文仙
うららかな日であった。太陽の光はやわらかに差しこみ中庭を照らす。一月の空気は凛と張りつめていて、すがすがしい気持ちになれて好きだ。どこかで喜八郎の落とし穴に嵌った者の声が聞こえる。
「なあ、文次郎」
私の髪を梳く文次郎は、ん、とだけ答えて、手は止めなかった。隣に座り、ただ髪を愛でている彼の目は優しい。
「私の髪をくれてやると言ったら、どうする」
そこまで言うと、さすがの彼も手を止めた。自慢のサラサラヘアーがするりと彼の手から零れ落ちる。風がそれを攫って、空中に髪がたなびいた。
文次郎は近頃、私の髪を触る。手持無沙汰なのか、彼なりの愛情表現なのか知らないが、愛おしそうに慈しまれると、悪い気はしない。放っておくといつまでも撫でつけてくるので、ついに櫛を渡したのが先日だ。椿油を染み込ませてあるつげ櫛はしっくりと彼の手に馴染み、私の髪を滑り降りていく。
「よく言うだろう、愛しい人の髪を持ち歩くと、必ず帰れると」
「それは漁師のまじないだろう。俺はきっと一人で死ぬよ」
「そう言ってくれるな。お前は誰よりも生き延びろ」
もうすぐ卒業だ。進路はバラバラになる。いつかどこかで敵対することもあるだろう。それでも、私は文次郎との恋仲であった過去を忘れたくない。大切に仕舞っておきたい。
文次郎はそっと私の肩を抱き、頬に唇を寄せた。私は顔を傾け、その唇に唇を合わす。かさついた分厚い唇は少しだけ私を啄むと、すぐに離れてしまった。
「永遠の別れみたいで、嫌だな」
ぽつりと呟いた彼の目の下には、いつものように濃い隈がある。ああ、この生き急ぎ野郎は、いつか自分で自分の命を削りそうだ。あたたかい布団でぐっすりと眠ってほしいというのに。
「……最近、眠る時、仙蔵が出てくるのだ」
「池で寝ている時?」
「ああ」
「冬は死ぬぞ」
「鍛えているから死なん」
そうはいっても、体温まではコントロールできないだろうに。私はつい溜息を漏らす。彼と同じように、彼の髪を撫でた。私より随分と短いそれを。
「俺が死ぬとき、走馬灯にはお前が出てくるのだろうな、と思う」
「……なんだそれは」
決してふざけている口調ではなかった。私は彼の肩にもたれかかり、落とし穴の底からの叫び声を聞き流す。いつかは私も死ぬのだ。その時の走馬灯に、お前は来てくれるだろうか。
「……最後まで、一緒ってことだな」
「そういうことだ」
「じゃあ、文次郎の髪を私にくれないか。お前と一緒に逝くよ」
私は鋏を探そうと立ち上がるが、文次郎がそれを引き留めた。腕を掴んだ手も、唇と同じくらいかさついている。文次郎の目は真剣だった。
「……やっぱり、俺も仙蔵の髪が欲しい」
「……この私の宝だぞ。感謝するんだな」
「そっちが言い出したんじゃないか」
鋏と一緒に、小袋も用意する。懐に忍ばせておくにはちょうど良い大きさだ。
私は文次郎の髪にそっと鋏を差し込んだ。文次郎は無言だった。ちゃき、と刃物の合わさる音、はらりと手の中に落ちてくる黒髪。
「これがある限り、私はお前のもとに帰ってくるよ」
「……交代だ」
今度は私が座り、文次郎が膝立ちになる。私の長い髪に何度か指を通し、愛おしそうに撫でたあと、ちゃき、と音が聞こえた。魂を半分やった心地になった。たかが知れている量だから、頭の重さは変わらない。
文次郎は長髪を大事そうにくるくるとまとめ、小袋につめた。これが彼を現世に引き留める約束となりますようにと、願わずにはいられない。
「……金を貯めたらさ」
「金?」
「一緒に暮らさないか」
文次郎のその言葉の意味を理解するのに、数刻かかってしまった。私は大声で笑い、文次郎はなんだなんだと慌てだす。
「いや、お前らしいと思ってな」
さっきまで、走馬灯がどうとか、髪はいらないとか言っていたくせに。私は別れの挨拶を何にしようか、ずっと考えていたというのに。とんだ拍子抜けだ。
