文仙
ホテルオーカワの佇まいはいつだって荘厳で精悍で、夢のひと時を味わうのにうってつけだ――どんな夢を見るのかはひとそれぞれだとして。
俺は部屋の中でひとり、そわそわと座ったり立ったりを繰り返している。お世話になっているクライアント先のお嬢さんを、このあとラウンジで紹介されることになっていた。急な出張というから承ったのに、来てみればこのザマだ。上司もグルだったのだ、俺が断れない立場なのをわかったうえで、こんなホテルまで用意して。何の意味もなくホテルオーカワに泊まれるはずがなかったのだ。
はあ、と深いため息をつく。ホテル代はすべて上司持ちとなると、ルームサービスをいくら頼んでもお咎めなしだろうか。嫌がらせにシャンペンでも飲んでやろうか、それはこのあとのお見合いに失礼か。無礼を働く気にはなれないが、断りたい一心ではある。とりあえず来てから考えよう、とフロントに電話をかけた。普段シャンペンなんて飲まないくせに。
結婚など考えられなかった。まだまだ働いていたかったし、それに女にも興味がない。自分を律して生きるのが好きなので、欲に負けたくないのだ。たぶらかされてたまるか、という思いでここまで来てしまった。思えば過去、告白と言うものを数度体験したことはあるが、どれかに頷いてみればよかったかもしれない。そうしたら今、こんな窮地に立たされなくてもすんだろうに。
なんどめかの溜息ののち、部屋のチャイムが鳴った。ルームサービスはこんな早くにまだ来ないだろうが、何かあったのだろうか。急な来客に驚きながらも、俺は鍵を開けた。ばん、と勢いよくドアが開き、その威力に圧倒されてしまう。
「匿ってくれ!!」
大声で叫んだ女性が部屋のなかへ走っていった。それをあっけにとられて見ていると、「はやくドアを閉めろ!!」と怒鳴られる。ただ事ではないと思いドアを閉めるが、いやいや俺はいったいなにに巻き込まれているんだと冷静になった。
女はウエディングドレスを着ていた。部屋の中がたっぷりとしたレースで溢れている。そんなもの今までの人生で間近で見たことがなかったので――友人の結婚式も遠巻きに見ていただけだ――、その威圧感に声を出せずにいると。
「なんだ、文次郎じゃないか」
「――仙蔵?」
「なんだ、ははは、なんだお前、こんなところで」
あまりにも偶然がすぎるだろう。そこにいたのは、幼馴染の仙蔵だった。俺は拍子抜けしてしまった。
ウエディングドレス姿の幼馴染というのは、こうも感慨深くないものか。本来ならば俺は涙するべきところじゃないのか、こんなに綺麗になって、と。しかしなんだこの女は、匿えと怒鳴り散らしてずけずけと部屋に転がり込んで、あまつさえ部屋をフリフリで占領して。
「ひさしぶりだな。どうした、そんな顔をして」
「それはこっちのセリフだ。お前、結婚するのか」
「したくないからこうして逃げて来たのだ」
「逃げ……!?」
とんでもないことに巻き込まれてしまった。これじゃ誘拐だ。俺はさーっと顔色が青くなるのが分かった。あわてて仙蔵の腕を掴み、部屋から追い出そうとする。
「ちょっと待て、何をする」
「出てけ、俺はこのあと用事があんだよ」
「少しくらい匿ってくれても」
「迷惑だと言ってるんだ」
「ちょ、ちょっと待て」
「待たない」
「鼻血!!」
見ると、仙蔵は鼻血を出していて、上を向いている。俺は咄嗟にティッシュペーパーを持ってきて、仙蔵に渡した。ドレスは借り物に違いない。鼻血などで汚したらとんでもない。
しばらく仙蔵は上を向いたままぴくりとも動かなかった。鼻にこよりを詰めた花嫁姿というのはなんとも間抜けである。けれど言わない、言ったらなにがとんでくるかわかったもんじゃない。
「……バスローブ」
「は?」
「着替えてくる。バスローブ、あるだろう」
「……あるが」
「汚せないから。あっちむいてろ」
