生きてるだけで万々歳
かなめ
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血の匂いで起きた。明け方、まだ太陽が昇りきらない時間。人の気配がする。
私は寝間着のまま苦無を持ち、家の戸をあけた。見ると、戸の前に人がうずくまっている。血みどろだ。命からがら逃げてきたのか、それともそうやって私に付け入る術か――注意深く見つめていると、その人間は顔をあげた。
「文次郎!」
「かなめ」
「なにしてるの! はやく入って」
見かけの痛々しさとは裏腹に、文次郎は軽々と立って我が家に入る。なんだ、これは返り血か。文次郎自身は深い怪我をしていないとのことだった。囲炉裏に火を焚き、服を脱がせ、汲み置きの水で身体を拭かせた。
「城からここまで一目散に駆けてきてしまってな。気付いたら心臓が口から飛び出そうで、息を整えてから家に入ろうと」
「どれだけ走ったの、もう」
伊作特性の塗り薬を、文次郎の身体のあちこちに塗る。沁みて痛そうだが、ここは心を鬼にするしかない。ある程度包帯を巻いたら伊作が置いて行った服に着替えさせた。
「報告を済ませてこその忍務完了じゃないの、ここに立ち寄って平気だった?」
「ああ、報告までは済ませてあるぞ。その上で追手がしつこかったのだ」
「そう……お疲れ様」
じゃあこの血はその追手の血か。文次郎を狙うだなんて運のつき。さくらが私たちの会話に気付いて、ほにゃほにゃと泣きだした。
「俺に抱かせてくれ」
「……いいよ」
文次郎にさくらを渡すと、血の匂いか薬の匂いかが嫌なのだろう、余計あばれてしまう。けれど文次郎はとろけた顔でさくらを見下ろしていた。ここまでの満面の笑みはなかなか見ることが出来ない。
前に留三郎が言っていた。生きることについて考えるようになったと。たぶん、文次郎もそうなんじゃないかと思った。今しがた命のやりとりをしてきたから、愛に育まれているこの子の存在が恋しくなったんじゃないかと。
文次郎の隣に座って、頭を凭せ掛ける。
「……生きててよかった」
「ああ。こうして二人の顔が見れた。やっと安心できた」
硝煙の匂いも微かにする。これはさくらは嫌がるだろう。おぎゃおぎゃと暴れるさくらを、文次郎はたかいたかいをしてあやす。
「あばばばばー」
おでことおでこをくっつけて愛しそうに笑う文次郎を見ていると、いったいどっちがあやされているんだか、と面白くなってしまった。私がからからと笑いだすと、文次郎はなんだなんだといぶかしげにする。
「俺がさくらをあやしちゃいかんか」
「いいのよ。いいの。たくさんあやして」
「言われなくたって。なー、さくらー」
「あきゃあ」
さくらもいつのまにか笑っていた。文次郎の逞しい眉毛を触って喜んでいる。文次郎はされるがままで、あいかわらずでれでれとしていた。
彼ら六人の中で、一番さくらにめろめろなのが文次郎だ。誰もいない時にこっそりこの家にやって来ては、とても人前では見せない表情でさくらをあやしていく。彼の変顔のレパートリーはどんどん増えていく。
さくらがすっかりごきげんになったところで、文次郎は私の方を向いた。いつもの精悍な顔つきに戻っていたので、私も慌てて顔を引き締める。
「かなめ。このまま、ひとりで育てていけそうか」
「う、うん。みんなが助けてくれるし、なんとか」
「そうか。……前も言ったが、父親が必要になったら、いつでも言うんだぞ。俺が……俺たち皆が、力になる」
「……ありがとう」
文次郎は私の頭をぽんぽんと撫でた。傷だらけの手。必死に生き延びて、ここまで帰ってきてくれた手。私はその手を取って、ひとつひとつの傷を撫でた。彼の生きてきた証はあたたかかった。
「ていうかもう、みんながお父さんのつもりで接してくるじゃない。さくら、たぶん大混乱だよ」
「む……」
文次郎はなんとも言えない表情になってかたまったかと思うと、ふい、とさくらの腹に顔を埋めた。きゃあきゃあとさくらは笑う。ごきげんならなによりだ。
「さくらは嫁にやらん……誰にも渡さん……」
「気が早いなこの人……」