ひとしきり笑って涙を拭き、また文次郎の唇に唇を合わせた。彼が抱きしめてくれる時、肩の広さを感じる。
「ああ、いいぞ。共に暮らそう」
「……いいのか」
「生きて帰る理由に、それほど最適なものがあるか」
「俺は、別れる気などないと、そう言っているんだぞ。お前が卒業と同時に俺たちの仲もこれまでと、切ろうとしているのは知っている」
「束の間の戯れだったじゃないか。でも気が変わった。文次郎がそんなにも熱烈に私を愛しているならば、応えてやらないと」
文次郎は耳まで真っ赤になっていて、彼なりに一所懸命に愛を誓ってくれたのだと思うと、やっぱり笑いが込み上げてくるのだった。ああ、いいさ。お前のものになってやる。
お互いの手の上に転がった小袋に、それぞれが手を置いた。自分の命を分け与えるように。これがこの人の命を守ってくれますようにと。
誰かが落とし穴から這い出た声がする。ひどいよ、という情けない声を聞くのも、そろそろ仕舞いだ。戦場に行ったら、そんなこと言っていられない。
「……もとから、落ちているようなものだ」
「文次郎?」
「お前という落とし穴に」
「……なかなか抜け出せないだろう、それは」
「自分で言うな」
気付かぬうちに踏み抜いて、深い深い底に落ちていくのだ。私もだよ、と言って、文次郎の手を握った。私も、お前という落とし穴から抜け出せずにいるんだ。
どこまでも深い穴に。
そうしてしばらく座っていたが、小平太がバレーをはじめた音が聞こえたので、私たちはそそくさと逃げた。巻き込まれるに決まっているのだ。
今しがた交わした約束が、胸にぽっと灯ったのを、誰にも気づかせてはいけない。私は短くなった箇所の髪を指で撫でてから、いつもの涼やかな顔を作った。
文次郎は算盤を担いで出て行ってしまった。彼の胸にも約束が宿っていると思うと、生きねば、と誓わずにはいられない。
いつか一緒に暮らすその日まで。
また誰かが落とし穴に嵌る声がする。救出するために、私は走る。
「なあ、文次郎」
私の髪を梳く文次郎は、ん、とだけ答えて、手は止めなかった。隣に座り、ただ髪を愛でている彼の目は優しい。
「私の髪をくれてやると言ったら、どうする」
そこまで言うと、さすがの彼も手を止めた。自慢のサラサラヘアーがするりと彼の手から零れ落ちる。風がそれを攫って、空中に髪がたなびいた。
文次郎は近頃、私の髪を触る。手持無沙汰なのか、彼なりの愛情表現なのか知らないが、愛おしそうに慈しまれると、悪い気はしない。放っておくといつまでも撫でつけてくるので、ついに櫛を渡したのが先日だ。椿油を染み込ませてあるつげ櫛はしっくりと彼の手に馴染み、私の髪を滑り降りていく。
「よく言うだろう、愛しい人の髪を持ち歩くと、必ず帰れると」
「それは漁師のまじないだろう。俺はきっと一人で死ぬよ」
「そう言ってくれるな。お前は誰よりも生き延びろ」
もうすぐ卒業だ。進路はバラバラになる。いつかどこかで敵対することもあるだろう。それでも、私は文次郎との恋仲であった過去を忘れたくない。大切に仕舞っておきたい。
文次郎はそっと私の肩を抱き、頬に唇を寄せた。私は顔を傾け、その唇に唇を合わす。かさついた分厚い唇は少しだけ私を啄むと、すぐに離れてしまった。
「永遠の別れみたいで、嫌だな」
ぽつりと呟いた彼の目の下には、いつものように濃い隈がある。ああ、この生き急ぎ野郎は、いつか自分で自分の命を削りそうだ。あたたかい布団でぐっすりと眠ってほしいというのに。
「……最近、眠る時、仙蔵が出てくるのだ」
「池で寝ている時?」
「ああ」
「冬は死ぬぞ」
「鍛えているから死なん」
そうはいっても、体温まではコントロールできないだろうに。私はつい溜息を漏らす。彼と同じように、彼の髪を撫でた。私より随分と短いそれを。