おもむろにドレスを脱ぎだした彼女にあっけにとられながら、それでも言われるがままに窓の方を向いた。今更ながらカーテンを閉める。こんなところ誰かに見られてはたまったものじゃない。
しゅるしゅる、と布ずれの音が聞こえて、なんだか変な気分になってしまう。なんで今、俺の後ろであいつは着替えてるんだ。このあとどうしたらよいか全くわからない。俺は、俺はクライアントのお嬢さんに会って、いつかのウエディングドレスを否定しなければならないというのに。
「もういいぞ」
「……お前なあ」
ウエディングドレスは浴槽に置いてきたらしい。確かに乾燥しきったそこは、このあと大騒ぎするであろうこのベッドルームより安全だと言える。バスローブからすらりと伸びた美しい手足に、俺は唾をごくりと飲み込んだ。
「……なにを見ているんだ。むっつり」
「むっ……」
「思えば文次郎は、奥手で仕方がなかった。私の友人が告白しても、全部断って。断り文句が全部、勉強に集中したいから。そんなもの、百年の恋も冷めてしまう」
「……じゃあ、どうしろと言うんだ。知らない女といきなり恋仲になるだなんて、無理だ」
「そこを一歩踏み込むのが恋愛というものだろう。なんだ、アセクシャルか?」
「そうではないが……」
恋愛感情、というものについての理解は出来る。それに自慰行為だってするし、オカズは女性だ。だからアセクシャルではない――仙蔵に焦がれたことぐらいある。これは決して口にしてこなかったけれど。
仙蔵は、努力家で、意志の強い女だった。整った涼やかな顔立ち、長く美しい髪に多くの男は靡いたが、仙蔵こそそのどれもを断ってきたではないか。男子は汚いとか言って。
「……あの仙蔵が結婚ねえ」
「だから、しないと言っている。文次郎こそどうなんだ」
「……俺はこのあと、見合いだ」
「……ほう!」
仙蔵は面白いおもちゃを見つけたという顔をした。しまった、余計なことを言った。仙蔵は俺の隣に座りなおし、顔を近付ける。ふわりといい匂いが漂ってきて、俺は二度咳払いをした。
「どんな娘だ」
「知らない。今日初めて会う」
「写真くらい持ってるだろう」
「……ほれ」
スマホで、上司のラインをさかのぼる。お見合い用の盛れた写真が送られてきていた。黒髪の清楚そうな娘さんだ。薄桃色の着物が似合っている。
「かわいいではないか」
「どーだか」
「……お前はかわいくない」
「はあ?」
仙蔵は立ち上がって、俺の目の前に仁王立ちする。バスローブ姿の仁王立ちとはいささか滑稽である。
「この私がこんなあられもない恰好でいるのに、なんだそのツラは。少しは異性として意識するとかないのか」
「意識されたいなら慎ましやかにしやがれ」
「……だいたい文次郎が」
仙蔵が少しむくれツラをした瞬間、またピンポンとチャイムが鳴る。しまった、ルームサービスが来てしまった。俺は仙蔵に隠れろと合図を送るが、クローゼットの中は俺のスーツケースが、バスルームにはウエディングドレスが占領している。
「ど、ど、どうしよう」
「……いいか。いいか仙蔵。お前は俺の妻だ」
「えっ」
「いいか。お前は、俺の、妻だ!」
俺は仙蔵をソファに押し付け、ドアを開けに行った。やはりそこにはボーイがおり、にこやかにカートを押している。
「ルームサービスのお届けにあがりました。中に入っても?」
「……どうぞ」
失礼いたします、と滑るように部屋に入ってくるボーイに、背後から念じた。頼むから何も言わないでくれと。何も察さないでくれと。
部屋では仙蔵がにこにこと座っていた。まるで先ほどまでウエディングドレスで暴れ散らかしていたとは思えない落ち着きようだ。ボーイは一瞬戸惑ったのち、しかしすぐに元の所作に戻り、シャンペンを注ぎだした。
「グラスはお二つでよろしいですか?」
「あ、ああ。つ、妻の分もいれてくれ」
「かしこまりました」
俺は立ったままなのは不自然だと思い、仙蔵の横に座った。仙蔵はするりと俺の腕に腕を絡めた。ばかたれ、今そんなことをするな。俺の心臓は破裂しそうだった。
