留伊

 何も予定がない、というのは、こんなにも幸福なことだったか。
 昨日やっと実習が終わった。へとへとになっていることを見越して、あらかじめ今日はバイトを入れなかったのだ。帰宅してからぶっ通しで眠り続けて十時間、起きたら九時だった。寝坊はしたけれど、まだ朝だ。一日を始めるには充分早い。
 玄関に靴がなかったので、留三郎は出かけているようだ。寝かせておいてもらった感謝の印に――というか、僕の実習期間中の家事を全て引き受けてくれたお礼に、出来ることをやろう。クイックルワイパーを手に取って、リビングにかける。机の上の物を落とさないように、気を付けて。
 奏でる鼻唄はごきげんなものだった。全てから解放された気分で、羽でも生えたかのようだ。スパまで行って温泉に浸かるのも、マッサージを受けるのもありだなあ、と大きく伸びをする。
 さっと掃除を済ませて、朝ごはんをどうしようか考えた。食パンと牛乳があるので充分だったが、卵まで目に入ってしまった。これじゃあ、目玉焼きトーストにするか、フレンチトーストにするか、迷ってしまう。
 欲を言えば、留三郎にフレンチトーストを作ってもらいたい。彼はなんでも器用にこなすから、料理もそつなくおいしい。ただ、彼は今外出中だ。仕方なく自分で作ることにする。
 食パンを切っていると、玄関のドアノブが回る音がした。留三郎が帰ってきた。僕はリビングのドアを開けておかえりを言う。
「お、起きたのか。伊作」
「おかえり。今から何か作ろうかと……あれ?」
 留三郎が、いつもと違う気がする。顔周りが華やかなような。じっと見つめていると、なんだなんだと照れた笑いを見せる。相変わらず男前な笑顔だ。
「お、伊作、見てくれよ。ピアス開けてきたんだ」
「え?」
 見れば、留三郎の耳が赤い。耳朶には小さな黒い石が輝いていた。黒曜石のような煌めきは、彼の瞳によく似合っている。
 けれど、僕はなんだか、素直に褒められなかった。心の中にもやがかかり、つい肩を落としてしまう。
「ど、どうした? 似合ってなかったか?」
「そうじゃなくて……」
 留三郎に手洗いうがいをしろと伝えて、僕はキッチンに戻った。卵、牛乳、砂糖を混ぜねばならない。バットを用意しなきゃ。
 自分がなぜこんなに落ち込んでいるのかわからなかった。そこまでのことじゃないのに。実際、留三郎に、ピアスはよく似合っている。けれど、だからこそ。
「僕が開けてあげたかったなあ……」
 食パンを卵液に浸しながら、つい言葉を零してしまった。言葉にすると、気持ちがしっくりと形を帯びて、輪郭がくっきりとする。
「なんだ、そんなことを考えていたのか?」
 留三郎はいつのまにか僕の隣に来ており、牛乳を手に取っていた。ああ、聞かれてしまった。彼はきっと明るい気分で帰ってきたはずなのに、僕の暗い気持ちをぶつけてしまって申し訳ない。
「ごめん、留三郎。そんな約束してなかったのに」
「いいや。嫉妬だなんて、伊作にもかわいいとこあるじゃないか」
 ははは、と朗らかに笑った留三郎は、冷蔵庫からバターを取り出した。僕の作りたいものがわかったようだ。食パンは卵液を吸い取って、黄色く染まっていく。
「伊作がそんなことを考えていたなんてなあ」
 コンロに火を点け、フライパンにバターを落とした留三郎の耳を見る。まだ少し赤く腫れていて、厚ぼったい。僕はそっとその耳に触れた。熱くて、火傷した時のようだった。
「留三郎が、他の人のものになった気分」
「なんだそれ」
 所有物の印みたいだ、と思った。僕の物であるという印を、留三郎に刻みたかった。僕がしょんぼりと肩を落としているなか、バターはじゅうじゅうと音を立て、芳ばしい香りが広がる。
 食パンをフライパンに並べようとすると、留三郎の顔が目の前にあった。なに、と開こうとした口を、そっと塞がれる。彼の舌が僕の唇を舐め、背筋が痺れた。
「俺はとっくに伊作のモンだし、伊作は俺のモン」
 留三郎は歌うようにそう言うと、手際よく食パンをフライパンに並べていった。幸福の匂いが台所に広がる。僕は勝手に嫉妬して勝手に落ち込んでいたことが恥ずかしくなってしまって、留三郎の肩に額を押し付けた。留三郎はフライ返しを持っているのと反対の手で僕を慰める。
「伊作がピアスを開ける時は、俺が開けてやるからな」
 ピアスをしている医者って胡散臭くないだろうか。仕事中は付けなければいいのか。留三郎はかっこいいなあ、こんなにも顔周りが華やかになって。
「それがだめなら、こっちはどうだ」
 留三郎は僕の左手を取って、口を寄せた。薬指が湿るのを見つめながら、ああまたこんな仕草をするから、学校でプリンスなんて言われるのだ、と口元が綻ぶ。
 留三郎は片面が焼けた食パンをひっくり返して、僕に「皿を取ってくれ」という。照れてかたまっている僕の身にもなって欲しい。
「留三郎は、嫉妬した僕を醜いと思わなかったの?」
 皿を二枚。フレンチトーストは僕の分だけの予定だったけど、どうせなら二人で半分こしよう。
「思うもんか」
 出来上がったフレンチトーストを盛り付けながら、留三郎は笑う。彼の笑顔に心が洗われていくのを感じながらフォークを用意して、僕らは揃って食卓に着いた。
 いただきます。手を合わせた彼の耳がきらりと光る。そうだ、今度、僕からピアスをプレゼントしよう。僕のものだってアピールしておかないと、プリンスは人気者だから。
「何笑ってるんだ」
「別に。プリンスからのプロポーズが嬉しかったからかな」
「お前なあ……」
 照れ隠しなのか、まだ熱をもっているからなのか、彼の耳は赤い。いずれ僕の耳も、彼の手によって赤くなる。その日を楽しみにしていても、バチはあたらないかな。フレンチトーストはとろとろと甘くて、僕も留三郎もほっくりと微笑んだ。微笑んでばかりだ、今日は。
 いつか重くなる左手の指先で、皿を撫でる。結局留三郎に作らせてしまった。皿洗いは僕がやろう。朝ごはんのつもりがすっかりブランチになってしまった。休日はゆるゆると過ぎていき、換気した窓から冬の風がそよぐ。
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