「俺が死ぬとき、走馬灯にはお前が出てくるのだろうな、と思う」
「……なんだそれは」
決してふざけている口調ではなかった。私は彼の肩にもたれかかり、落とし穴の底からの叫び声を聞き流す。いつかは私も死ぬのだ。その時の走馬灯に、お前は来てくれるだろうか。
「……最後まで、一緒ってことだな」
「そういうことだ」
「じゃあ、文次郎の髪を私にくれないか。お前と一緒に逝くよ」
私は鋏を探そうと立ち上がるが、文次郎がそれを引き留めた。腕を掴んだ手も、唇と同じくらいかさついている。文次郎の目は真剣だった。
「……やっぱり、俺も仙蔵の髪が欲しい」
「……この私の宝だぞ。感謝するんだな」
「そっちが言い出したんじゃないか」
鋏と一緒に、小袋も用意する。懐に忍ばせておくにはちょうど良い大きさだ。
私は文次郎の髪にそっと鋏を差し込んだ。文次郎は無言だった。ちゃき、と刃物の合わさる音、はらりと手の中に落ちてくる黒髪。
「これがある限り、私はお前のもとに帰ってくるよ」
「……交代だ」
今度は私が座り、文次郎が膝立ちになる。私の長い髪に何度か指を通し、愛おしそうに撫でたあと、ちゃき、と音が聞こえた。魂を半分やった心地になった。たかが知れている量だから、頭の重さは変わらない。
文次郎は長髪を大事そうにくるくるとまとめ、小袋につめた。これが彼を現世に引き留める約束となりますようにと、願わずにはいられない。
「……金を貯めたらさ」
「金?」
「一緒に暮らさないか」
文次郎のその言葉の意味を理解するのに、数刻かかってしまった。私は大声で笑い、文次郎はなんだなんだと慌てだす。
「いや、お前らしいと思ってな」
さっきまで、走馬灯がどうとか、髪はいらないとか言っていたくせに。私は別れの挨拶を何にしようか、ずっと考えていたというのに。とんだ拍子抜けだ。
ひとしきり笑って涙を拭き、また文次郎の唇に唇を合わせた。彼が抱きしめてくれる時、肩の広さを感じる。
「ああ、いいぞ。共に暮らそう」
「……いいのか」
「生きて帰る理由に、それほど最適なものがあるか」
「俺は、別れる気などないと、そう言っているんだぞ。お前が卒業と同時に俺たちの仲もこれまでと、切ろうとしているのは知っている」
「束の間の戯れだったじゃないか。でも気が変わった。文次郎がそんなにも熱烈に私を愛しているならば、応えてやらないと」
文次郎は耳まで真っ赤になっていて、彼なりに一所懸命に愛を誓ってくれたのだと思うと、やっぱり笑いが込み上げてくるのだった。ああ、いいさ。お前のものになってやる。
お互いの手の上に転がった小袋に、それぞれが手を置いた。自分の命を分け与えるように。これがこの人の命を守ってくれますようにと。
誰かが落とし穴から這い出た声がする。ひどいよ、という情けない声を聞くのも、そろそろ仕舞いだ。戦場に行ったら、そんなこと言っていられない。
「……もとから、落ちているようなものだ」
「文次郎?」
「お前という落とし穴に」
「……なかなか抜け出せないだろう、それは」
「自分で言うな」
気付かぬうちに踏み抜いて、深い深い底に落ちていくのだ。私もだよ、と言って、文次郎の手を握った。私も、お前という落とし穴から抜け出せずにいるんだ。
どこまでも深い穴に。
そうしてしばらく座っていたが、小平太がバレーをはじめた音が聞こえたので、私たちはそそくさと逃げた。巻き込まれるに決まっているのだ。
今しがた交わした約束が、胸にぽっと灯ったのを、誰にも気づかせてはいけない。私は短くなった箇所の髪を指で撫でてから、いつもの涼やかな顔を作った。
文次郎は算盤を担いで出て行ってしまった。彼の胸にも約束が宿っていると思うと、生きねば、と誓わずにはいられない。
いつか一緒に暮らすその日まで。
また誰かが落とし穴に嵌る声がする。救出するために、私は走る。