は自由になれない」
「……高いですよ。こんなんじゃとても足りない」
「なんでもします。一生をかけてお支払いします。あなたに尽くします」
私は大石から降りて、地面に頭をこすりつけた。一縷の望みだった。藁にも縋る思いで、声を振り絞って懇願した。
「お願いします。出来ることならなんでもします。身体だって捧げます」
「頭をあげてください。そんなことは望んでいない」
若者は私の肩を掴むと抱き起し、額に着いた土を払った。きっと優しい人なのだろう。優しい忍者というのも、この世に存在するのか、と的外れなことを思っていると、若者は私の手元のお金を丁寧に包んで、懐に入れた。
「家を教えてください。その旦那さんは夜中は寝ていますか」
「……え」
「ご依頼、承りました。命からがら逃げてきて、土下座までするご婦人の願いを、誰が無碍にできますか」
「……ありがとうございます。恩に着ます」
家の場所を伝えると、若者はすぐに把握し、今夜中には遂行します、と心強い言葉を投げかけてくれた。
いざあの人が死ぬと思うと、心臓がばくばくと早鐘をうった。人が一人、この世から消えるのだ。直接手を下すのはこの若者でも、罪は全て私のものだ。おてんとうさまは、見ている。
「……今は太陽は出ていませんよ。町に戻って、宿に泊まりなさい。明日の朝、迎えに来ます」
「……いま、なんと」
「私に生涯尽くしてくださるのでしょう。その言葉、そのまま受け取りますよ」
にっこりと微笑んだ彼に、とくりと心が動いた。この方のためなら何でもしてみせよう。一度地獄を見て来たのだ、もう何だって乗り越えられる。
「お待ちしております。どうかご無事で」
「承知いたしました。あなたはぐっすりと眠りなさい。月はあなたの味方です」
「ありがとうございます……あの、あなたのお名前は」
「……明日の朝。あなたが自由の身になった際、明かします。その時、どうかあなたの名前も教えてください。では」
若者は、その場からぱっと消えた。今私が話していたのは、なにかのまやかしだっただろうか。いいえ、これは現実。私は痛む足を引きずりながら、町に戻り、宿の戸を叩いた。
おてんとうさま。おつきさま。どうか彼をお守りください。私の呪いを、業を引き受けてくださる彼を、どうか照らしてください。影なら私が請け負います。
寝床で、私は泣いた。泣くことを忘れていた身体は、堰を切ったように、とめどなく涙を溢れさせた。涙とは塩辛いということを思い出した。
今頃、あの若者は、あの人を。
旦那は酷い酒呑みで、昨日の夜も私のことを殴っては、愚妻が、使えないやつめ、お前は俺がいなければ何の価値もない、と罵った。それらの言葉の刃は私の存在価値をぐさぐさと刺していって、流れる血に笑って輝く。
朝になると、旦那は私の顔の痣をなぞりながら、すまなかった、もうこんなことはしない、と泣くのだ。そうすれば私がこの人から逃げられなくなるとわかった上で。私は取繕った笑顔で、わかったわ、と答える。わかったわ、もうしないでね、と。
しかし、もう我慢の限界だった。組紐の内職で得た売上金をこっそり隠していたのを、全て掴む。旦那が帰ってくる前に家を飛び出した。ただ逃げるだけではしあわせになんてなれないことを知りながら。
あの旦那を消さねばならない。足を血まみれにしながら町をふたつ走り抜け、私はその結論に至った。陽はもうとっぷりと暮れ、どの店も閉まっている。町を抜けた山道にいるのなんて、私くらいだ。殺意を持った女が一人。
「ここにいると、危ないですよ」
突然の声に驚いて振り向くと、背の高い若者がいた。釣り目で凛々しい顔立ちなのが、暗闇でもわかる。
「たまに、山賊がこのあたりまで下りてくることがあります。女性一人では危険だ」
「……家に居る方が危険です」
「なにか事情がおありなのですね」
