綾滝

 滝夜叉丸の家に遊びに行くと、必ず最初に庭に案内される。
 彼女のお母さんは庭をいじるのが趣味で、いつも季節の花が爛漫に咲き乱れている庭は、それはもう美しいものだった。
 イベリス、ビオラ、プリムラ、スイセン。お母さんはひとつひとつの花の名前を教えてくれながら、僕のたったひとつの言葉を待っている。それは物心つく前からの慣習なので、僕は難なく言葉を発することができる。
「素敵です。丹精込めてつくってるのがわかります」
「うふふ。ほんとう?」
「お母さんが美しくて優しいから、花も美しく咲いて、優しい匂いがするんでしょうね」
 泥の味のする言葉が、するすると出てくる。お母さんは大変嬉しそうな顔をして、満足げに頷いた。どうして僕がこうもさらさらと舌を動かせるのかというと、これさえ言っておけばおいしい紅茶とクッキーを出してもらえるからにすぎないのだが。
「もういいか、母さん」
「滝ちゃん、もう、遅い」
 僕らの背後に現れた滝夜叉丸に向かってお母さんはおどけた声で言い、僕は二階へあがる許可を得る。年頃の女の子の部屋に無断で入るわけにはいかないと、さすがの僕でも理解はしているので、めでたく得た許可にお礼を言ってから、滝夜叉丸の部屋へと行った。
「いつもいつもすまないな、母さんに付き合わせて」
「このくらい良いよ。慣れてるし」
「……もうこの家にあがれるのは、喜八郎だけだ」
 お母さんのアレのせいで、滝夜叉丸は友達と何人か疎遠になっている。家の者の様子がおかしければ距離をとる、思春期の危機管理能力としては充分な理由だ。
「私はもう疲れた」
「……滝だって、お花、好きだったでしょう」
「今では憎いよ」
 美しい横顔に影が落ちる。僕は右手を伸ばして、彼女の頬を撫でた。昔は紅かった頬が、近頃はすっかり青ざめている。
 お母さんのアレは、年々ひどくなっているのを、僕は知っている。まるで白雪姫の魔女みたいだ、と思っていた。鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰。庭が鏡で、僕が魔人。あなたが美しいから、花は美しく咲くのでしょう。花がこんなに美しいということは、あなたが美しいということですよ。
 僕は紅茶とクッキーを引き換えに上辺だけの言葉を唱えているに過ぎないので、ダメージはない。そういうことには区切りをつけるのが得意だ。そこは滝夜叉丸も心配していないようで、だからこそ僕を家に招いてくれる。
 頬を撫でていた手を床に落とした。お母さんが階段を上ってくる音がしたからだ。僕はあえてあぐらをかき、演出をする。彼女には――滝夜叉丸に対しては、性的興味を抱いていませんよ、という演出。
 お母さんが上機嫌で紅茶とクッキーを置いていった。紅茶はオレンジペコにしたの、クッキーの方にアールグレイの茶葉を練り込んであるから、という説明を残して。僕はまた「おいしそう、嬉しいです」とお決まりの文句を唱える。実際、紅茶もクッキーもおいしかった。お母さんが去ってから、僕は滝夜叉丸の顔を覗き込む。
「たーき」
 滝夜叉丸はハッと顔を上げて、無理をしてにこりと笑ってみせる。僕はクッキーを紅茶で流し込んで、あぐらを解いた。彼女に近付くと、大きな瞳が僕を映し出す。
「私は、お花だったんだ。かわいいかわいいと、育てられた」
「うん」
「彼女は、魔女なんだ。その花が、いつしか自分を脅かす存在だとわかると、とたんに」
「滝」
 僕にとっては、花のままだ。滝夜叉丸は、可憐な薔薇のようだった。いつだって輝きに満ちていて、いい香りがする。もう一度頬を撫で、絹糸のような髪を掻き上げてやり、そっと唇を寄せた。
 お母さんには知られていない、僕たちだけの秘密。何度も、何度も熱を移し合う。
 愛を交わし合うことが、いっそう滝夜叉丸の美しさを磨くものだと知っていても、止められない。僕も魔女なんだろうか。邪悪な、よこしまな思いを抱いた、醜い生き物。止められない。舌で舌をなぞる。背筋がぞくぞくする。
「喜八郎は、私のもとからいなくならないよな?」
「もちろん。ずっと一緒にいるよ」
「いつか、連れ出してくれるよな?」
「高校を卒業したら、二人暮らししよう」
 果たして、この城はそう簡単に攻め落とせるだろうか。僕は王子様になれるだろうか。不安は尽きない。未来は見通せない。滝夜叉丸の部屋のピンク色のカーテンが、目の端でどくどくしい。窓は閉め切っていて、庭の香りを決して入れないという意思が満ちていた。
「……小さい頃、薔薇の蕾を見つけては、名前をつけていたんだ」
「庭の?」
「蕾が花開くたび、おめでとう、なんとかちゃん、と言って喜んでいた。彼女にはそれが不気味に映ったようだ。自分より花と会話しているように見えたのだろうか。何故だか頬を殴られた」
 僕は滝夜叉丸を抱きしめた。やわらかくてあたたかい、このまま抱きつぶしたら壊れちゃうんじゃないかという弱々しさ。外では決して見せない姿。
「薔薇に名前を付けることを禁じられた。私は友を失った。花びらが散っていくたびに悲しんだ。私が名前を与えなかったせいだ、と思って泣いた。彼女はまた私を殴った」
 さらさらの髪が、僕の腕の上で揺れる。僕の胸の中で、滝夜叉丸がどんな表情をしているのかは見えない。背中をさすることしかできない。
「……花が嫌いだ。花が咲きこぼれる、春が嫌いだ」
「僕は、お前が好きだよ」
 腕の力を緩め、滝夜叉丸の顎を掬った。いつも大衆の前では堂々と胸を張り、自信に満ちた笑顔で輝いている彼女の、長いまつ毛が濡れている。
 もう一度、キスをする。あの魔女の知らない、姫の唇の味。薔薇の蕾の味だと思った。オレンジペコでもアールグレイクッキーでもない、香しい甘さ。秘密の味。僕は何度でもそれを吸う。
 王子の特権だと思う事にする。魔女にとっては、僕自身も魔女に見えるかもしれないけれど、滝夜叉丸にとって王子様なら、僕はその責務を全うしよう。
 泥の味のおまじないを放り投げて、いつか鏡を割ってやろう。魔女の破滅を祝おう。まっさらな庭で。
 滝夜叉丸がへにゃりと笑う。頬に紅みが戻る。ああ、やっぱり彼女自身が薔薇なのだ。でもこれは言わないでおく。僕の中で名前を付けて、そっと仕舞っておく。いつかそれを剣にできるように。
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