夢短編
かなめ
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限界を超えると虚無になるのか。知らなかった。ぶくぶくと風呂に沈んでいたところを綾部に救われた。リビングから何度呼びかけても返事がなかったため様子を見に来たとのことだった。あまりにも長時間湯船に浸かっていたせいで、頭がぼうっとする。
バスローブを身に纏い、ソファでまただばだばと涙を流していたら、綾部がバスタオルでごしごしと顔を拭ってくれた。乱雑なので痛かった。
今日は人生最悪の日だった。私が発端ではないミスで局長に長時間叱られ、お局に嫌がらせをされ、帰りの満員電車の中で痴漢にあった。吐き気と震えで駅から動けなくなってしまい、綾部に連絡をして迎えに来てもらった。私の両目から涙が止まらないのを見てただ事ではないと思ったのか、今日の綾部は献身的である。
「風邪引きますよ」
「うん……」
「髪の毛かわかしましょうか」
「うん……」
「まったく」
ドライヤーを洗面所から持ってきて、私の髪にタオルを当てながら、綾部は溜息をつく。こんな暮らしをし始めて、そろそろ一年だ。
綾部は高校の後輩だった。何を考えているのかさっぱりわからない子だった印象がある。卒業と大学進学で離れ離れになって、社会人になった頃にはすっかり存在も忘れていた。私はやっぱりその日も上司に叱り飛ばされて号泣し、そうだ、その日は生まれてはじめてヤケ酒をしたんだった。べろんべろんになりながら道で動けなくなっていたところを、たまたま通りすがった綾部に発見されたのだ。先輩? と声をかけてきた大きな瞳を見た瞬間から私は記憶を飛ばした。気が付くと自宅にいて、綾部が私を覗き込んでいた。
聞けば意識朦朧の私から何とか住所を聞きだして、タクシーで送ってくれたようだった。ジャケットを脱がせたり水を飲ませたりと、ずいぶん甲斐甲斐しく働いてくれたそうだ。目覚めた私は綾部に謝り倒して、連絡先を交換した。次は何かあったら私があなたを助けるから、と言って。そこからちょくちょく会うようになった――ということもなく、連絡はさっぱり来なかった。そこから数年後、私は順調に出世して、彼氏と同棲を始めるために引っ越したのだが、なんと引っ越して一週間目に彼氏にこっぴどく振られ、広い部屋だけ残された。私の方が収入があるから名義も私にしていたのだ。孤独の真っ只中、そういえばと思い綾部に「ここに引っ越しました」と連絡をすると、「行きます」とだけ返事がかえってきた。なんとなく、灯だ、と思った。
ただ単に会いに来るだけかと思ったら、綾部はスポーツバッグを背負って登場し、「今日からよろしくお願いします」とのたまった。
「だって先輩、ひとりでしょう?」
「え、あ、うん」
「じゃあ、僕がいてもいいですよね」
「え? え、なんで?」
「どうせこっぴどく振られたんでしょう。こんな広い家、ひとりじゃ寂しいんじゃないですか?」
「それはそうだけど」
「けってーい」
綾部はずかずかと部屋に入って、「わあひろい」とほざき、勝手にロフトを発見して「ここでいいです、僕」と言った。この間、約二分である。
何が何やらわからないまま、私は彼と暮らすことになった。
髪を乾かされながら、私はずずっと鼻をすすった。いい加減こんな会社を辞めてしまえばいいだけの話なのだが、どうせなら私に嫌がらせをしてきた全ての人を見下したいという野望のなか、昇進してやるという意気込みだけがある。負けず嫌いにも程がある。綾部の手が私の髪を梳くのを心地よく思いつつ、この甘やかな沼の果てがいつかくるのだろうかと怯えた。綾部はひととおりドライヤーをかけ終わると、私に「はい、おしまい」と言った。いつまでも続けばいいのに、と思った。
「ねえ、何かお話して」
「なんの話ですか」
「なんでも」
「……むかーしむかし、そのむかし。今からたぶん五百年前、僕と先輩は恋人同士でした」
「ふふ、またその話?」
綾部に話をせがむと、こうしていつも「前世の話」をしてくれた。聞くところによると私たちは忍者の卵だったらしく、綾部は常に穴を掘っていて、私はそこによく落ちていたのだとか。
「先に僕が穴の底にいても、決まって上から落ちて来るんです」
「不運なイサク先輩よりも?」
「そうです。伊作先輩よりも、僕の上に落ちて来るんです」
彼の口からは、いろんな学生の名前が聞けた。同じ部屋だったタキヤシャマルとか、ドケチなキリマルとか、聞くうちに覚えてきてしまった。