仙蔵が逃げてきた花嫁だとバレたら。俺が匿っていることがバレたら。事態は大事になる。いきなり不安と焦りが現実味を帯びて、俺の背中に嫌な汗が伝った。
「では、失礼いたします。ごゆっくりどうぞ」
ボーイはにこやかに一礼し、カートを押して帰っていった。俺は見送るとドアに鍵をかける。こんなとこ、見られてはいけなかったのだ。
「仙蔵、お前やっぱり帰れ」
「いやだ」
「俺を巻き込むな」
「いやだ。どこの馬の骨とも知れんヤツだったら帰ったろうが、他ならぬ文次郎だ。願ったり叶ったりじゃないか」
「……どういう意味だ」
仙蔵は俺にシャンペンを渡した。今はそれどころではない。けれどその魅惑的な飲み物はきらきらと俺を手招きしている。せっかく嫌がらせで高いものを頼んだのだ、飲まなけば。
二人で乾杯をした。このあとの地獄に向けて。仙蔵はくいっとグラスを煽ると、静かな声で語りだした。
「……私は、文次郎が好きだったんだよ」
「なっ」
俺は驚いてシャンペンを吹きだした。ああもう汚いな、と言って、今度は仙蔵がティッシュペーパーを渡す。
「文次郎が好きだったのに、素直になれなくて。まわりの友人たちがどんどん文次郎を好きになっていく。けれどお前は断ってばかり。安心したんだよ。誰のものにもならずにいてくれて。……本当は私のことが好きなんじゃないかって」
シャンペンは上等な味がした。少し甘くて、余韻が鼻を抜けていく。仙蔵の横顔は美しかった。
「けれどそれは幻想だった。お前は誰のことも好きにならないまま卒業していった。私に振り向くこともないまま。……私は臆病ものだった。私から声をかけるのはプライドが許さなかった」
仙蔵がグラスをゆらゆら揺らすと、中の液体もとろりと輝いた。あの頃の思い出が、ひとつひとつ弾けていく。
「そのままプライドの塊だった私は、お前にアタックすることもないまま、この歳まで来てしまった。しびれを切らした親に、こんな……」
仙蔵はバスローブの裾をぐいっとひっぱった。俺はいたたまれなくなって、仙蔵の肩を抱く。
「結婚、したくない……! 文次郎が好きだった、ずっと……!」
仙蔵の目から涙が溢れた。彼女の涙を見るのは、幼稚園ぶりだった。ピアノのお稽古が辛くて泣いていたのを、励ました記憶がある。――昔から、変わっていない。限界を超えるまで、ひたすらに頑張ってしまうんだ、こいつは。
「仙蔵」
俺は仙蔵を抱きしめた。華奢な肩に驚きながらも、美しい髪に頬を当てた。昔から、何度も何度も目を奪われた髪だ。
「俺も、お前のことが、好きだった」
「……!」
「恥ずかしかったんだ。笑ってくれ。男子たるもの、女子に惑わされてはいけないと思っていたんだ」
「……何だソレ、武士か……」
「ずっと、目で追っていた。それに気づかれたくなかった」
その気高さに、凛とした生き方に、ずっと憧れていた。小さい頃、何度も手をつないで帰った。それがどれだけ嬉しかったか。
「……文次郎がどんどん背が伸びて、声変わりもして。置いて行かれたような気持ちになったとき、自覚したんだ」
「そうだったのか」
「小学校の時、はじめてポニーテールにした日、文次郎が褒めてくれたから、それからずっと伸ばしていたんだ」
「そうだったのか……」
ぽろりぽろりと零されていく本音を、二人で掬いあげながら、シャンペンで流し込んだ。仙蔵の背中をぽんぽんと叩きながら、どうしたら彼女を救えるのかとばかり考えていた。自分のことなど二の次だった。
「好きだ。仙蔵」
「……遅い」
仙蔵はぐいっとグラスを飲み干した。ヤケ酒になっている。これは危険だ。彼女の酒癖の悪さを思い出した。二十歳になった時に乾杯したことがあるのだ。あの晩の地獄を忘れてはならない。
「おい、水も飲め」
「文次郎!」
ふたたび仁王立ちとなった彼女の頬は少し紅潮しており、しかしずいぶんとでかい声を出すものだから可憐さはなく、俺は呼ばれるがまま佇間いを直した。昔からこいつの号令にだけは弱い。
