留伊

 白ウサギがいたから、追いかけなくちゃ、と思った。
 どうにも乱太郎の気がするけれど、彼――ウサギは保健室を飛び出して、急がなきゃ、急がなきゃと呟いていた。走るのがずいぶんと早い、あっという間に裏山に来てしまう。
「待ってよ、白ウサギ!」
 まだ委員会の仕事が終わっていない。仕事を頼みたい……ええと、何の仕事だっけ? とにかく僕は、ウサギを捕まえなくちゃいけない。
「そんなに走っていると転ぶぞ」
 上から声が降ってきた。僕が気配に気付かないだなんて、と慌てて上を見上げると、猫のような仙蔵が伸びをしている。どうして彼がここへ? そして、どうして猫だなんて思ったのだろう?
「ねえ仙蔵、白ウサギをみかけなかった?」
「それなら、こっちの道をまっすぐだ。そんなことより伊作、もっと会うべき人がいるのではないか?」
「会うべき人……?」
「お前は自分の気持ちに蓋をしている。私には隠したって無駄だぞ」
「なんの、ことだい?」
「まだるっこしい。早く自分の気持ちに気付くんだな。そうしたら白ウサギのように、時間に追われるだなんてことはなくなる」
 そうだ、白ウサギ! 僕は仙蔵にお礼を言ってその場を後にする。仙蔵は「私を退屈させてくれるなよ」と言った。彼はいつも僕たちのことに首をつっこんで引っ掻き回すんだから――僕たち? ええと、僕と、誰のことだっけ?
「白ウサギー!」
 山のてっぺんに着くと、そこは一面花畑だった。こんな花畑あったっけ? 聞きなれた歌が聴こえてくる。どうやら花々が歌っているようだ。
「ほうたいはー、しっかりまいても、きつすぎずー」
「……伏木蔵!」
 伏木蔵は花冠を編んでいた。「あ、伊作先輩~」と僕に気付くと、その手元の花冠を完成させて、僕の頭に乗せてくる。美しい香りがふわっと僕を包んだ。
「おまじないです~。早く伝えられるといいですね~」
「誰に、何を?」
 僕はまた混乱する。でも彼が僕におまじないをしてくれたことが嬉しくて、頭をよしよしと撫でた。伏木蔵は嬉しそうに笑うと、近くの林を指さす。
「あっちにトカゲさんがいるので、そこでウサギさんのことがわかるかもしれないです~」
 伏木蔵にお礼を良い、花畑を横切って、林の方へ向かった。こんなに木々が生い茂っているなら、今度薬草摘みに来てもいいかもしれない。彼も手伝ってくれるだろうか――あれ、彼って誰だっけ?
「伊作くん」
「わあっ!」
 にゅっと上から、雑渡さんが現れた。彼はいつも神出鬼没だ。トカゲの雑渡さんは僕の頭、花の冠を指さして笑った。
「ずいぶん可愛らしいものをつけてるね、アリス」
「アリス?」
「白ウサギを追いかけているのだろう? この先に行くには、自分に素直にならないといけないよ」
 雑渡さんは僕の手を取り、袖を捲った。つい先日の不運で、そこには包帯が巻かれている。たしか保健委員の誰もいなくて、利き手だからうまく巻けなくて、彼に巻いてもらった……彼って、誰だっけ。
「深層心理に潜るには、いろいろな覚悟が必要だ。自覚をするのも怖いかもしれない。けれど私は、伊作くんの味方だからね。道を教えてあげよう」
 雑渡さんは僕の腕をそのまま掲げ、右の道を示した。そうか、こっちが僕の行くべき道か。なんとなくおどろおどろしい空気が纏わりつく気配がする。けれどこんなもの、いつもの不運に比べたらマシだ。
 雑渡さんはいつのまにか消えていた。僕は深呼吸をして、一歩、また一歩と草木を掻き分けて進んだ。
 道が開けると、そこには城があった。門番兵が二人、僕を待ち構えている。
「伊作! ここから先は通さないぞ!」
「もそ」
 小平太と長次が僕を狙う。そんな、僕、なにもしていないのに。トランプ兵二人の攻撃を避けながら、僕は必死に懇願した。