さくらを抱きしめた文次郎につっこみながら、私は朝食の用意をはじめる。市場のおばちゃんから玄米をたくさん貰ったのだ。ここに来る男子たちに食べてもらわないと一向になくならない。手伝って、と言おうとしたけれど、やめた。さくらに無理やり頬ずりしている文次郎は、さくらがかわいいということではなく、自分が生きて帰れたことの喜びも噛みしめているのだろう。そっとしておこう。
さくらがほにゃほにゃと泣きだしたので、ああお乳かな、と文次郎からさくらを受け取った。その場でお乳をあげようと着物の前をくつろげると、文次郎が慌ててそっぽをむく。
「今更じゃない?」
「お前に恥ずかしい思いをさせたくない」
「別にいいよ。ほら」
おそるおそる、といった様子で、文次郎は振り返った。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、父親を名乗りたいのなら堂々としていてよいのに、と思う。あの戦場でほとんど全裸を見られているので、今更なにも感じない。
「……かわいいなあ」
一所懸命に吸い付くさくらの必死そうな顔を見て、文次郎はまた顔を綻ばせた。生命の神秘よねえ、と私は相槌をうつ。私の身体でお乳が作られて、それを飲んで、すくすくと大きくなっていくだなんて。人間を育てるというのは不思議で面白い。
「……俺もこうやって生まれて、育ってきたんだなあ」
文次郎は、さくらごと私を抱きしめた。さくらはそんなことおかまいなしに私に吸い付いている。私は文次郎の目の下の隈が一際濃くなっているのを間近で見て、「ちゃんと寝てね」と言った。
「朝ごはんが出来るまで、寝てたら」
「いや。さくらを見ていたい」
ひどくやさしい声だった。お乳を飲み終えたさくらを文次郎に渡すと、文次郎はさくらの背をとんとんと叩いた。教えたことがしっかり身についている。赤ちゃんは自分でげっぷができないから、息を吐き出す手伝いをしてやらないといけない。
私はカブの漬けたのを切りながら、いつまでもみんなが健康でありますようにと祈った。
生きているだけで万々歳なのだ。かつて私がみんなにそう言われたように。さくらが生まれてきたときにそう言われたように。
庭の桜が満開だった。はらりと一枚、どこからか花びらが部屋の中に舞い込んだ。さくらがはくしゅん、と小さなくしゃみをした。
私は寝間着のまま苦無を持ち、家の戸をあけた。見ると、戸の前に人がうずくまっている。血みどろだ。命からがら逃げてきたのか、それともそうやって私に付け入る術か――注意深く見つめていると、その人間は顔をあげた。
「文次郎!」
「かなめ」
「なにしてるの! はやく入って」
見かけの痛々しさとは裏腹に、文次郎は軽々と立って我が家に入る。なんだ、これは返り血か。文次郎自身は深い怪我をしていないとのことだった。囲炉裏に火を焚き、服を脱がせ、汲み置きの水で身体を拭かせた。
「城からここまで一目散に駆けてきてしまってな。気付いたら心臓が口から飛び出そうで、息を整えてから家に入ろうと」
「どれだけ走ったの、もう」
伊作特性の塗り薬を、文次郎の身体のあちこちに塗る。沁みて痛そうだが、ここは心を鬼にするしかない。ある程度包帯を巻いたら伊作が置いて行った服に着替えさせた。
「報告を済ませてこその忍務完了じゃないの、ここに立ち寄って平気だった?」
「ああ、報告までは済ませてあるぞ。その上で追手がしつこかったのだ」
「そう……お疲れ様」
じゃあこの血はその追手の血か。文次郎を狙うだなんて運のつき。さくらが私たちの会話に気付いて、ほにゃほにゃと泣きだした。
「俺に抱かせてくれ」
「……いいよ」
文次郎にさくらを渡すと、血の匂いか薬の匂いかが嫌なのだろう、余計あばれてしまう。けれど文次郎はとろけた顔でさくらを見下ろしていた。ここまでの満面の笑みはなかなか見ることが出来ない。
前に留三郎が言っていた。生きることについて考えるようになったと。たぶん、文次郎もそうなんじゃないかと思った。今しがた命のやりとりをしてきたから、愛に育まれているこの子の存在が恋しくなったんじゃないかと。
文次郎の隣に座って、頭を凭せ掛ける。
「……生きててよかった」
「ああ。こうして二人の顔が見れた。やっと安心できた」
硝煙の匂いも微かにする。これはさくらは嫌がるだろう。おぎゃおぎゃと暴れるさくらを、文次郎はたかいたかいをしてあやす。