「お前、私と結婚しろ」
「……は?」
「私は結婚出来ればそれでいい。親にとっちゃ相手など誰でもいいのだ。文次郎はこのあとのお見合いを断る口実になる。winーwinではないか」
俺はぽかんとして仙蔵を見上げた。さもナイスアイデアと言わんばかりの仁王立ちにあっけにとられていたが、俺はつとめて冷静に我に返った。
「お前、この後結婚式じゃないのか。今更キャンセルなんて」
「ああ、今日はただの衣装合わせで来ていただけだぞ」
「……はあ?」
「籍もいれていない。体調の悪い祖母が早くドレス姿を拝みたいというから、急遽ドレスだけ見に来たんだ」
「……なんだよ……」
俺はへなへなと座り込んでしまった。なんという可哀そうな境遇か、と同情したのに。
仙蔵は俺の肩を叩いて、顔を覗き込んだ。勝気な顔には、さっきまでの悲しみの欠片も残っていなかった。
「な、文次郎。私を攫ってくれ」
「……どこへ」
「どこへでも。文次郎の行きたい場所へ」
俺はもうたまらなくなって、仙蔵を抱き寄せた。コイツのこういうところに惚れたのだった。惚れたもん負けだ。俺は仙蔵の顎を掬って唇を奪った。ふたりともシャンペンの味の唇だった。
「決まりだな」
「ああ。攫ってやるよ」
仙蔵のウエディングドレスを着るのを手伝ってやる。背中のチャックを一番上まで上げて、完成、と肩を叩いた。少し頬を赤らめた仙蔵は、やっぱりとても美しかった。
「お前だけのものになってやる」
とんだプロポーズだ。俺はもう、どうにでもなれと笑った。こいつの結婚話も、俺の見合いも、全部全部蹴とばしてやろう。
「行こう」
仙蔵を抱きかかえ、俺は歩き出した。ホテルオーカワは、ウエディングドレス姿の幼馴染を連れて歩くのに、うってつけの場所だった。
「俺は、こいつと結婚するので、お話はお受けできません!」
ラウンジでそう高らかに宣言した俺の伝説はまたたくまに会社に知れ渡ることとなる。そして、仙蔵の母親には殴られたのだった。
でこぼこの俺たちのゴールであり、スタートであった。
俺は部屋の中でひとり、そわそわと座ったり立ったりを繰り返している。お世話になっているクライアント先のお嬢さんを、このあとラウンジで紹介されることになっていた。急な出張というから承ったのに、来てみればこのザマだ。上司もグルだったのだ、俺が断れない立場なのをわかったうえで、こんなホテルまで用意して。何の意味もなくホテルオーカワに泊まれるはずがなかったのだ。
はあ、と深いため息をつく。ホテル代はすべて上司持ちとなると、ルームサービスをいくら頼んでもお咎めなしだろうか。嫌がらせにシャンペンでも飲んでやろうか、それはこのあとのお見合いに失礼か。無礼を働く気にはなれないが、断りたい一心ではある。とりあえず来てから考えよう、とフロントに電話をかけた。普段シャンペンなんて飲まないくせに。
結婚など考えられなかった。まだまだ働いていたかったし、それに女にも興味がない。自分を律して生きるのが好きなので、欲に負けたくないのだ。たぶらかされてたまるか、という思いでここまで来てしまった。思えば過去、告白と言うものを数度体験したことはあるが、どれかに頷いてみればよかったかもしれない。そうしたら今、こんな窮地に立たされなくてもすんだろうに。
なんどめかの溜息ののち、部屋のチャイムが鳴った。ルームサービスはこんな早くにまだ来ないだろうが、何かあったのだろうか。急な来客に驚きながらも、俺は鍵を開けた。ばん、と勢いよくドアが開き、その威力に圧倒されてしまう。
「匿ってくれ!!」
大声で叫んだ女性が部屋のなかへ走っていった。それをあっけにとられて見ていると、「はやくドアを閉めろ!!」と怒鳴られる。ただ事ではないと思いドアを閉めるが、いやいや俺はいったいなにに巻き込まれているんだと冷静になった。
