留伊

 まあ言ってしまえばルームシェアだなんて「家賃が安くなるから」に他ならず、俺も伊作もそれぞれの部屋に籠ることが多いから、さして恋人らしいところを世間様にはお見せしていない。伊作は勉学に励み、俺はバイトに励む、ごくごく普通の大学生だ。
「あ」という声が聞こえてきたのは、二十三時のことだった。風呂から出て、リビングで牛乳を飲んでいた。伊作が自室でばたばたと暴れる音がする。
「どうしたー?」
 ドアの外から声をかける。いくら彼が不運体質だからと言って、勝手に部屋を開けるのは、プライバシーの侵害になる。よっぽどのことがあれば「助けてくれ」と声をかけるはずだ。
「とめさぶろー」
 ドアが開いたかとおもうと、へなへなの伊作が出てきた。あ、こいつまたドライヤーしないで自然乾燥のままだ。俺にはあんなにドライヤーしろって言うくせに。髪がぐるぐるとうねっている。
「爪が割れちゃって……僕の部屋、爪切りがなくて」
「あ、俺、昨日使った。貸してやろう」
 自室から、爪切りを持ってきて渡してやると、伊作は大層よろこんだ。爪が割れるのって、カルシウムだったか、タンパク質だったか、なにかが足りてないんじゃないか? と言ってやりたかったが、そこは釈迦に説法、医学生に言ったところで無駄だ。
「ありがとう、留三郎」
「……伊作、眠れてるか?」
 文次郎ほどではないけれど、伊作の目の下には隈があった。勉強量はきっと俺の倍ほどあるだろう、夜も遅くまで電気が付いている。彼は健気で、夢のためならどこまででも努力できる人ではあった。あるけれども、睡眠はしっかりとるべきだ、ただでさえ足元ふらふらしてんだから。
「昨日は留三郎のいびきがひどくて……」
「なっ……悪い」
「うそうそ、冗談。テストがあってね」
 伊作の頭をこつんと叩くと(決して力はいれていない。決して)、てへへと笑われる。その顔がかわいいから揶揄われたことなどつい許してしまうのだが、心配する気持ちは消えない。
「……なあ。今日、一緒に寝ないか」
「え? そ、そういう意味で?」
「そ、そういう意味でもいいし、べつに、添い寝でもいいし」
 そんなつもりは決してなかったけれど、いざ問われると誘った気持ちになってしまった。理性はあるほうだと信じたい。ただ、久しぶりに一緒に寝るのも悪くないと思っただけであって。
「……そういうつもりでも、いいよ」
「……マジか」
 急に動悸が速まり、俺は顔が真っ赤になるのを抑えきれなった。ゴム、まだあったかな。
 ふふふ、と伊作が笑うので、誘っておいてずいぶん余裕があるじゃないかと睨むと、またしても「ごめんごめん」と謝られる。
「僕も留三郎も、爪を切った甲斐があったなって」
「……たしかにな」
 とりあえず、ドライヤーだ。俺は伊作の髪を撫でつけながらそう言った。お前の髪も梳いてやろう。伊作はへらりと笑って俺に爪切りを返す。彼の指先は無事のようだ。
「僕ね、留三郎の指、好きだよ」
 理性は、あるほうだと、信じたい。信じていた。何かのスイッチがカチッと鳴る気配がした。
「留三郎?」
 気が付くと、きょとんとした伊作の唇に吸い付いていた。暴れに暴れた伊作がごんごんと俺を叩き、「ドライヤー!」と言ったところで我に返る。
 小さなマンションのリビングは今日も愉快だった。これで家賃六万なんだぜ。
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