留伊

 さてそろそろ寝るか、と布団を直したところで、伊作の盛大な溜息が耳につく。衝立の向こうを見れば、これ以上ないほど肩を落としており、まあまたいつもの不運による悩みかな、と察した。寝る様子がなかったので、同室のよしみで声をかける。
「どうした? 伊作」
「留三郎。僕が行く先々に、雨が降るだろう。さすがにそろそろ、気が滅入ってしまってね」
 今日も委員会活動で山奥まで薬草を摘みに行ったのに、結局なにも収穫なしに帰ってきてしまった、みんなにも苦労掛けた、という、聞いてしまえば代り映えのない悩み。俺は聞いてやることしかできないので、衝立を超えて、伊作の隣に座った。
「伊作。薬草はまた摘みに行けばいいだろう」
「そうだけれど」
「よし、それじゃあ。今度の外出は晴れるという、まじないをかけてやろう」
 眉の下がったままの伊作が不憫で、つい励ましてしまう。俺もなかなかにお人よしだ。伊作はぱあっと顔を輝かせ、俺を見つめ返した。
「盃に、水を入れてもって来い。こぼさないように」
 伊作は頷くと、静かに食堂に向かった。こんな夜更けならなんの邪魔も入らず、すぐに持ってこれるはずだ。床の修補も済んでいる。風も強くない。転ぶことはないだろう。
 少しばかり待つと、伊作は「これでいいの?」と手の中に盃を納めて持ってきた。おいで、と中庭に連れ出すと、満月がぽっかりと俺たちを照らしている。雲もなく、見事な月見日和だ。
「わあ、見事な満月だね」
「伊作、見ててごらん」
 俺は左手を伊作の持つ盃に被せ、右手で月を指さした。伊作は俺の指先を不思議そうに見ている。そのまま指を降ろして伊作の目を覆い隠し、ふうっと息を吐いた。
「え、な、なんだい?」
「伊作。盃を見てみろ」
 ぱっと目から手を離し、伊作に下を向かせる。左手をどけた盃の中には、満月がゆらゆらと気持ちよさそうに泳いでいた。
「わ……」
「ほら。満月を捕まえてやったから。飲み干すと良い」
 こんなにも立派な月だから、きっとこれからの伊作を照らしてくれる。そう唱えると、伊作は嬉しそうに、盃の中の水を一気に飲み干した。ごくりと喉が鳴る。木々が少しだけそよいだ。まるで夜空が呼応しているように。
「これでもう、伊作は不運じゃないよ」
「……ありがとう、留三郎。なんだか不思議な力で守られているような気がする」
 くすくすと、二人で笑い合った。静かな夜。連れ立って部屋まで戻り、伊作の布団の上に並んで座った。
「伊作。お前はたとえ不運だったとして、たくさんの人がお前の味方なのだから、それを忘れてはいけない。誰かに責められることがあったら、俺に頼れ。追い返してやる」
「あはは、それはやりすぎだよ。でも、そうだね。感謝は忘れないようにしないと」
 ありがとう、と笑う伊作の笑顔が、いつもの優し気な眉に戻ったので、俺の心はほかほかとあたたまる。あんなに簡単なまじないで、こんなにも喜んでもらえるのなら、いつでも、いくらでもやってやろう。お安い御用だ。
「僕はもう、無敵だよ。満月も飲み込んだし、留三郎も隣にいてくれるからね」
「おう。逆に、俺には伊作がついていてくれる。心強い」
 無敵の俺たちは笑い合って、満月を祝った。盃を持ってくるなら酒を飲みたかった、いやいや明日も忙しいだろう、そんなようなやりとりをして、さあ寝ようとなった時、どちらともなく衝立を取っ払う。
 なんだか今日は、並んで寝たかったのだ。月光の差し込む障子がやわらかに美しい。おやすみ、という言葉に、こんなにも安心感を覚えるのは、相手が伊作だからだ。
「……僕ね。留三郎が同室で、よかった」
 伊作はそう呟いて、照れ隠しか向こう側に寝返ってしまった。その伊作の背中の中心がうっすらと輝いて見えたのは、満月のまじないのせいか、あるいは。
6/8ページ
スキ