女はウエディングドレスを着ていた。部屋の中がたっぷりとしたレースで溢れている。そんなもの今までの人生で間近で見たことがなかったので――友人の結婚式も遠巻きに見ていただけだ――、その威圧感に声を出せずにいると。
「なんだ、文次郎じゃないか」
「――仙蔵?」
「なんだ、ははは、なんだお前、こんなところで」
あまりにも偶然がすぎるだろう。そこにいたのは、幼馴染の仙蔵だった。俺は拍子抜けしてしまった。
ウエディングドレス姿の幼馴染というのは、こうも感慨深くないものか。本来ならば俺は涙するべきところじゃないのか、こんなに綺麗になって、と。しかしなんだこの女は、匿えと怒鳴り散らしてずけずけと部屋に転がり込んで、あまつさえ部屋をフリフリで占領して。
「ひさしぶりだな。どうした、そんな顔をして」
「それはこっちのセリフだ。お前、結婚するのか」
「したくないからこうして逃げて来たのだ」
「逃げ……!?」
とんでもないことに巻き込まれてしまった。これじゃ誘拐だ。俺はさーっと顔色が青くなるのが分かった。あわてて仙蔵の腕を掴み、部屋から追い出そうとする。
「ちょっと待て、何をする」
「出てけ、俺はこのあと用事があんだよ」
「少しくらい匿ってくれても」
「迷惑だと言ってるんだ」
「ちょ、ちょっと待て」
「待たない」
「鼻血!!」
見ると、仙蔵は鼻血を出していて、上を向いている。俺は咄嗟にティッシュペーパーを持ってきて、仙蔵に渡した。ドレスは借り物に違いない。鼻血などで汚したらとんでもない。
しばらく仙蔵は上を向いたままぴくりとも動かなかった。鼻にこよりを詰めた花嫁姿というのはなんとも間抜けである。けれど言わない、言ったらなにがとんでくるかわかったもんじゃない。
「……バスローブ」
「は?」
「着替えてくる。バスローブ、あるだろう」
「……あるが」
「汚せないから。あっちむいてろ」
おもむろにドレスを脱ぎだした彼女にあっけにとられながら、それでも言われるがままに窓の方を向いた。今更ながらカーテンを閉める。こんなところ誰かに見られてはたまったものじゃない。
しゅるしゅる、と布ずれの音が聞こえて、なんだか変な気分になってしまう。なんで今、俺の後ろであいつは着替えてるんだ。このあとどうしたらよいか全くわからない。俺は、俺はクライアントのお嬢さんに会って、いつかのウエディングドレスを否定しなければならないというのに。
「もういいぞ」
「……お前なあ」
ウエディングドレスは浴槽に置いてきたらしい。確かに乾燥しきったそこは、このあと大騒ぎするであろうこのベッドルームより安全だと言える。バスローブからすらりと伸びた美しい手足に、俺は唾をごくりと飲み込んだ。
「……なにを見ているんだ。むっつり」
「むっ……」
「思えば文次郎は、奥手で仕方がなかった。私の友人が告白しても、全部断って。断り文句が全部、勉強に集中したいから。そんなもの、百年の恋も冷めてしまう」
「……じゃあ、どうしろと言うんだ。知らない女といきなり恋仲になるだなんて、無理だ」
「そこを一歩踏み込むのが恋愛というものだろう。なんだ、アセクシャルか?」
「そうではないが……」
恋愛感情、というものについての理解は出来る。それに自慰行為だってするし、オカズは女性だ。だからアセクシャルではない――仙蔵に焦がれたことぐらいある。これは決して口にしてこなかったけれど。
仙蔵は、努力家で、意志の強い女だった。整った涼やかな顔立ち、長く美しい髪に多くの男は靡いたが、仙蔵こそそのどれもを断ってきたではないか。男子は汚いとか言って。
「……あの仙蔵が結婚ねえ」
「だから、しないと言っている。文次郎こそどうなんだ」
「……俺はこのあと、見合いだ」
「……ほう!」
仙蔵は面白いおもちゃを見つけたという顔をした。しまった、余計なことを言った。仙蔵は俺の隣に座りなおし、顔を近付ける。ふわりといい匂いが漂ってきて、俺は二度咳払いをした。
「どんな娘だ」
「知らない。今日初めて会う」
「写真くらい持ってるだろう」
「……ほれ」
