留伊

 一月はいつも晴れている気がする。今日は久しぶりの大雨だった。たぶん伊作が折り畳み傘を家に忘れたのだろう。そういうヤツだ、あいつは。
 食堂で伊作の講義が終わるのを待っていると、たら、と鼻水が垂れる感覚がした。慌ててティッシュで押さえたが、付いていたのは血だった。鼻血など出すのはいつぶりだろうか、中学生の時にサッカーをしていて顔から転んだ時以来ではないだろうか。ノートについてしまわないよう、鼻にぐりぐりとティッシュを詰める。
「お待たせ、留……わ、どうしたの」
「鼻血」
「何かエロいことでも考えてたの?」
 伊作はそう笑いながら、鼻血は絆創膏じゃ治せないからなあ、と言って俺の向かいの席に座った。さああ、と外から大量の雨の音が聞こえる。窓ガラスがびしょびしょに濡れていて、なにかのアトラクションみたいだ。食堂は照明が煌々と眩しいものの、湿った空気が籠っていて、少しだけ息苦しかった。
「英語の課題が意味わかんなくて、唸ってたら出た」
「脳の血管がブチ切れたのかな」
「怖いこと言うなよ……」
 医学部の伊作が言うと、なんだかとんでもない病気のような気がする。だがそんなものは杞憂で、しばらく談笑しているうちに鼻血はおさまった。ティッシュをまとめてゴミ箱に捨て、手を洗い顔を洗い、雨に打たれたかのような姿で席に戻ると、伊作のびっくり顔を拝めた。俺は作戦通り、とほくそ笑む。
「ハンカチ持ってなかったの?」
「持ってるさ。伊作びっくり作戦だ」
「風邪引くよ、もう」
 やれやれと笑う伊作も英語の課題に苦戦していた。二人して電子辞書と睨めっこし、ああでもないこうでもないとシャーペンを走らせる。ある程度ノートを埋めたところで、俺も伊作も集中力が切れた。
 人工的な光を放つ自動販売機でホットのお茶を買い、言葉を交わすでもなくぼうっとする時間。伊作といると、こういう時間を過ごせるから気が楽だ。それぞれがそれぞれの時間を過ごしていても苦痛がない。
「……雨、やまないね」
「そうだな。購買で傘買うか?」
「僕のことだから、もう売り切れてそうだなあ」
 遠い目をする伊作の前髪をくしゃりと撫でた。ふわふわの伊作の髪はすこしだけ湿り気を帯びていて、しっとりと指になじむ。
「駅まで傘に入れてやるよ」
「ありがとう、いつも」
「気にするな」
 帰り支度をして、上着を羽織る。マフラーでもこもこになった伊作はかわいらしかった。このマフラーも、この冬で三つ目らしい。いつ失くすか分からないから、安いのでいいんだ、と笑っていた。
 雨は止むどころか、ますます強くなっていた。俺と伊作はぎゅうぎゅうと身を寄せ合いながら、ひとつの傘をさして走った。ズボンの裾がどんどん重くなっていく。
「ねえ、留三郎」
「どうした?」
「いっそさ、濡れない?」
「はあ? お前、さっき俺に風邪引くって」
 伊作はぱっと俺の傘から身体を出すと、容赦のない雨に両手を広げた。あっというまにコートの色が変わっていく。
「なんか、みーんな洗い流せる気がするよ!」
「……なら俺も!」
 傘を閉じた瞬間、全身が濡れる。でも、伊作が笑うから、なんだか寒くない。お互いの髪がぺしゃんこになるのをけらけらと笑い飛ばしながら、駅まで走る。
「傘持ってるのにささないって、馬鹿みたいだな」
「留三郎は馬鹿じゃないよ、英語終わらせてたじゃん」
「その馬鹿じゃないって」
 雨に掻き消されないように大声で会話をしているうちに、大通りに出た。車のライトが雨に反射して、舞台のスポットライトのようだ。その中に躍り出ないよう、赤信号の合間に、俺たちは手を繋ぐ。
 みんな、下を向いて歩いている。傘に隠れて、誰も俺たちのことなど気にしない。こんな時くらいしか、手を繋げないのだ。なんならキスまでしてしまいたい。さすがに大通りだからしないけれど。
 駅までたどり着いた時には、二人とも凍えそうだった。それでもおかしくて楽しくて、電車の中でもずっと笑っていた。伊作が先に電車を降りるので、マフラー失くさないようにな、と声をかける。
『みーんな洗い流せる気がするよ!』
 そう言って濡れていく伊作の笑顔を思い出しながら、おおきなくしゃみをひとつした。伊作は何を洗い流したかったのだろうか。俺の知らない伊作が、まだまだたくさんいる。知っていきたい、と手のひらを見つめた。伊作の手はこんな雨の中でもあたたかかった。
 翌日二人して熱を出し、英語の課題がおじゃんになったのは、後々の笑い話となる。
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