「先輩は穴のなかで、僕に『ふたりっきりだね』って言うんです。僕が『そうですね』と言うと、『ふふふ』って笑うんです。僕はそれがなんだか愉快で、嬉しくて、たまりませんでした。先輩は先に卒業してゆきました。最後に口吸いを一回だけして、それでおしまいでした。僕は先輩のことを、ずっと忘れませんでした。生まれ変わっても、ずっと」
「……うん」
「……おしまい」
「いつも、そこでおしまいなのね」
綾部の話は、ここで終わる。離れ離れになって、おしまい。その先を教えてくれることはなかった。二人とも立派な忍者になれたのだろうか。
「落ち着きましたか?」
いつのまにか、私の涙は止まっていた。うん、ありがとう、と答え、私はパジャマに着替える。綾部は私が買い与えたパジャマを着ているが、おそらく犬耳のついたかわいい着ぐるみパジャマとかを渡していたら、文句を言いつつもそれを着ていただろう。綾部は無職で、私が与えたもので生活をしている。
「ところで先輩。冷凍庫にハーゲンダッツがありますよ」
「私が買ったからねえ」
「頑張ったご褒美にどうぞ」
「私が買ったんだけどねえ」
「僕も食べます」
「私が買ったんだけどなあ」
二人でストロベリーと抹茶を食べた。深夜のハーゲンダッツは禁忌的で、背徳感を味わうのにぴったりだ。私たちはゆっくりゆっくりとスプーンを口に運んだ。溶けてしまったら、もう明日が来てしまうと思ったからだ。
綾部の頭を撫でた。なんだか遠い昔、彼の髪は長かった気がする。ふわふわにうねった毛を遊びながら、現世の彼と私は恋人にはならないのかな、と思いを馳せた。綾部は淡々と、ただ隣にいてくれる。それだけで充分だと思ってしまう。外の世界で戦って傷ついた私を癒してくれる存在。
「結局、約束を守れていないね、私」
「なんのことですか」
「次は何かあったら私があなたを助けるから、って言ったのに。救われてばっかり」
プラスチックのスプーンは儚い。力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。アイスの底をかりかりとしていた綾部は、その大きな瞳で私を見つめた。
「僕、ずーっと先輩に、救われてますよ」
今度は綾部が私の頭を撫でた。前世でもこうしてくれていたのだろうか。土の下で、ふたりっきりで。私たちはふふふと笑ってから、アイスのカップを捨てた。彼はロフトで、私はベッドで眠る。明日もまた、世界と戦う。
バスローブを身に纏い、ソファでまただばだばと涙を流していたら、綾部がバスタオルでごしごしと顔を拭ってくれた。乱雑なので痛かった。
今日は人生最悪の日だった。私が発端ではないミスで局長に長時間叱られ、お局に嫌がらせをされ、帰りの満員電車の中で痴漢にあった。吐き気と震えで駅から動けなくなってしまい、綾部に連絡をして迎えに来てもらった。私の両目から涙が止まらないのを見てただ事ではないと思ったのか、今日の綾部は献身的である。
「風邪引きますよ」
「うん……」
「髪の毛かわかしましょうか」
「うん……」
「まったく」
ドライヤーを洗面所から持ってきて、私の髪にタオルを当てながら、綾部は溜息をつく。こんな暮らしをし始めて、そろそろ一年だ。
綾部は高校の後輩だった。何を考えているのかさっぱりわからない子だった印象がある。卒業と大学進学で離れ離れになって、社会人になった頃にはすっかり存在も忘れていた。私はやっぱりその日も上司に叱り飛ばされて号泣し、そうだ、その日は生まれてはじめてヤケ酒をしたんだった。べろんべろんになりながら道で動けなくなっていたところを、たまたま通りすがった綾部に発見されたのだ。先輩? と声をかけてきた大きな瞳を見た瞬間から私は記憶を飛ばした。気が付くと自宅にいて、綾部が私を覗き込んでいた。
聞けば意識朦朧の私から何とか住所を聞きだして、タクシーで送ってくれたようだった。ジャケットを脱がせたり水を飲ませたりと、ずいぶん甲斐甲斐しく働いてくれたそうだ。目覚めた私は綾部に謝り倒して、連絡先を交換した。次は何かあったら私があなたを助けるから、と言って。そこからちょくちょく会うようになった――ということもなく、連絡はさっぱり来なかった。そこから数年後、私は順調に出世して、彼氏と同棲を始めるために引っ越したのだが、なんと引っ越して一週間目に彼氏にこっぴどく振られ、広い部屋だけ残された。私の方が収入があるから名義も私にしていたのだ。孤独の真っ只中、そういえばと思い綾部に「ここに引っ越しました」と連絡をすると、「行きます」とだけ返事がかえってきた。なんとなく、灯だ、と思った。