スマホで、上司のラインをさかのぼる。お見合い用の盛れた写真が送られてきていた。黒髪の清楚そうな娘さんだ。薄桃色の着物が似合っている。
「かわいいではないか」
「どーだか」
「……お前はかわいくない」
「はあ?」
仙蔵は立ち上がって、俺の目の前に仁王立ちする。バスローブ姿の仁王立ちとはいささか滑稽である。
「この私がこんなあられもない恰好でいるのに、なんだそのツラは。少しは異性として意識するとかないのか」
「意識されたいなら慎ましやかにしやがれ」
「……だいたい文次郎が」
仙蔵が少しむくれツラをした瞬間、またピンポンとチャイムが鳴る。しまった、ルームサービスが来てしまった。俺は仙蔵に隠れろと合図を送るが、クローゼットの中は俺のスーツケースが、バスルームにはウエディングドレスが占領している。
「ど、ど、どうしよう」
「……いいか。いいか仙蔵。お前は俺の妻だ」
「えっ」
「いいか。お前は、俺の、妻だ!」
俺は仙蔵をソファに押し付け、ドアを開けに行った。やはりそこにはボーイがおり、にこやかにカートを押している。
「ルームサービスのお届けにあがりました。中に入っても?」
「……どうぞ」
失礼いたします、と滑るように部屋に入ってくるボーイに、背後から念じた。頼むから何も言わないでくれと。何も察さないでくれと。
部屋では仙蔵がにこにこと座っていた。まるで先ほどまでウエディングドレスで暴れ散らかしていたとは思えない落ち着きようだ。ボーイは一瞬戸惑ったのち、しかしすぐに元の所作に戻り、シャンペンを注ぎだした。
「グラスはお二つでよろしいですか?」
「あ、ああ。つ、妻の分もいれてくれ」
「かしこまりました」
俺は立ったままなのは不自然だと思い、仙蔵の横に座った。仙蔵はするりと俺の腕に腕を絡めた。ばかたれ、今そんなことをするな。俺の心臓は破裂しそうだった。
仙蔵が逃げてきた花嫁だとバレたら。俺が匿っていることがバレたら。事態は大事になる。いきなり不安と焦りが現実味を帯びて、俺の背中に嫌な汗が伝った。
「では、失礼いたします。ごゆっくりどうぞ」
ボーイはにこやかに一礼し、カートを押して帰っていった。俺は見送るとドアに鍵をかける。こんなとこ、見られてはいけなかったのだ。
「仙蔵、お前やっぱり帰れ」
「いやだ」
「俺を巻き込むな」
「いやだ。どこの馬の骨とも知れんヤツだったら帰ったろうが、他ならぬ文次郎だ。願ったり叶ったりじゃないか」
「……どういう意味だ」
仙蔵は俺にシャンペンを渡した。今はそれどころではない。けれどその魅惑的な飲み物はきらきらと俺を手招きしている。せっかく嫌がらせで高いものを頼んだのだ、飲まなけば。
二人で乾杯をした。このあとの地獄に向けて。仙蔵はくいっとグラスを煽ると、静かな声で語りだした。
「……私は、文次郎が好きだったんだよ」
「なっ」
俺は驚いてシャンペンを吹きだした。ああもう汚いな、と言って、今度は仙蔵がティッシュペーパーを渡す。
「文次郎が好きだったのに、素直になれなくて。まわりの友人たちがどんどん文次郎を好きになっていく。けれどお前は断ってばかり。安心したんだよ。誰のものにもならずにいてくれて。……本当は私のことが好きなんじゃないかって」
シャンペンは上等な味がした。少し甘くて、余韻が鼻を抜けていく。仙蔵の横顔は美しかった。
「けれどそれは幻想だった。お前は誰のことも好きにならないまま卒業していった。私に振り向くこともないまま。……私は臆病ものだった。私から声をかけるのはプライドが許さなかった」
仙蔵がグラスをゆらゆら揺らすと、中の液体もとろりと輝いた。あの頃の思い出が、ひとつひとつ弾けていく。
「そのままプライドの塊だった私は、お前にアタックすることもないまま、この歳まで来てしまった。しびれを切らした親に、こんな……」
仙蔵はバスローブの裾をぐいっとひっぱった。俺はいたたまれなくなって、仙蔵の肩を抱く。
