綾滝

 昨日、マグカップを割ってしまった。
 いつ買ったか覚えていないやつだ。白地に、緑のラインが引いてあるだけの、シンプルなデザイン。たぶん、何かの景品だったのだろう。特に思い入れもないので、持ち手が折れてしまっても、気持ちは沈まなかった。
「で、なんでそれが引越しに繋がるんだ」
 SUUMOのサイトを見ていると、滝夜叉丸は怪訝そうな顔をする。こいつはいつも、僕の挙動に顔をしかめる。
「いい機会だと思ったんだよ。それだけ」
 僕は1Kか1Rか、ロフトのありなしを真剣に悩んでいるのに、滝夜叉丸は盛大な溜息を吐きながら、「まあ待て」と言った。ノートを広げ、ボールペンで四角を書く。
「まず、私は自分の部屋が欲しい。収納も欲しいところだ」
「は?」
 四角のなかに線を引き、さらに小さい四角が出来ていく。左右二つに割れた四角の真ん中に、滝夜叉丸は「私」「喜八郎」と書き込んだ。
「ベランダは繋がっていたほうが、洗濯物が干しやすいだろう。それからオートロック……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 僕はスマホを置いて、滝夜叉丸の右手を止める。こうしないと、ペンがどんどんと四角を生み出していってしまう。
「僕たち、一緒に暮らすの?」
「いい機会じゃないか」
「誘ってないんだけど」
「でも、いい機会だろう?」
 滝夜叉丸の大きな瞳が、僕を覗き込んだ。まるでそれが当たり前の決断かのように、 僕を信じて疑っていない。なんだか気圧されてしまって、僕はうっかり「いいけど」と言ってしまう。
 マグカップ、新しいのを買わなくちゃ。僕のぶんと、滝夜叉丸のぶん。だって、そのために引っ越すのだから。
「賑やかになりそうだな」
「主にお前がね」
 白い戸棚を買おう。マグカップを飾るための。僕は一日の終わりに、滝夜叉丸におやすみを言うところを想像した。なんだかはるか昔にも、毎晩言っていたような気がした。
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