留伊

 今日は風が強い。僕は目を細めるタイミングで車が来ないよう、道の端に寄った。もちろん犬のふんを踏まないように。
 留三郎から「メシに行かないか」とお誘いを受け、テスト開けの身体によろよろと鞭を打って支度をし、夕焼けに染まりつつある空の下を歩いていた。途中、図書館に寄るつもりだった。返却予定の本があったからちょうどよいタイミングだった。
「しかし、留さんらしくない。いきなり外食しようだなんて」
 なにも高級レストランに行くわけでもないが、思わず考えてしまう。二人で節約生活をしていて、僕の就職を待って、いつか大きな家に引っ越そうという夢があるのだ。だから、こんな何でもない日にわざわざ外食を? と。
 まあ外食と言ってもサイゼリヤだろう。貧乏学生なんてそんなものだ。僕は図書館に立ち寄って、借りたい本を借りられていることにショックを受けつつ、返却手続きを無事に済ませた。
「伊作、悪い、待たせた」
「ううん、待ってないよ」
 留三郎のバイト先の最寄り駅で待ち合わせをした。早めに出たから電車の遅延もうまくかわせたので、今日は比較的ラッキーな日だ。
 留三郎は黒のパーカーに黒いダウンジャケットを着ていて、そんなに真っ黒なのに男前の顔がよく映える。こっち、と道を案内され、全て任せてしまっているなあと申し訳なく思いつつ、こんな駅にもサイゼリヤはあるのか、とのんきに考えていた。
「ここなんだが」
「……お?」
 イタリアンはイタリアンだが、そこはこじゃれたダイニングバーだった。何の記念日でもないのに!? と言おうと思っているすきにするりと留三郎は店に入ってしまい、僕はおろおろ付いて行くことしか出来ない。
 いらっしゃいませ、何名様ですか、という陽気な声に「ふたり」と答える留三郎は何の躊躇もなくて、僕は一人で勝手にはらはらとしていた。奥の席にどうぞ、と通されて、留三郎の向かいに座る。
「……ご、ごめん」
「え!? 急にどうした」
「今日って、なにかの記念日だった? 僕、忘れてて」
「ああ違う違う、俺が来たかったんだ」
 ほかほかのおしぼりで手をあたためながら、留三郎は「しまった、俺ワインは苦手なんだ」とメニュー表を見る。僕はひとまず記念日を忘れていたわけじゃないことに安堵した。
「なんと、緊急ボーナス。全員に一万円」
「……ええ!? すごいじゃないか」
「そ。だから今日は俺のおごり」
 留三郎はニカッと笑って、アンチョビのなんたらピザを指さした。これ食いたいな、というので、君のおごりなんだから好きなものを食べたらいい、と返す。
 留三郎は要領がいい。勉強もそつなくこなして、合間にバイトをかけもちしている。力仕事もなんのその、身体が鍛えられて一石二鳥を笑っていた。彼の逞しいところが好きだ。
 俺と一緒にいたら、伊作の不運も半分にできるんじゃないか。そう言って、一緒に暮らすようになって。ありがたいことに僕の靴紐が切れる頻度は確かに減ったけれど、反対に留三郎の靴紐が切れる頻度が上がった。なんだかそれは申し訳ないような、おかしいような、二人して笑ってしまうのだけど、感謝はつきない。
 感謝。感謝をしているのだ、僕は。こうして家の外に連れ出してくれて。なのに奢ってもらうだなんて、何をして返したらよいのだろう。
「……身体で返すしか」
「え?」
「いや、こっちの話」
 留三郎は本当に何も聞こえていなかったようで、チーズとなんたらのおつまみもタブレットで選んでいた。僕は当店自慢のレモネードを選ぶ。
「……僕の実習が落ち着いたらさ。どこか温泉でも行こうか。僕が奢るから」
「え、いいのか? 無理してないか?」
「してないよ!」
 それじゃあ楽しみだな、と笑う留三郎に、どこか誇らしい気持ちになる。僕は確かに彼に守られているけれど、彼の笑顔は、僕が守りたい。
 二人分の飲み物が運ばれてきて、僕らは賑やかに乾杯をした。以前、居酒屋でビールで乾杯した時は、お互いべろべろに酔ってしまったっけ。お通しのオリーブをつつきながら、留三郎は今日あった出来事を話す。学校で文次郎と会って、彼がまた徹夜続きで酷いクマだったとか、バイト先で小平太に会って、荷物の運び込みを競ったとか。
「……なんかさ」
「うん」
「平和だね」
「うん」
 僕らは、前世の記憶がある。口に出してはいけない気がして、滅多に言わないけれど。曖昧な記憶の向こう、叶わなかった恋の続きを、今こうして謳歌出来ていると思うと、やっぱり感謝をすることしか出来ない。
「……いつかさ」
「うん」
「いつか、伊作のタイミングが良くなって、世間のタイミングも良かったら」
「うん」
「ちゃんと……ちゃんと、その先を、しような」
 その先。恋心を伝える、その先。ただの同棲の、その先。叶わなかった、共に生きるという選択を、選べるという喜び。
 大きな家に引っ越して、パートナーになれたなら。結婚という二文字はそれはそれは責任が大きくて、なかなか尻込みしてしまうけれど。
 掴み取れるしあわせがあるなら、きちんと大切に選びたい。
「……しょっぱいね、これ」
「ああ」
 アンチョビは思ったより塩辛くて、二人で笑ってしまった。いつか大きな家で、このピザを焼こう。その時はきっと、これよりうまく焼いてみせる。
 あちこちで乾杯の音頭が聞こえる。きっと今夜は乾杯にふさわしい夜なのだ。僕らはもう一度カチンとグラスを合わせて、今という世界に感謝をした。
7/8ページ
スキ