「結婚、したくない……! 文次郎が好きだった、ずっと……!」
仙蔵の目から涙が溢れた。彼女の涙を見るのは、幼稚園ぶりだった。ピアノのお稽古が辛くて泣いていたのを、励ました記憶がある。――昔から、変わっていない。限界を超えるまで、ひたすらに頑張ってしまうんだ、こいつは。
「仙蔵」
俺は仙蔵を抱きしめた。華奢な肩に驚きながらも、美しい髪に頬を当てた。昔から、何度も何度も目を奪われた髪だ。
「俺も、お前のことが、好きだった」
「……!」
「恥ずかしかったんだ。笑ってくれ。男子たるもの、女子に惑わされてはいけないと思っていたんだ」
「……何だソレ、武士か……」
「ずっと、目で追っていた。それに気づかれたくなかった」
その気高さに、凛とした生き方に、ずっと憧れていた。小さい頃、何度も手をつないで帰った。それがどれだけ嬉しかったか。
「……文次郎がどんどん背が伸びて、声変わりもして。置いて行かれたような気持ちになったとき、自覚したんだ」
「そうだったのか」
「小学校の時、はじめてポニーテールにした日、文次郎が褒めてくれたから、それからずっと伸ばしていたんだ」
「そうだったのか……」
ぽろりぽろりと零されていく本音を、二人で掬いあげながら、シャンペンで流し込んだ。仙蔵の背中をぽんぽんと叩きながら、どうしたら彼女を救えるのかとばかり考えていた。自分のことなど二の次だった。
「好きだ。仙蔵」
「……遅い」
仙蔵はぐいっとグラスを飲み干した。ヤケ酒になっている。これは危険だ。彼女の酒癖の悪さを思い出した。二十歳になった時に乾杯したことがあるのだ。あの晩の地獄を忘れてはならない。
「おい、水も飲め」
「文次郎!」
ふたたび仁王立ちとなった彼女の頬は少し紅潮しており、しかしずいぶんとでかい声を出すものだから可憐さはなく、俺は呼ばれるがまま佇間いを直した。昔からこいつの号令にだけは弱い。
「お前、私と結婚しろ」
「……は?」
「私は結婚出来ればそれでいい。親にとっちゃ相手など誰でもいいのだ。文次郎はこのあとのお見合いを断る口実になる。winーwinではないか」
俺はぽかんとして仙蔵を見上げた。さもナイスアイデアと言わんばかりの仁王立ちにあっけにとられていたが、俺はつとめて冷静に我に返った。
「お前、この後結婚式じゃないのか。今更キャンセルなんて」
「ああ、今日はただの衣装合わせで来ていただけだぞ」
「……はあ?」
「籍もいれていない。体調の悪い祖母が早くドレス姿を拝みたいというから、急遽ドレスだけ見に来たんだ」
「……なんだよ……」
俺はへなへなと座り込んでしまった。なんという可哀そうな境遇か、と同情したのに。
仙蔵は俺の肩を叩いて、顔を覗き込んだ。勝気な顔には、さっきまでの悲しみの欠片も残っていなかった。
「な、文次郎。私を攫ってくれ」
「……どこへ」
「どこへでも。文次郎の行きたい場所へ」
俺はもうたまらなくなって、仙蔵を抱き寄せた。コイツのこういうところに惚れたのだった。惚れたもん負けだ。俺は仙蔵の顎を掬って唇を奪った。ふたりともシャンペンの味の唇だった。
「決まりだな」
「ああ。攫ってやるよ」
仙蔵のウエディングドレスを着るのを手伝ってやる。背中のチャックを一番上まで上げて、完成、と肩を叩いた。少し頬を赤らめた仙蔵は、やっぱりとても美しかった。
「お前だけのものになってやる」
とんだプロポーズだ。俺はもう、どうにでもなれと笑った。こいつの結婚話も、俺の見合いも、全部全部蹴とばしてやろう。
「行こう」
仙蔵を抱きかかえ、俺は歩き出した。ホテルオーカワは、ウエディングドレス姿の幼馴染を連れて歩くのに、うってつけの場所だった。
「俺は、こいつと結婚するので、お話はお受けできません!」
ラウンジでそう高らかに宣言した俺の伝説はまたたくまに会社に知れ渡ることとなる。そして、仙蔵の母親には殴られたのだった。
でこぼこの俺たちのゴールであり、スタートであった。