綾滝

 蛾をすり潰して絵具にしたあたりで、自分が狂いだしていることに気付いた。授業の課題に「美しい物を描け」というものが出た、同室の美しさが残酷なまでに眩しいので、嫌味ついでにそれを描き留めてやろうと思っただけなのに。何枚描いても納得できない。部屋で、廊下で、穴の中で、様々な方法で筆を動かしたが、部屋に貼られた悪趣味なポスターの足元にも及ばない塵屑ができあがるばかり。土の中で頭を抱えていた。湿った匂いに包まれる。
「喜八郎……?」
 穴の上から声が降る。見上げると三木ヱ門の顔があった。
「大丈夫か?」
「大丈夫……ではない、かな」
 三木ヱ門に引っ張りあげられて、穴から這い出る。土で汚れた紙をくしゃくしゃと丸めた。これで何枚目だろうか。もったいないという感覚すらなくなった。課題を提出出来ていないのは、もう僕だけなのに。
「私にすればよかったのに」
 誘われて、ろ組の部屋で三木ヱ門と一緒に茶を啜った。守一郎は委員会で出ているらしい。
 息抜きが必要なことはわかっていた。何かにずっと急かされている気分になって仕方がない。もちろん課題には追われているのだが。少しぬるくなった茶が、腹に染み渡っていく。
「何故私にしない? 私だって忍術学園のアイドルだ、美しいだろう」
「……なんでだろうね」
 三木ヱ門はおどけてみせるが、茶化しはしなかった。彼は自画像を提出していたはずだ。それで課題クリアだったそうだから、確かにそれでもいいのかもしれない。
「なんだろうね。僕だってアイツを描くのは不愉快ではあるんだけど、描かずにはいられなかったんだよ」
「……喜八郎のなかで、美しいと思える方法で描ければ、それでいいんじゃないか。そっくりに描かなくたって」
 三木ヱ門は「あまり考えすぎるなよ」と僕の背中を叩いた。一年の頃からずっと一緒の級友の言葉に励まされて、少しだけ頭がすっきりとする。礼を述べて、い組の部屋へと戻った。悪趣味なポスターは、相変わらず目にうるさい。
「……なんで、お前を描こうと思ったんだろう」
 紙を広げる。筆に墨を浸す。彼の輪郭をなぞる。やっぱり気に入らない。
 いい加減違うものを描こうか? そう思って顔を上げると、なんとそこには滝夜叉丸が立っていた。
「まだ描けていないのか、喜八郎」
「……うるさいな」
「まあ、私はそれくらい美しいからなあ」
 滝夜叉丸は僕の前でさまざまなポーズをとるが、やかましいだけだ。僕が描きたい彼はそんなのではなかった。うまく説明ができない。
「……そういえば、お前は何を描いたの」
 ふと、滝夜叉丸に訊いてみた。訊かなくともきっと彼のことだから、三木ヱ門と同じく自画像にしたのだろう。しかし帰ってきた言葉は、想像とは違うものだった。
「……お前だ」
「え?」
「喜八郎を描いた」
 滝夜叉丸の、しんしんとした静かな声。庭を駆けていく下級生の声が響いてくるなか、それは小さく呟かれた。
「私は、お前が美しいと思ったんだ。喜八郎」
 世界が鮮やかになった気がした。僕の世界の中で光っている彼の顔を、やっと捉えられた気がした。ほんのりと染まった頬、気まずそうな表情、眉間に寄った皺。
「……滝夜叉丸って、僕のこと好きだよねえ」
「うるさい、それはお前だろう。喜八郎が私のことを好きなのだ」
 なんだ、簡単なことだったんだ。僕は納得して、再び筆を取った。滝夜叉丸が横から覗き込む。今までと違ってすらすらと動く右手は楽しかった。悩んでいたことが嘘のように、あっというまに絵ができあがっていく。
「滝」
「ん? ……痛っ」
 滝夜叉丸が僕の顔を覗き込んだ瞬間に、唇を奪った。奪ったついでに歯を立てる。彼の唇がつぷりと音を立てて裂ける。その血を指でなぞって、似顔絵の唇に撫でつけた。
「完成」
「……痛いではないか! 私の美しい顔によくも傷をつけたな!」
「そんな場所、僕以外に誰も気づかないよ」
 唇が赤い絵ができた。蛾なんて潰さなくてよかったのだ。そっくりに描けてはいないかもしれないが、どこか妖しく光る絵に僕は満足した。僕が惹かれるものを描けばよかったんだ! 騒ぐ滝夜叉丸を置いて先生のところへ絵を提出しに行き、帰りついでに医務室へと寄った。
「唇が裂けてしまって、塗り薬はありませんか」
 当番の伊作先輩が眉尻を下げて笑う。
「なかなか治りづらい場所だねえ。はい、この薬をあげるよ」
 小さな貝殻を受け取る瞬間、伊作先輩は僕の耳元で囁く。
「喜八郎のじゃないね?」
「……ひみつです」
 やはり六年の先輩には敵わない。全てを察されているだろうが、ひとまず薬をいただいて、自室への道を戻っていった。
 部屋では滝夜叉丸が「血を流す自分も美しい」と言っているのだろう。うるさいよ、と返して薬を塗り付け、黙ってもらうことにしよう。唇で塞いだっていいけれど、彼の血の味の苦さったらないので、大人しくしていようじゃないか。絵の完成に免じて。
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