留伊

 靴を新調した。靴屋で何度も試し履きした、歩きやすさに特化した茶色の靴。
 今日だけでも絶対に犬の糞を踏まないぞ、鳥に糞をかけられないぞ、という強い意志のもと、とにかく周りに注意しながら歩いた。朝も三十分早く家を出て、上も下も目を凝らして歩いていた。さわだ歯科、ゆたか内科、さまざまな電柱の看板を通り過ぎつつ、その歩きやすさに感動しながら、雨が降らないことを祈った。青空、少しだけ浮いた雲、その雲がどうか分厚くなりませんように。
 祈った甲斐があって、無事に雨にも降られず、糞にも巡り合わずに出勤することができた。これは快挙だ。思わず留三郎に連絡した。
『不運のない朝だったよ!』
 一分と待たずにスマホが震えた。留三郎もちょうど職場に着いた頃だ。
『おめでとう! よかったな!』
 留三郎からの返信に、ありがとうのスタンプを返す。雑談のつもりだったから、これで会話が終わると思っていた。
『お祝いと言っちゃあなんだが、今夜、一緒に飯でもどうだ?』
 久しぶりのデートだ。僕は嬉しくなって、すぐにスケジュールアプリを確認した。アプリは不具合でデータが飛ぶ可能性があるから、紙のスケジュール帳も併用して持っているが、やはりすぐに確認できるのはアプリの方だ。夜は何の予定も入っていなかった。
『行けるよ!』
『よかった! あとで店の情報送る』
 その返信にまたスタンプを送り、既読になったのを確認して、メッセージアプリを閉じた。今から退勤まで、この靴を汚さないミッションは続く。コーヒーを零したり、油性ペンを落としたりしないよう、更に気を引き締めなければならない。
 僕は職場のエレベーターのなかで小さく意気込んだ。留三郎に驚いてもらいたい、その意思があれば頑張れそうだった。

 ――そうして一日を過ごして、退勤後。
 僕は疲れ切っていた。
 結論から言うと、なんとか靴を死守することに成功した。コーヒーを避け、油性ペンを避け、一日中気を張って過ごしていたから、心労でへろへろだった。
 待ち合わせの駅まで、ここで糞を踏んではならないとこれもまた目を凝らしながら歩き辿り着くと、留三郎はすでにそこに居た。彼はいつもぴかぴかの黒い革靴を履いていて、非常に似合っている。
「おめでとう。守り切ったんだな」
 まるで魔王から国を救った勇者のような称え方に、思わず苦笑してしまった。大げさな、と言いたいところだけれど、確かにこの宝物を守ることに全身全霊をかけたのだから、そのくらい称賛されてもいいのかもしれない。
「こっちだ」
 留三郎の案内で、イタリアンのレストランに行くことになっていた。パスタにしようかピザにしようか、口の中が今からわくわくしている。
 赤のひさしが出ている、レンガ造りの外観の小さな店の前で、留三郎が「ここだ」と言った。黄色の照明が道まで漏れていて、すでにあたたかな気配がしていた。
 奥の席に案内され、ガラス瓶で水が提供される。留三郎がパスタ、僕がピザを選んだところで、留三郎がスプリッツァーを二つ頼んだ。
「乾杯したっていいじゃないか」
「こんな何でもない日に?」
「記念すべき日だ」
 白ワインを炭酸水で割った、シンプルなロングカクテルは、僕をしゅわしゅわと満たした。レモンがきいていて爽やかだ。祝福されている気分になる。
「今日は何で不運じゃなかったんだろう?」
「そんな日もあるだろう。雨の日があれば晴れの日があるんだから」
「このあと雨が降るんだろうなあ」
「雨だって悪いことばかりじゃないって、前に言ったじゃないか」
 留三郎の笑顔が好きだ。全てを許容してくれる頼もしさ、背中を押してくれる男らしさ。ぴかぴかの黒い革靴の似合う、安心感、信頼感。僕とグラスを合わせてくれてありがとう、と口の中で感謝をしながら、いかに今日の不運を回避したかを語る。
「やっぱり課長がコーヒーを零して、部長が油性ペンを落とすんだ、僕の靴に向かって!」
「それで、華麗に避けたわけか」
「僕だってやる時はやるからね」
 アルコールが顔に回ってきた、耳が熱い。留三郎から見たら、頬が赤くなってるんだろう。パスタとピザが運ばれてきて、トマト味のそれらに舌鼓を打ち、今度は留三郎の話に耳を傾ける。
「成約を取るたび、昔は嬉しさが募ったのに、最近はタスクをこなしていっているだけの感覚がしてな。初心に帰ろうと思ったよ」
「向上心が高いなあ」
 営業の仕事というのはやり甲斐で出来ている、と彼は以前語っていた。やり甲斐に溢れた毎日は楽しいだろう。もちろん大変なことも多いはずだけど。
「留三郎も、ご褒美ほしいんじゃない?」
「こんな何でもない日に?」
「記念すべき日だよ」
 お互いのパスタとピザを一口ずつ分け合いながら、そうだなあ、と頭を悩ませる。留三郎のご褒美は一体何がいいだろう。
「じゃあ、今夜、伊作の家に泊っていいか?」
「いいけれど、それがご褒美?」
「伊作がご褒美じゃだめか?」
 留三郎の顔が真っ赤だった。スプリッツァーのせいだけではなさそうだ。僕は腹から笑ってしまった。留三郎もかわいいところがある。茶色の靴で黒の靴を小突いた。
「僕のご褒美にもなっちゃうよ。ここに来たことがご褒美なのに」
「ご褒美なんて、いくらあったっていいだろ」
 それもそうだ。僕らは会計をして店を出た。そのまま爪先は僕の家へ向かう。家まで、どうかどうか、何も不運が起きませんように。
 たまに訪れる、ラッキーに満ちた日。このまま今日一日を終わらせたい。
 月光が綺麗だった。街の明かりも賑やかだった。照らされた道で、転ぶはずがなかった。
 無事に帰宅し、乾杯の嬉しさの余韻が続くまま、僕らはベッドへ倒れ込む。甘やかな夜、腹の中で、まだ炭酸水がしゅわしゅわと輝いていた。
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