「会いたい人がいるんだ! 会わなきゃいけないんだ!」
「それは白ウサギか?」
「違う、僕の大切な人に!」
 小平太が苦無の攻撃をぴたりと止めた。長次もそれに合わせて、ぐるぐると回していた縄鏢を巻き取る。二人は顔を見合わせてから、僕の顔を覗き込んだ。
「自覚してきたみたいだな」
 長次がそう言って、門を開けた。こんなに簡単に通って良いのか? 戦々恐々としながら、僕は門をくぐる。
 城の中では、戦いが行われていた。矢が飛び交い、火が飛び交っている。庭の椿が真っ赤だった。
「あれ? この椿だけ、色が白い」
 一輪だけ白く光る椿を見つけ、目が引かれる。血に染まっていない椿は凛と咲いていて、どこか彼のようだった。
「伊作! おまえええ!」
「げっ、文次郎!?」
 文次郎が僕めがけて、袋槍を振り下ろした。地面が割れて、僕は空中を必死に泳ぐ。
「君がハートの女王なの!?」
「伊作、お前、いつになったら自分の気持ちを伝えるのだ! あれはもう待ちきれなくなっているぞ!」
「あれって!?」
 あいにく、空中戦では僕は不利だ。石も枝も落ちてないし、コーちゃんの大腿骨もない。僕は必死に文次郎の攻撃をかわし続けた。
「あいつもにぶいが、伊作はもっとにぶい! ここのところ、あいつは鍛錬に身が入っていない! まだるっこしい!」
 チェシャ猫の仙蔵にも同じことを言われたな、まだるっこしい。僕たちには僕たちのペースがあるというのに。……僕、たち。
「あいつもいい加減にしろー!! 伊作を傷つけるな!」
 文次郎が両手を振りかざしたところで、僕は彼に体当たりした。よろめく文次郎に、声の限りを叫ぶ。
「あの人のことを悪く言わないで! 僕の大切な同室なんだ!」
 文次郎が動きを止める。小平太たちと同じように、僕の顔を覗き込んだ文次郎は、バンバンと僕の肩を叩いた。
「あいつに言ってやれ。そのまま、想いの丈を」
「……うん!」
 そのまま僕は、今来た道を駆けていった。合戦場、門、林、花畑、獣道。出会ってきた全員、笑顔だった。僕はまた大きく深呼吸をして、穴に飛び込む。どこまでもどこまでも落ちていくので、手足をばたばたと暴れさせた。
「――さく。おい、伊作!」
 揺り起こされて目が覚めると、目の前に留三郎がいた。なんだか必死そうな顔だ。
「お前、どうして庭で倒れてるんだ。頭にこんなに花なんかつけちまって、どこに行ってたんだ」
「あれ、僕……」
 髪から、はらりと花が落ちてきた。留三郎はきょとんとする僕を立ち上がらせて、やれやれと笑う。
「ほら、帰るぞ。俺たちの部屋に」
「待って、留三郎。僕、どうしても君に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
 びゅう、と風が大きく舞った。木々が騒めき、草が揺れる。僕らは風の渦の真ん中で見つめ合っていた。世界に二人っきりな気がした。
「僕、留三郎のことが、好きだ」
 留三郎はしばらく固まったのち、顔を真っ赤に染めて、そしてまた固まった。僕はなんだか随分と長い旅をしてきたような心地で、ひどく疲れてしまったので、気が抜けて笑えてきてしまった。僕の笑顔につられて、留三郎も笑いだす。
「おせえよ!」
 世界に二人っきりだと思っていたのに、この出来事は皆に見られていたようで、さんざん揶揄われたけれど。僕たちはしあわせだった。そうだ、お茶を飲みに行こう。きっと茶柱がたつよ。留三郎は僕の髪から花を取りながら、もちろん、と笑った。
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