若者はうなずくと、道の脇の大石へ私を導いた。座ってみてはじめて、足がくたびれていることに気付く。
「長い距離を走って来たのですね」
「……ねえ、あなた。つかぬことをお伺いすることを許してね。もしかして忍者じゃないかしら」
跪いて私の足を診ていた若者は、驚いたように私を見上げ少し黙った後、観念したように立ち上がった。
「そりゃあバレますよね。音もなくあなたに近寄ってしまった」
「こんな夜中に出歩くなんておかしいもの。私もそのおかしい一人だけれど」
「……何が、あったのですか。私の秘密は打ち明けました。あなたの番です」
私は包み隠さず話した。どうせ顔の痣で察されている。旦那が酔うと私を殴ること、このままでは殺されることを打ち明けた。
「……これから、どうするのです」
「わかりません。名前を変えて、商売でもしようかしら。いつか、どうせバレるのでしょうけれど」
おてんとうさまは見ている。どんなに他人に成りすましても、私が私であることを。それならば、おてんとうさまがあの男を殺してくれればいいのに。
そこまで考えて、私は閃いた。全財産を包みから取り出し、若者に見せる。
「ねえ、忍者って、どんな依頼でも引き受けてくださるの」
「……内容によります」
「あの人を消して。あの人がいる限り、私は自由になれない」
「……高いですよ。こんなんじゃとても足りない」
「なんでもします。一生をかけてお支払いします。あなたに尽くします」
私は大石から降りて、地面に頭をこすりつけた。一縷の望みだった。藁にも縋る思いで、声を振り絞って懇願した。
「お願いします。出来ることならなんでもします。身体だって捧げます」
「頭をあげてください。そんなことは望んでいない」
若者は私の肩を掴むと抱き起し、額に着いた土を払った。きっと優しい人なのだろう。優しい忍者というのも、この世に存在するのか、と的外れなことを思っていると、若者は私の手元のお金を丁寧に包んで、懐に入れた。
「家を教えてください。その旦那さんは夜中は寝ていますか」
「……え」
「ご依頼、承りました。命からがら逃げてきて、土下座までするご婦人の願いを、誰が無碍にできますか」
「……ありがとうございます。恩に着ます」
家の場所を伝えると、若者はすぐに把握し、今夜中には遂行します、と心強い言葉を投げかけてくれた。
いざあの人が死ぬと思うと、心臓がばくばくと早鐘をうった。人が一人、この世から消えるのだ。直接手を下すのはこの若者でも、罪は全て私のものだ。おてんとうさまは、見ている。
「……今は太陽は出ていませんよ。町に戻って、宿に泊まりなさい。明日の朝、迎えに来ます」
「……いま、なんと」
「私に生涯尽くしてくださるのでしょう。その言葉、そのまま受け取りますよ」
にっこりと微笑んだ彼に、とくりと心が動いた。この方のためなら何でもしてみせよう。一度地獄を見て来たのだ、もう何だって乗り越えられる。
「お待ちしております。どうかご無事で」
「承知いたしました。あなたはぐっすりと眠りなさい。月はあなたの味方です」
「ありがとうございます……あの、あなたのお名前は」
「……明日の朝。あなたが自由の身になった際、明かします。その時、どうかあなたの名前も教えてください。では」
若者は、その場からぱっと消えた。今私が話していたのは、なにかのまやかしだっただろうか。いいえ、これは現実。私は痛む足を引きずりながら、町に戻り、宿の戸を叩いた。
おてんとうさま。おつきさま。どうか彼をお守りください。私の呪いを、業を引き受けてくださる彼を、どうか照らしてください。影なら私が請け負います。
寝床で、私は泣いた。泣くことを忘れていた身体は、堰を切ったように、とめどなく涙を溢れさせた。涙とは塩辛いということを思い出した。
今頃、あの若者は、あの人を。