留伊

 伊作が七味をぶちまけた。その涙は不運に対してなのか七味の刺激からきたのかわからないけれど、「すまない留三郎」と泣かれれば、「気にするな」と言うほかない。くしゃみは仕方がない。俺はコードレスの掃除機を持ってきて、リビングを掃除する。
 豚汁は会心の出来だった。豚の旨味がよく出ていて、玉ねぎもとろとろだ。これで飯をかっこめば立派な夕飯となる。俺たちはある程度七味を片付けたところで食卓についた。
「それでね、長次が、ペペロンチーノにチーズをかけるのはありなのかって、小平太に怒ったんだって」
「なんだそれ」
 伊作は食事中、とても楽しそうに喋る。共に食卓を囲めるのが嬉しいのだそうだ。俺としては賑やかな方がありがたいので、そうかそうかと頷きながら美味しく飯をいただく。
「あ、そうだ、保険の書類が届いてたよ」
「おお、請求したやつだ。ありがとな」
 あたりさわりのない会話のなかで、一瞬、ぎこちなくなる瞬間がある。それでも二人でそれに気付かないフリをした。にんじんは程よく甘くて、ジャガイモも中までしっかり火が通っていた。
 先日、伊作に「実は、前世の記憶がある」と伝えられた。何のことやらさっぱりで、俺は「まさか」と笑ってしまった。伊作はとても寂しそうに笑って、「そうだよね。忘れてくれ」と言った。俺はなんだかその笑顔に見覚えがある気がして、胸が痛んだ。待ってくれ、俺はその表情を知っている。なんだか忘れてはいけない記憶のような気がするのに、こんなにも朧げな、霞の向こうの輪郭。伊作はそれ以上何も言わず、俺も話題を蒸し返すことが出来ず、その話はそれで終わった。きっとそこで終わってはいけなかった。
「……豚汁、めちゃくちゃ沢山作ったから、明日にはうどんを入れてもいいかもな」
「わあ、それ大好きだ」
 伊作は朗らかに微笑んで、七味にふたたび手を伸ばした。蓋はしっかり締め直したから、今度は大丈夫だ。無事に豚汁の上に赤い粉が落ちていく。
 彼の伏せられたまつ毛を見ると、今、前世を思い出してるんじゃないか、と思えてならない。どんなことを考えているのだろう、「前世でも留三郎は辛いものが好きだったなあ」とかだろうか。今、この世界の伊作を満たしてやりたいと願うが、前世を思い出せない以上、俺にそれを言う権利はないように思える。
「……留三郎」
「なんだ、伊作」
 声が上ずってしまった気がする。彼はそれも気付かないフリをしてくれた。彼の優しさは他の追随を許さない。どこまでもたおやかな笑みが、俺に一松の罪悪感を植え付ける。
 覚えてなくて、ごめん。
「僕ね。留三郎の手先が器用なの、大好きだ」
「……そ、そうか」
「ふふふ」
 伏せられたまつ毛の上を、幾百年の時が過ぎていく。俺は口の中に広がる塩味を飲み込むことしか出来なくて、腹の中に熱が降りていくのをただ感じていた。
 二人で食事を終えて、まったりとした空気の流れる中、怠い身体を休ませる。今日は俺が食事を作ったから、食器洗いは伊作の番だ。皿を割らないように、我が家の食器は全部プラスチックにしてある。
「そういえば、留三郎、今日帰ってきてからすぐ風呂に入ったじゃない? 汗かいたの?」
「ああ、守一郎にサラダチキンの汁ぶちまけられたんだよ。べたべたして」
「ご愁傷さま。それなら洗濯もしちゃおうか」
 口ではそう言いながら、伊作は動けなさそうだ。俺は「今日はぶちまけられる日だ」とひとりごちて、食器をシンクに運ぶ。
「いいよ、僕やるよ」
「誰が洗うと言った。運ぶだけだ」
「ちぇ」
 口をとがらせた伊作を笑い飛ばすと、伊作も釣られて笑いだした。そうだ、不文律なんて忘れていい、このリビングは賑やかなほうがいい。
 なんとか食器を洗い終えた伊作が風呂に入っている間、俺は保険の書類に目を通していた。生きていくのに金がかかる時代だ。諸々の確認を終えて一息つこうと戸棚を見ると、コーヒーがもうない。ひとっぱしりコンビニまで行こうと、洗面所の前を通り過ぎようとしたその時、伊作の独り言が聞こえた。くぐもった湯気の中の小さな声を、耳がつい拾ってしまった。
「留さん、巡り合えただけで、僕は」
 ――続きは、聞こえなかった。随分と切ない声。ああ、きっと、あの笑顔を浮かべているのだろう。俺が引き留められなかった笑顔。
 コンビニまで、がむしゃらに走った。買うのはカフェオレのつもりだったのに、ブラックを買っていた。苦ければ苦いほどいい。ペットボトルの三分の一ほどを飲み、顔をあげた先、広がる夜空に月が浮かんでいた。
 いつかの過去、伊作と一緒に月を眺めていたこともあったのだろうか。
 白い息は吐くたび消えていく。伊作は今頃風呂から上がって、俺の姿がないことにきょとんとしているかもしれない。早く帰らなければ。
 プリンを買って帰った。こんなのでも喜んで笑ってくれる伊作を大事にすることしか、現世の俺には出来なかった。伊作がプラスチックのスプーンを折った時に貼り付けた笑みは、果たして自然だっただろうか。ブラックコーヒーはいつまでたっても苦かった。
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