ただ単に会いに来るだけかと思ったら、綾部はスポーツバッグを背負って登場し、「今日からよろしくお願いします」とのたまった。
「だって先輩、ひとりでしょう?」
「え、あ、うん」
「じゃあ、僕がいてもいいですよね」
「え? え、なんで?」
「どうせこっぴどく振られたんでしょう。こんな広い家、ひとりじゃ寂しいんじゃないですか?」
「それはそうだけど」
「けってーい」
綾部はずかずかと部屋に入って、「わあひろい」とほざき、勝手にロフトを発見して「ここでいいです、僕」と言った。この間、約二分である。
何が何やらわからないまま、私は彼と暮らすことになった。
髪を乾かされながら、私はずずっと鼻をすすった。いい加減こんな会社を辞めてしまえばいいだけの話なのだが、どうせなら私に嫌がらせをしてきた全ての人を見下したいという野望のなか、昇進してやるという意気込みだけがある。負けず嫌いにも程がある。綾部の手が私の髪を梳くのを心地よく思いつつ、この甘やかな沼の果てがいつかくるのだろうかと怯えた。綾部はひととおりドライヤーをかけ終わると、私に「はい、おしまい」と言った。いつまでも続けばいいのに、と思った。
「ねえ、何かお話して」
「なんの話ですか」
「なんでも」
「……むかーしむかし、そのむかし。今からたぶん五百年前、僕と先輩は恋人同士でした」
「ふふ、またその話?」
綾部に話をせがむと、こうしていつも「前世の話」をしてくれた。聞くところによると私たちは忍者の卵だったらしく、綾部は常に穴を掘っていて、私はそこによく落ちていたのだとか。
「先に僕が穴の底にいても、決まって上から落ちて来るんです」
「不運なイサク先輩よりも?」
「そうです。伊作先輩よりも、僕の上に落ちて来るんです」
彼の口からは、いろんな学生の名前が聞けた。同じ部屋だったタキヤシャマルとか、ドケチなキリマルとか、聞くうちに覚えてきてしまった。
「先輩は穴のなかで、僕に『ふたりっきりだね』って言うんです。僕が『そうですね』と言うと、『ふふふ』って笑うんです。僕はそれがなんだか愉快で、嬉しくて、たまりませんでした。先輩は先に卒業してゆきました。最後に口吸いを一回だけして、それでおしまいでした。僕は先輩のことを、ずっと忘れませんでした。生まれ変わっても、ずっと」
「……うん」
「……おしまい」
「いつも、そこでおしまいなのね」
綾部の話は、ここで終わる。離れ離れになって、おしまい。その先を教えてくれることはなかった。二人とも立派な忍者になれたのだろうか。
「落ち着きましたか?」
いつのまにか、私の涙は止まっていた。うん、ありがとう、と答え、私はパジャマに着替える。綾部は私が買い与えたパジャマを着ているが、おそらく犬耳のついたかわいい着ぐるみパジャマとかを渡していたら、文句を言いつつもそれを着ていただろう。綾部は無職で、私が与えたもので生活をしている。
「ところで先輩。冷凍庫にハーゲンダッツがありますよ」
「私が買ったからねえ」
「頑張ったご褒美にどうぞ」
「私が買ったんだけどねえ」
「僕も食べます」
「私が買ったんだけどなあ」
二人でストロベリーと抹茶を食べた。深夜のハーゲンダッツは禁忌的で、背徳感を味わうのにぴったりだ。私たちはゆっくりゆっくりとスプーンを口に運んだ。溶けてしまったら、もう明日が来てしまうと思ったからだ。
綾部の頭を撫でた。なんだか遠い昔、彼の髪は長かった気がする。ふわふわにうねった毛を遊びながら、現世の彼と私は恋人にはならないのかな、と思いを馳せた。綾部は淡々と、ただ隣にいてくれる。それだけで充分だと思ってしまう。外の世界で戦って傷ついた私を癒してくれる存在。
「結局、約束を守れていないね、私」
「なんのことですか」
「次は何かあったら私があなたを助けるから、って言ったのに。救われてばっかり」
プラスチックのスプーンは儚い。力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。アイスの底をかりかりとしていた綾部は、その大きな瞳で私を見つめた。
「僕、ずーっと先輩に、救われてますよ」
今度は綾部が私の頭を撫でた。前世でもこうしてくれていたのだろうか。土の下で、ふたりっきりで。私たちはふふふと笑ってから、アイスのカップを捨てた。彼はロフトで、私はベッドで眠る。明日もまた、世界と戦う。