「あばばばばー」
おでことおでこをくっつけて愛しそうに笑う文次郎を見ていると、いったいどっちがあやされているんだか、と面白くなってしまった。私がからからと笑いだすと、文次郎はなんだなんだといぶかしげにする。
「俺がさくらをあやしちゃいかんか」
「いいのよ。いいの。たくさんあやして」
「言われなくたって。なー、さくらー」
「あきゃあ」
さくらもいつのまにか笑っていた。文次郎の逞しい眉毛を触って喜んでいる。文次郎はされるがままで、あいかわらずでれでれとしていた。
彼ら六人の中で、一番さくらにめろめろなのが文次郎だ。誰もいない時にこっそりこの家にやって来ては、とても人前では見せない表情でさくらをあやしていく。彼の変顔のレパートリーはどんどん増えていく。
さくらがすっかりごきげんになったところで、文次郎は私の方を向いた。いつもの精悍な顔つきに戻っていたので、私も慌てて顔を引き締める。
「かなめ。このまま、ひとりで育てていけそうか」
「う、うん。みんなが助けてくれるし、なんとか」
「そうか。……前も言ったが、父親が必要になったら、いつでも言うんだぞ。俺が……俺たち皆が、力になる」
「……ありがとう」
文次郎は私の頭をぽんぽんと撫でた。傷だらけの手。必死に生き延びて、ここまで帰ってきてくれた手。私はその手を取って、ひとつひとつの傷を撫でた。彼の生きてきた証はあたたかかった。
「ていうかもう、みんながお父さんのつもりで接してくるじゃない。さくら、たぶん大混乱だよ」
「む……」
文次郎はなんとも言えない表情になってかたまったかと思うと、ふい、とさくらの腹に顔を埋めた。きゃあきゃあとさくらは笑う。ごきげんならなによりだ。
「さくらは嫁にやらん……誰にも渡さん……」
「気が早いなこの人……」
さくらを抱きしめた文次郎につっこみながら、私は朝食の用意をはじめる。市場のおばちゃんから玄米をたくさん貰ったのだ。ここに来る男子たちに食べてもらわないと一向になくならない。手伝って、と言おうとしたけれど、やめた。さくらに無理やり頬ずりしている文次郎は、さくらがかわいいということではなく、自分が生きて帰れたことの喜びも噛みしめているのだろう。そっとしておこう。
さくらがほにゃほにゃと泣きだしたので、ああお乳かな、と文次郎からさくらを受け取った。その場でお乳をあげようと着物の前をくつろげると、文次郎が慌ててそっぽをむく。
「今更じゃない?」
「お前に恥ずかしい思いをさせたくない」
「別にいいよ。ほら」
おそるおそる、といった様子で、文次郎は振り返った。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、父親を名乗りたいのなら堂々としていてよいのに、と思う。あの戦場でほとんど全裸を見られているので、今更なにも感じない。
「……かわいいなあ」
一所懸命に吸い付くさくらの必死そうな顔を見て、文次郎はまた顔を綻ばせた。生命の神秘よねえ、と私は相槌をうつ。私の身体でお乳が作られて、それを飲んで、すくすくと大きくなっていくだなんて。人間を育てるというのは不思議で面白い。
「……俺もこうやって生まれて、育ってきたんだなあ」
文次郎は、さくらごと私を抱きしめた。さくらはそんなことおかまいなしに私に吸い付いている。私は文次郎の目の下の隈が一際濃くなっているのを間近で見て、「ちゃんと寝てね」と言った。
「朝ごはんが出来るまで、寝てたら」
「いや。さくらを見ていたい」
ひどくやさしい声だった。お乳を飲み終えたさくらを文次郎に渡すと、文次郎はさくらの背をとんとんと叩いた。教えたことがしっかり身についている。赤ちゃんは自分でげっぷができないから、息を吐き出す手伝いをしてやらないといけない。
私はカブの漬けたのを切りながら、いつまでもみんなが健康でありますようにと祈った。
生きているだけで万々歳なのだ。かつて私がみんなにそう言われたように。さくらが生まれてきたときにそう言われたように。
庭の桜が満開だった。はらりと一枚、どこからか花びらが部屋の中に舞い込んだ。さくらがはくしゅん、と小さなくしゃみをした。